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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
郵便配達員の手紙

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43/50

雨の日の約束

『郵便配達員の手紙』はこの第五話でひと区切りです。静かな町で日々の想いを運んできた配達員・結城春人が、ついに“自分宛て”の一通に出会います。桜、青い封筒、雨の色、風の往復――それらが静かに合流して、一つの約束に還っていきます。どうか最後まで、ゆっくり受け取ってください。

午前の空は、春の雨で薄く滲んでいた。


結城春人は、仕分け台の端に積んだ束を数え直し、最後の一通に手を止めた。白い封筒。角は柔らかく、紙はすこし黄味を帯びている。差出人欄には何もない。宛名は、穏やかな筆跡でこう記されていた。


『結城春人 様』


胸の中で、何かが落ちて音を立てた。自分の名を、配達前の朝に封筒で見ることは滅多にない。仕事上の通達なら局の印が押されているはずだ。だが、その宛名の字は――見覚えがある。幼いころ、ノートの表紙に書いてもらった、あの字に似ていた。


「どうした」


課長が湯呑を片手に覗き込む。


「いえ……自分宛てが、一通」


「私信か。上がりで読め。配達の足は止めるなよ」


春人はうなずき、封筒を郵袋の内ポケットに滑らせた。紙が胸に触れて、そこだけ体温が変わる。ベルを鳴らして局を出ると、雨は細く、町の色が一段やわらいで見えた。


角のパン屋から甘い匂いが漏れ、海は灰色の薄布をかけたよう。桜のポストの枝先に、昨日よりひとつ多く白い花。春人はいつもの順でポストを巡り、投函口の金属音に耳を澄ませながら坂を上った。


ふと、胸のポケットの封筒が、内側で軽く擦れた。ふたつの紙が触れたような微かな音。春人は自転車を停め、庇のある商店の前で雨を避けた。封を破るかどうか、迷った。仕事の手を止めたくない。けれど、この雨の温度は、なぜか“今日”でなくなると叶わない約束の温度のように思えた。


春人は封筒を取り出し、指先で端の糊の乾き具合を確かめた。糊は丁寧に引かれ、ほんの少しだけ角が薄く浮いている。そこに、指の腹で触れた覚えのある小さな紙片の凹み。見覚えのないはずの手触りに、記憶の底で昔の台所の明るさがよみがえる。雨の日、窓の湯気、白いマグカップ。


封を切らず、春人はもう一度封筒を胸に戻した。先に配るべき家がある。誰かの“今日”を遅らせたくない。そうしてペダルを踏み出すと、合羽の裾が雨をはじいた音と一緒に、遠くの方でベルのような澄んだ響きが重なった。桜のポストの「コトン」に似た音。町の別の場所で、誰かの手紙が今、届いたのだ。


川沿いの道に出ると、風はほとんどなかった。第三話で出会ったアトリエの前を通ると、窓に薄い青の画布が立てかけられている。雨の粒がガラスに当たって、色が内側から灯っているように見えた。春人はベルを鳴らさずに通り過ぎる。今日は、誰の物語にも余計な音を混ぜたくなかった。


風見坂を下り道から見上げると、風見鶏は東を指していた。白い家のポストは静かに口を閉ざしている。春人はそこで足を止め、ひと呼吸だけ長く息を吸った。ローズマリーの匂いが、雨に濡れた土の匂いのずっと奥で、薄く生きている。


午前の配達を終え、局に戻る。湯気の立つポットの隣、壁の時計は十一時半。春人は仕分け台の端に腰をかけ、胸の封筒を取り出した。誰も見ていない。雨音が窓をやさしく叩く。封を開く音が、部屋の空気を細く分けた。


便箋は二枚。細いペン字で、少しだけ揺れながら、確かにそこに在る文字。読み始める前に、春人は無意識に背筋を伸ばした。


――春人へ。


雨の音で目が覚めていないかと、勝手に心配しています。あなたは小さいころから、雨の日の朝にすこし体温が下がる子でした。ミルクの温度が一度でも違うと、すぐに分かる子でした。今も、紙の温度で心の温度が変わるでしょう。


ここまで読むだけで、春人は息を詰めた。行間に、台所の湯気が立ちのぼる。木のテーブル、マグの白、窓の水滴、朝の匂い。母の声は、文字の輪郭でそこにいた。


――あなたが初めて手紙を書いた日、覚えています。桜の木の下で。「ありがとう」とだけ書いて、投函口に手が届かなくて、背伸びしたあなたの背中が、春の光でした。あの日の紙は、いまでも私の引き出しのいちばん下にあります。


