風見坂の家
『郵便配達員の手紙』第四話「風見坂の家」。風がよく通る坂の町。その高台に、毎朝一通の手紙を投函する女性がいた。宛先は亡き夫――しかし、ある日を境に、そのポストから“返事”のような手紙が届き始める。配達員・結城春人は、風に運ばれる手紙の往復に、不思議な優しさを見つけていく。風の匂いと時間の流れを感じながら、お読みください。
風見坂の上には、白い家が一軒あった。二階のベランダには風見鶏があり、風が吹くたびに金属の羽がかすかに鳴った。坂のふもとからその音を聞くと、今日もこの町は穏やかだと春人は思う。
配達のルートの中でも、風見坂は特にきつい坂だった。坂を登りきると、視界が開け、遠くに海が見える。その先にある白い家に住むのが、美智さんという女性だ。毎朝決まって、郵便受けに一通の封筒を投函している。封筒はいつも淡いクリーム色。宛名は整った字で、「高橋亮一 様」と書かれていた。
最初にそれを見たのは、春人がこの町に配属されたばかりのころだった。最初は、ただの往復書簡だと思っていた。だが一度、宛名を見た同僚が言った。「その宛名、五年前に亡くなった人ですよ。事故で」
春人は驚いた。だが、それ以来、毎朝の配達のたびにそのポストを見るようになった。封筒はきちんと投函され、午後にはいつも空になっている。風見坂の上では、時間が他よりもゆっくり流れているように思えた。
ある朝、春人は少し早めに坂を登った。風が強く、桜の花びらが遠くまで飛んでいく。郵袋の中で封筒が擦れる音がした。坂の途中で、白い帽子を押さえる女性が見えた。それが美智だった。薄いグレーのカーディガンを羽織り、ポストに封筒を入れる手元が少し震えている。春人は自転車を止め、声をかけた。
「おはようございます」
「まあ、おはようございます。いつもありがとうございます」
美智は微笑んだ。頬にうっすらと影があり、どこか遠いところを見つめているようだった。
「いつも手紙を……ご主人宛てに?」
「ええ。習慣みたいなものです。朝ごはんのあとに、一言だけ書くんです」
「一言?」
「『おはよう』とか、『今日は風が強いね』とか。そんなこと」
春人は頷いた。風見坂の風が二人の間を抜けていく。風見鶏が小さく鳴いた。
「手紙って、不思議ですよね。宛先がもうこの世にいなくても、書いているうちに少しだけ気持ちが楽になるんです」
美智はそう言って微笑み、ポストの口をそっと撫でた。「このポスト、主人が直してくれたんです。錆びてたのを、赤く塗り直してくれて」
「そうなんですね」
「だから、ここに入れると、届く気がするんです」
春人はその言葉を心に留めた。
翌日、配達の途中で風見坂を通ると、ポストの中に一通の封筒が入っていた。差出人はなく、宛名は――「高橋美智 様」。春人は思わず息を呑んだ。封筒は同じクリーム色、同じ筆跡。だが、筆の力の入り方が微妙に違う。宛名の横に、小さく青いインクで“亮一より”と添えられている。
春人は局に戻ると、課長に相談した。「いたずらにしては丁寧すぎます。投函の記録もありません」
課長は腕を組み、少し考え込んだ。「風見坂のポストか。あそこは風が強い。どこかの封筒が風で飛んで、偶然入ったのかもしれんな」「ですが、宛名が……」「本人宛てか」
春人は封筒を見つめた。封の隙間から、ほんの少し花の香りがした。春人の指先に、冷たい紙の感触が残る。
翌朝、美智の家の前に立った。ポストの赤が、朝日に濡れて光っている。春人は深呼吸してから、玄関のベルを鳴らした。「はい……?」中から出てきた美智は、少し驚いた顔をした。「お手紙をお届けに上がりました。宛先は――高橋美智様」「……え?」
春人は封筒を差し出した。美智はゆっくりとそれを受け取り、指先で宛名をなぞった。「亮一……?」
声が震えた。「差出人の記載はありませんでした。ただ、宛名の横に『亮一より』と」
美智はしばらく言葉を失っていた。やがて、両手で封筒を胸に抱き、ゆっくりと微笑んだ。「……ありがとうございます。受け取ります」その声は風よりも静かだった。