春人の胸に、桜のポストの金属音が広がる。第一話の朝と地続きの音。記憶は繋がっているのに、ずっと気づかずにいたような、やさしい痛み。


――もしこの手紙があなたに届くなら、私はこの町にいないでしょう。だから、書き方を工夫しました。あなたが普段配っている封筒の束の中に紛れても見つけられるように、紙は古い便箋、インクは薄い青。差出人は書かないことにしました。宛名だけ、ゆっくり書きました。あなたの名前は、ゆっくり書くと、やわらかい形になるから。


春人の指が便箋の端をそっと撫でた。薄い青のインク――第二話の青い封筒を思い出す。未来の自分を励ます少女の字と、母の字が、遠いところで手を振り合っているように思えた。


――お願いがあります。雨の日に、ひとつだけ、約束をしてほしいのです。あなたが誰かのためにベルを鳴らすとき、あなた自身のためにも、一度だけ鳴らしてください。あなたはいつも“誰かの今日を遅らせたくない”と言って、自分の“今日”を後ろに回してしまうから。


そこまで読んで、春人は思わず笑った。見透かされている。けれど、その笑いの奥に、涙がすぐに来られる場所が用意されているのが分かった。


便箋の二枚目に、ゆっくりと続きがあった。


――あなたがこの町で配る手紙の中には、あなたの背中より大きな祈りが入っていることがあります。あなたがそれを知らなくても、祈りは届きます。けれど、知って運ぶと、もっとあたたかく届きます。だからどうか、あなたも自分の祈りを、誰かに預けてください。届くかどうかは、私が風に頼んでおきます。


最後の行に、柔らかい署名があった。その名前を見た瞬間、春人の呼吸が一度だけ止まった。母の名。見慣れた、でも、ずっと手の届かないところに置いてきた字。


封筒の中には、もう一つ、小さな紙片が入っていた。四つ折りのままの古い切手。桜の花が印刷されている。裏に、小さく鉛筆で「雨の日の約束」と書かれていた。


春人は便箋を折り、封筒に戻した。手袋を外し、両手で封筒ごと胸に当てる。そこに自分の心臓がいることを、改めて確かめるように。雨の音が、窓ガラスの向こうでやわらかく拍を刻んだ。


昼の便までに、まだいくつかの家が残っている。春人は立ち上がり、便箋の余韻を胸に仕舞って玄関へ向かった。ドアを押すと、湿った空気が頬に触れる。その手触りが、母の文字の“紙の温度”に少し似ていた。


午後の最初の配達先は、第二話の少女・滝本結衣の家の近くだった。玄関先には、小さな鉢植えと、青い封筒の空き箱。ベルを鳴らすと、結衣の母親が出てきて、丁寧に頭を下げた。「いつもありがとうございます」。台所の奥から、短い音階が流れてくる。結衣が練習している。春人は微笑んで、深く礼を返した。音は、手紙のように、家の中の空気をやさしく揺らしていた。


川沿いに出ると、第三話のアトリエのガラスが雨粒で曇っていた。窓辺に、小さな紙片が貼られている。『在室』の手書き文字。春人は通り過ぎる前に、自転車を止め、ベルを一度だけ鳴らした。内側で気配が動き、誰かの笑い声が、絵の具の匂いに混じって溶けていく。あの青は、今日も元気だろうか。そう思うと、それだけで胸の奥が少し温かくなる。


風見坂の手前で、春人は一度足を止めた。坂の上の白い家は、きょうは静かだ。ポストは赤く、口を閉じている。風見鶏は南を指し、動かない。春人はハンドルに顎を乗せ、短く目を閉じた。ローズマリーの青い香りが、雨で薄く伸びて、鼻の奥で丸く留まる。美智の「ありがとう」の二文字が、いまも薄明かりのなかで生きている気がした。


そのとき、胸のポケットの封筒が、もう一度、内側でそっと音を立てた。切手の紙が、ほかの紙に触れる、ほんのかすかな音。春人はポケットに手を入れ、桜の切手を指先で確かめる。四つ折りの角が、指に触れて、雨の冷たさとは違う温度を持っていた。


「雨の日の約束」


小さく、声に出してみる。言葉は、雨にほどけずに胸の中に沈んだ。午後の雲は低く、海は静かだった。春人は坂を上らず、もう一度ペダルを踏んで海沿いの道へ戻った。桜のポストに寄りたいと思った。あの金属の「コトン」を、今日は自分のためにも一度だけ鳴らしてみよう――母の手紙の、最初のお願いを、雨のうちに叶えるために。