春人は会釈して坂を下りた。背後で、風見鶏がまた小さく鳴いた。その音は、手紙の封を切る音に少し似ていた。
【中盤】
翌朝。風見坂はいっそう風が強かった。春人が坂を登り切ったとき、白い家のポストが指先ほど震えているのが見えた。投函口の影に、淡いクリーム色の封筒が一通。差出人なし。宛名は――「高橋美智 様」。昨日と同じ筆跡、同じ紙、同じ重さ。だが、封の縁には、かすかに古い糊の痕があった。まるで、どこか遠くから時間を越えて戻ってきたみたいに。
春人は封筒を胸に抱え、チャイムを鳴らした。美智はゆっくりと玄関を開け、春人の顔と封筒を見比べた。「……今日も、届いたんですね」「はい。ポストの中に」「風が連れてくるのかしら」美智は微笑みながらも、目の奥に驚きを隠せないでいた。春人は頷き、封筒を手渡した。「もし差し支えなければ、中を――」「ええ。いっしょに」
居間のテーブルには、薄いグリーンのクロスと、二人用の湯呑。窓辺には風見鶏が見える角度で椅子が置かれていた。美智は封を切り、便箋をそっと引き出した。紙のこすれる音に、外の風が混じる。
――美智へ。今朝は君の好きな南風だ。風見鶏が鳴いている。坂の上から海が近く見える。君の「おはよう」を、今日も読んだ。
「……亮一の書き出し、そのまま」美智は指先で文字をなぞる。「生きていた頃、彼は朝の風のことしか書かない人で。『君へ』で始めて、風の匂いをいくつも言い切るの。私はそれを横で聞きながら、コーヒーを淹れた」
便箋の後半は、筆跡がすこし変わる。柔らかく、少し丸みを帯びた字――見覚えのある形。――今日は、ベランダの白い鉢に水を。あの小さなローズマリーは、きっと風が好き。最後に小さく、「美智」と署名があり、さらにその下に、揺れるような細い字で「亮一より」と添えられていた。
「……これ、私の字です。十年前の日記の、まま」美智は瞳を見開いた。「どうして、私の文字がここに」春人は便箋の端を見た。紙縁のひとところに、古い糸のほつれのような凹み。綴じてあったノートから、切り取られた痕跡に見えた。
春人はそっと訊いた。「ご主人、メモを残される方だった、と」「ええ。なんでも綴じてしまう人。領収書も、切符の半券も。亡くなったあと、私は箱をひとつ、押し入れにしまったまま……」
春人はうなずき、立ち上がった。「もしよければ、その箱を見ても?」美智は少し迷い、それから頷いた。廊下の突き当たりの物入れから、紙の匂いのする段ボール箱を運び出す。蓋を開けると、古いノートが何冊も、封筒や写真が整然と詰まっていた。
春人は手袋をはめ、一冊をそっと開いた。ページの端には、風の向きと日付、短いことば。『君へ。北西。洗濯物は内側へ』『君へ。東。潮の匂い』――そして、ところどころに「美智」の丸い字が貼り込まれている。買い物メモ、朝のひとこと、ベランダの草花の記録。まるで、二人の朝が一冊に重なっていた。
「……これ、亮一が?」「ええ。『二人の朝の新聞だ』って。私が捨てようとすると、『これがあると、君がそばにいる気がする』って」美智は笑い、それからふっと目を伏せた。「事故のあと、開けられなかった」
春人はノートの綴じ糸を見つめた。数ページ、丁寧に切り離された痕がある。「この切り取り……」「最近、夜に風の音で目が覚めて。ふと箱を開けたら、何枚か、ページが抜けているのに気づいたの。誰も触っていないはずなのに」
そのとき、玄関のポストが小さく鳴った。美智と春人は目を合わせる。風が廊下をすべり、封筒が一つ、床に落ちた。美智が拾い上げる。宛名は「高橋美智 様」。封を開ける指がわずかに震える。
――君へ。西。雲が、速い。今日は、君が書いた「風が強いね」を読み返した。もう一度、聞かせてほしい。ベランダで、風の音の数を数えながら。
美智は便箋を胸に当てた。「……まるで、今ここにいるみたい」春人は息を整え、静かに言った。「もし次に届いたら、読まずにポストへ戻しましょう。“往復”を、続けてみませんか」「往復……」「ええ。あなたが朝の一言を投函すると、風が“返事”を連れてくる。その往復のあいだに、きっと必要な言葉が通り抜けます」
美智はゆっくり頷いた。「わかりました。明日の朝も書きます。『おはよう、風が強いね』って」
春人は帰り支度をし、玄関で一礼した。風見鶏が鳴る。その音は、封を閉じる時に鳴る、あの小さな金属の音に似ていた。
坂を下る途中、春人は一度だけ振り返った。白い家の窓辺に、美智の影が揺れていた。風が吹き抜けるたび、見えない誰かが「君へ」と書き出す気配が、坂の上に微かに残った。
翌朝の風は、夜の名残りをひと匙だけ含んでいた。春人が風見坂を登ると、白い家の前で美智がポストに向かって立っていた。薄いカーディガンの袖口を指でつまみ、深呼吸をひとつ。彼女は封筒を差し入れ、投函口が小さく鳴った。その音は、遠くの海の泡がはじける気配に少し似ていた。
「今日は、戻しません」振り向いた美智は、笑っているのか泣いているのかわからない目をしていた。「あなたが言った“往復”……最後まで、やってみたいから」春人はうなずいた。風見鶏が一度だけ、短く鳴った。
午前の配達を終え、春人が再び坂を上ると、玄関のポストの蓋が風に揺れていた。美智は居間の窓辺で椅子に腰かけ、紙と向き合っていた。「届いた?」「いいえ。今日はまだ」美智は微笑み、湯呑を差し出す。「風待ち、ね」
二人で黙って風の音を聞いた。ガラス戸がかすかに鳴り、台所の吊り戸棚がほんの少し揺れる。風は、家の見えない骨組みを指で撫でるように通り抜け、廊下の突き当たりで音を落として消えた。どれだけ耳を澄ませても、返事の紙が届く気配はない。「……きっと、今日は遠回りしてるんです」春人が言うと、美智はくすりと笑った。「昔から、あの人は帰り道が下手だった」
夕方、春人は局へ戻った。仕分け台に立つと、課長が親指で窓の外を指した。「風見坂の方角、雲が荒れてる。帰り、気をつけろ」「はい」ドアを開けると、空の色が一段濃くなっていた。風は真新しい洗濯物を翻し、電線をうならせ、犬の遠吠えをどこかへ持っていった。
坂を上る途中、春人はふとペダルを止めた。風の向きが、急に変わったのだ。潮の匂いに混じって、紙とインクの匂いがした。顔を上げると、ポストの投函口がひとりでに開き、細い白がふっと舞い上がる。一枚の便箋。それは風に翻されながら、春人の胸もとへ落ちてきた。指で受け止めると、確かに誰かの手の温度が残っている気がした。
便箋には、見慣れた書き出し。――君へ。南西。大きく、ゆっくり。行間に、かすかに細い丸い字が重なる。――ベランダのローズマリー、今日も青い。最後に、ふたつの署名が並んでいた。“亮一より”“美智”その順番は、いつもと逆。春人は視線を上げる。家の窓の向こう、美智が立ち上がる気配がした。
チャイムを押す前に、玄関のドアが開いた。美智は息を弾ませ、頬を紅潮させていた。「……来たの?」春人は便箋を掲げ、笑った。「風が、連れてきました」美智は両手で便箋を受け取り、胸に抱きしめる。「ありがとう」
それからの数日、往復は続いた。朝、美智は短い一言を投函する。昼すぎ、風が返事を連れてくる。“君へ。西。雲がひくい”“今日は、白い皿を出した。パン屑が星みたいだった”“君へ。北。鳥が低い”“洗濯ばさみの赤、残しておいたよ”その簡素な交わりの中に、二人の長い歳月が細い糸のように通っていた。
ある朝、風は止んでいた。驚くほど静かで、風見鶏はじっと東を向いたまま。春人が坂を登ると、美智はポストの前で封筒を抱えたまま立っていた。「……今日は、投函したくない日」「どうして」「終わってしまう気がして」
春人は言葉を探し、それから小さく頷いた。「終わり方を、あなたが選べます」「選べる?」「はい。最後の手紙は、返事がいらない内容にする。“ありがとう”だけ。往復は、それで完成します」
美智は封筒を見つめ、ゆっくり口角を上げた。「……では、そうします」玄関先の段に腰かけ、彼女は便箋にたった二文字を書いた。“ありがとう”封を閉じ、投函口に封筒を滑り入れる。金属が柔らかく鳴った。