昼前から雨脚が強くなった。配達を早めに切り上げ、春人は局の裏口から外へ出た。ポストの鍵束がポケットで冷たく鳴る。手帳の今日のページには、今朝の手紙に記されていた四つの言葉が並んでいる――「桜」「青」「雨」「風」。


最初に向かったのは、桜のポストだった。投函口の鍵を回すと、金属が小さく震える。中には、広告の束にまぎれて小さな紙片が一枚。白い便箋の端をちぎったようなそれには、鉛筆で丸い音符が描かれていた。黒く塗られていない、空気のままの音。裏には、小さく「①」とだけ。春人はそれを掌にのせ、濡れた石段を下りた。紙は雨に濡れなかった。まるで、誰かが傘を差し出しているみたいに。


川沿いへ出ると、雨は細かな糸になっていた。三話で訪れたアトリエの前、掲示板の影に、細い青い封筒が差し込まれている。星のシールは貼られていない。封は開いており、中には薄い青の便箋が一枚。――今日は右手だけで、ド・ミ・ソ。見覚えのある手の癖。滝本結衣の筆跡に似た丸み。便箋の端にはやはり小さく「②」。春人は微笑んだ。指先に、あの朝のベルの音がよみがえる。


雨の匂いが濃くなる。アトリエのガラス越しに、有馬沙羅の描いた空色が薄い光を吸い込んでいる。扉は閉まっているが、取手に薄い紙が結わえてあった。小さな切手の台紙を折った栞。切手の図柄は雨粒とローズマリー。裏面に、万年筆の細い字で――『川の匂いを吸ってごらん。あの匂いは、あなたの青』。その下に、さらに小さく「③」と数字。


春人は栞を胸ポケットにしまい、風見坂へ向かった。風が強い。坂を半分のぼったところで、赤いポストの口がふっと開き、封のないクリーム色の封筒が一枚、春人の足元へ滑り落ちた。宛名はない。差出人欄には、丸い字で「美智」。封筒の中には、短い便箋が二枚重ねて入っていた。――君へ。西。雲がひくい。――おはよう。風が強いね。それぞれの端に、細い鉛筆で「④」「⑤」。


数字は続いている。春人は雨の中で手帳を開き、今朝の手紙の最後の行をもう一度読む。『四つの言葉は道しるべ。最後は、あなたの“最初”へ』。最後、最初。胸の奥で小さな鈴が鳴った。春人の“最初”――配達員として最初に鍵を預かった日、最初に回ったポスト。記憶の地図が湿った紙みたいにゆっくり広がっていく。最初のポストは、駅裏の小さな広場にある古い角型だ。春人がまだ研修中に、課長の隣で緊張して鍵を回した、あの真四角の赤。


駅裏の広場は、雨に薄く煙っていた。軒を借りた花屋が、ローズマリーの鉢を外へ出し、その香りが雨でふくらんでいる。角型ポストの鍵穴にそっと鍵を差すと、金属がやわらかく受け入れた。扉を引くと、中に封筒が一通。見覚えのない紙。白にごく薄い灰の繊維が混じった、古い公文書用の封筒だ。宛名も差出人も書かれていない。封の下辺にだけ、鉛筆で小さな数字――「⑥」。


春人は封を切らなかった。切ってしまえば、何かが終わる気がしたからだ。代わりに、封筒の端を光に透かす。薄い紙影が揺れ、中の便箋の一行が反転して読める。『あなたへ――』その書き出しの癖を、春人は知っていた。幼いころ、熱を出すたびに枕元に置かれる、白い紙コップといっしょにあった小さなメモ。『はるとへ みずのむこと』横画が少し長く、止めの筆圧がかすかに残る、母の字。


雨脚が、ふっと弱まった。花屋の店主が小さく鼻歌を歌い、ローズマリーの枝についた水滴がひとつ落ちる。春人は封筒を胸ポケットにしまい、局へ戻る道を選ばず、海沿いへ出た。波の色は鉛に近い。それでも、波頭の白を見ていると、音が少し明るくなる。


堤防を歩くうちに、ポケットの中の鍵束が急に軽く感じられた。一本、抜けている。立ち止まって確認すると、桜のポストの鍵がない。拾い忘れたのか、ポケットの穴に落としたのか。頭の中でいくつもの可能性が鳴り始める。春人は踵を返し、参道を駆け上がった。


桜のポストの前に、小さな水溜り。その真ん中に、見覚えのある鍵が沈んでいた。拾い上げると、鍵に結ばれた革紐に薄い紙片が一枚、濡れて貼り付いている。指先でそっとはがすと、そこには鉛筆で――『⑦ 鍵はあなたが落としたのではなく、ポストが借りました。返します。』思わず笑ってしまう。紙片の角がほんの少し、ローズマリーの青で染まっていた。


「借りたのか……」春人は桜の幹に手を当て、息を整える。雨雲の切れ間から白い光が差し、投函口の金属がやわらかく光る。ポケットの中の白い封筒が、心臓の鼓動に合わせて小さく動いた。


戻る途中、パン屋の前で足を止めると、ガラス越しに課長が紙袋を受け取っているのが見えた。課長は春人に気づくと、袋を片手にドアを押し開ける。「おい、結城。これ、うちの古い保管棚から出てきた。お前に心当たりがあるかと思ってな」差し出されたのは、小さな段ボール箱。ラベルには、古い字体で『留置(未来配達)/結城春人宛』。春人は息を呑んだ。


局に戻ると、棚の奥を整理していた年配の職員が頭を下げた。「すまんね、ひっくり返してたら出てきてよ。十数年前の封。指示書も一緒だった」指示書には、丁寧な字でこうある。『この箱は、結城春人が配達員になり、桜のポストの鍵を預かったのち、四つの道しるべをたどった日に渡してください。渡し役は誰でもよい。――結城あかり』結城。あかり。母の旧姓だ。春人の視界の焦点が、いったん遠くへ滑って戻ってくる。


箱の中には、小さな封筒が七通。それぞれに小さく番号が打ってある。「①」から「⑦」。春人の掌の上に、すでに集めた紙片や便箋の数字と重なる。箱の底には、薄い便箋がもう一枚。『最後の一通は、あなたが書いてください。宛先は――“はじめて鍵を回したときのあなたへ”。』


春人は、思わず笑った。涙と笑いの間の、やわらかな呼吸のような笑い。雨はすっかり細くなり、局の裏口の庇を叩く音もほとんどしない。手の中の封筒「⑥」が、胸の鼓動に合わせて小さく震える。母の字の書き出し――『あなたへ』。中を開くのは、きっと、最後の場所で。


春人は鍵束を握り直し、地図のない地図を胸に、夕方の町へ踏み出した。たどり着くべき“最初”は、もう目の奥で静かに灯っている。桜、青、雨、風――四つの言葉が、同じひとつの場所を指していたことに、ようやく気づき始めながら。


雨脚は、午後になるほど静かになっていった。結城春人は局の仕分け台に肘をつき、濡れたレインコートを椅子の背に掛けた。桜のポストからの回収袋が、机の端で小さく呼吸しているように見える。その布の口から、淡いクリーム色の封筒が一通、するりと滑り出た。


宛名は、見慣れた手で「結城春人 様」。差出人欄は空白。ただ封の端に、鉛筆で小さく点が三つ並んでいる。春人は指先で紙の縁を撫で、息を整えた。


封を切ると、便箋には雨の匂いが宿っていた。最初の一行を読んだとき、胸の奥で何かがほどけた。


――春人。雨の約束、覚えていますか。傘の下で、小さな君が「大きくなったら、お手紙を運ぶ人になる」と言った日。そのあと、君は熱を出して、私は台所で薬を探して、でも、最後まで聞けなかった君の言葉があるの。「雨のひに、かならず——」


そこで文字は少し途切れ、すぐに続いた。


――もしこの手紙が君に届いたなら、約束の続きを書いてください。君の言葉で。私は、君の書く「雨」を読みたいのです。 母より。


椅子の背に置いたレインコートから、ぽたり、と水滴が落ちた。春人は目を閉じ、遠い記憶に指を伸ばす。雨の日、母のエプロンの端をつまみ、桜の木の下で背伸びをした幼い自分。あのとき確かに言いかけた。——かならず、だれかの「きょう」をよくするおてがみを、はこぶひとになる。


春人は便箋を胸に当て、ゆっくり立ち上がった。窓の外で、雨脚がさらに細くなる。桜のポストへ行こう。約束の続きを、今度は自分の字で書くために。


参道の石畳は薄く濡れ、木の幹が深い色をしていた。ポストの口は、雨の粒を受けて静かに濃く光る。春人は携帯のメモを開き、すぐ閉じた。紙に書こう。局へ戻り、白い便箋を一枚。鉛筆を削る音が、雨だれの拍に重なる。


――雨のひに、かならず。だれかの手紙を、運びます。宛先がなくても、名前がなくても、その手紙が誰かの心のなかにあるかぎり、私は扉を叩き、声をかけ、風の向きを待ちます。「届きますように」と小さく祈りながら、雨の続きを渡します。 結城春人。