春人は配達を続け、昼すぎにまた坂を上った。空は白く、雲は薄く千切れている。ポストは静かで、返事は来ていない。居間の窓からは白いカーテンが見え、風のない部屋に光の埃が漂っていた。呼び鈴に反応はない。春人は胸の奥で、小さな鐘が鳴るのを感じた。
そのとき、庭のローズマリーがふいに揺れた。風ではない。枝先が自ら身じろぎするように、わずかに震え、香りがひとすじ立つ。春人は門扉の前で立ち尽くし、目を閉じた。紙とインクと、ハーブの青い匂い。その匂いの向こうから、かすかな紙擦れの音がした。
足元に、一枚の便箋が落ちていた。拾い上げると、そこには短い言葉が並んでいる。――君へ。ありがとう。長いあいだ、朝を一緒にしてくれて。風がなくても、君の声はここにある。 亮一より。
春人は唇を結び、ゆっくりと呼吸した。玄関の扉をノックし、肩越しに名を呼ぶ。返事はない。合鍵を持つ親族の番号に連絡し、ほどなく駆けつけた姪がドアを開けた。居間の椅子に、美智は静かに座っていた。膝の上には、白い便箋。“ありがとう”その二文字だけが、陽に透けるように置かれていた。眠っているように安らかで、掌はローズマリーの小枝をそっと包んでいた。
葬りの季節の準備は、驚くほど淡々としていた。姪は涙をこらえながら、家の中を整えた。春人は静かに手を貸し、ポストの中を空にし、机の上のノートを丁寧に箱へ戻した。ノートの奥に、薄い封筒が一通残っていた。宛名は空白。封の上に、ローズマリーの油で薄い影がついている。差出人欄に、丸い字で「美智」とある。中を開くと、たった一行。
――“最後の返事を、風に預けます。”
春人は封を戻し、胸ポケットにしまった。家を出ると、風見鶏が一度だけ鳴った。風はまだない。けれど、鳴るべきときにだけ鳴る小さな金属音が、胸の奥のどこかで反響した。
その足で、春人は桜のポストへ向かった。坂を下り、海沿いを渡り、参道を上る。桜は葉を濃くし、投函口の金属は夏の陽で温かい。春人は美智の封筒を赤い口へ滑らせた。音がした。「コトン」あの日から幾度も聞いてきたはずの、あの小さな確かな音。それが、今日は胸の奥にまっすぐ落ちた。
帰ろうとしたとき、足元の影が揺れた。桜の葉が一枚、風もないのに落ちてくる。葉脈が光を含み、指に触れる直前、ふっと持ち上がった。春人は思わず笑ってしまう。風はない。けれど、世界がほんの少しだけ、手紙の重さを軽くする瞬間がある。
数日が過ぎ、風はまた町を通り抜けていった。配達の帰り、春人は風見坂の下から白い家を見上げる。ポストは、赤い口を閉じたまま静かだった。でも、その赤が夕陽を受けてほんの少し明るく見えた。春人は胸ポケットから小さな紙片を取り出した。便箋の端をちぎったもの。そこに、鉛筆で短く書く。“おはよう。風が強いね。”紙片をたたみ、坂の途中の公衆ポストへ落とした。どこへ届くのか、誰にもわからない。けれど、往復の片方が空で待っているなら、もう片方はいつか風が連れてくる。
帰り道、風見鶏が西を向いた。羽根が一度だけ、鳴る。春人は自転車のベルを小さく鳴らし、空を見上げた。雲の切れ間に、細い月。その白さは、封筒の紙の白に似ていた。届かない手紙など、本当はひとつもない。届くより先に、書くことで、誰かが生きている。
春人はペダルを踏み、坂を下った。風は穏やかで、灯りは少しずつ灯り始めていた。ポストの赤が背後で小さく遠のき、海の音が前へと開ける。胸の奥で、あの金属の「コトン」という音が、遅れて響いた。
第四話「風見坂の家」に、最後まで耳を傾けてくださり、ありがとうございます。この町では、風がときどき“配達員”の仕事を手伝ってくれます。それは奇跡というより、長い時間の中で積み重なった朝の呼吸のようなもの。誰かが毎朝書き続けた二文字が、やがて往復になり、やがて物語になる。
手紙は、届いたときに意味を持つのではなく、書いた瞬間に、すでに誰かを生かしているのだと、春人は学びました。次の配達は、また別の家へ。次の往復の片割れを探しに、静かな坂を上り下りします。ページを閉じたあとも、どうか胸の中で小さく風見鶏を鳴らしてみてください。きっとそこにも、誰かの「君へ」が、届いています。