書き終えると、手が少し震えていた。封を閉じ、宛名の欄は空白のままにした。差出人欄に、小さく自分の名を書き添える。そして傘も差さずに、再び桜のポストへ向かった。


投函口に封筒を差し入れたそのとき、背後で小さな足音がした。振り向くと、学生服の女の子が青い封筒を胸に抱えて立っている。滝本結衣だった。彼女は軽く会釈し、星のシールのついた封筒をポストへ入れた。


「先生に贈る曲のこと、書いてきました」


「きっと、届きます」


彼女が去ると、今度は傘を肩に掛けた女性が、小さな雨粒のスタンプの押された封筒を投函した。有馬沙羅。目が合うと、彼女は微笑んで軽く頭を下げる。額に乗った雨粒が、絵の具みたいに透明だった。


さらに、風見坂のほうから、白い帽子の姪が走ってきた。胸の前で両手を重ね、息を整える。「おばの家を片づけていたら、封のない便箋が出てきて……」桜の根元にしゃがみ、彼女はそっと紙を置いた。——ありがとう。薄い字で、その二文字だけ。


春人は、胸の奥で何かがつながっていくのを感じた。この町のいくつもの「声」が、同じ場所にたどり着く。ポストは、赤い灯台のようだ。雨の日、行き交う船が、ここにだけ寄って灯りをもらっていく。


夕刻、局に戻ると、古い木箱が仕分け台の端に置かれていた。課長が顎で示す。「倉庫の整理で出てきた。前任の配達員さんの置き土産らしい」


木箱の蓋を上げると、手製の分配カードや、古い地図、そして一枚の葉書。表は白紙。裏に、たった一文だけ。


――手紙は、人が運ぶ。だから、雨の日は、少しゆっくり歩け。


署名は、丸い字で「母」。春人は思わず笑った。知っている癖。知っている線の強さ。母はこの局で臨時の仕分けを手伝っていたことがある。そのときに残したのだろう。たぶん、自分のために。


春人は葉書を胸ポケットにしまい、窓の外を見た。雨はほとんど上がっていた。それでも、空はまだしっとりと濡れて見える。外へ出て、桜のポストの前に立つ。幹から落ちる最後のしずくが、投函口の縁に落ち、音を立てた。


「——届きますように」


春人は小さく呟き、ポストを撫でた。その表面は金属なのに、不思議とあたたかかった。ポストの中で、さっき投函したばかりの自分の手紙が、誰かの手紙と肩を並べて、静かに雨の匂いを吸っている光景を想像する。名前も宛先もばらばらで、でも、どれも同じ方向を向いている。——「どうか、届いて」。


日が暮れ、町灯りがひとつ、またひとつ点りはじめる。春人は郵袋を肩にかけ、ゆっくりと歩いた。雨の日の約束は、ここで一度、区切りがつく。けれど、約束の続きは、明日また誰かの手から始まる。その誰かは、きっと春人自身でもある。


帰り際、海のほうから風が吹いた。潮の匂いに、ローズマリーと絵の具と紙の匂いがまざる。春人は顔を上げ、深く息を吸った。今夜、きっと誰かが手紙を書いている。「ありがとう」でも、「おはよう」でも、「また会おう」でもいい。その一行が、この町のどこかに灯りをともす。


そして春人は歩き出した。雨の終わりの路面に、街灯の光がゆらいでいる。足音は静かで、郵袋は軽い。胸のポケットには、母からの葉書。背中には、明日の手紙。

第五話「雨の日の約束」を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。この連作は、誰かが誰かに宛てて書いた小さな「願い」の物語でした。桜のポスト、青い封筒、雨のアトリエ、風見坂の家、そして雨の日の約束。それぞれの手紙は、宛先が不確かでも、不思議と同じ方向へ向いていました。——「届きますように」。


手紙は、届いた瞬間よりも、書こうと決めた瞬間にいちばん強く光ります。それは、誰かの明日をそっと支える灯りになる。配達員・結城春人は、それを肩に載せて運ぶだけです。ときどき風に手伝ってもらいながら、雨の日は少しゆっくり歩いて。


ページを閉じたあと、もしあなたの胸のなかに、誰かに言いそびれた一行が浮かんだら、どうか紙に書いてみてください。「ありがとう」でも、「ごめんね」でも、「またね」でも。宛先がなくても大丈夫。その手紙は、きっとあなた自身をあたため、いつか必要な誰かのところへ届きます。


この町の物語に、静かな時間をくれてありがとう。また、次の手紙で会いましょう。

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