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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
郵便配達員の手紙

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雨のアトリエ

『郵便配達員の手紙』第三話「雨のアトリエ」。この街に、雨の日だけ開く小さなアトリエがある。絵をやめた女性と、届かなかった一通の手紙。配達員・結城春人は、濡れた路地を抜け、古い木の扉の向こうへと想いを運びます。雨の匂い、絵の具の匂い、紙の匂い――静かな色の物語を、どうか受け取ってください。

朝から、雨だった。海霧に混じった細かな雨が、町の屋根と路地をゆっくり濡らしてゆく。結城春人は合羽の襟を立て、郵袋の口をきつく締めた。紙が湿らないように、薄いビニールのカバーを二重にかけるのが、こういう日の決まりだ。


坂を下る途中、石畳が鈍く光っていた。パン屋の軒先では、ビニールシート越しに焼きたての匂いが漏れている。ポストからポストへ、春人はいつもよりゆっくり走った。雨の日は音がやさしくなる。ベルの音も、金属の響きが絹で包まれたみたいに丸い。


午前の終わり、局に戻ると、仕分け台の端に古びた封筒の束が置かれていた。「転居先不明・保管扱い」と赤いスタンプ。課長が顎で示す。「町内で宛先が判明した分だけでも出してくれ。古いのが混ざってる」


春人は束を両手に受け取り、封筒を一通ずつ繰っていった。黄味を帯びた紙、消えかけの消印、万年筆のインクの滲み。その中に、ひとつだけ、雨の色をした封筒があった。薄い青灰色。宛名は細い手で「有馬沙羅 様」。差出人は「有馬春江」。同じ姓。端に小さく、丸い雨粒の模様のスタンプが押している。消印の日付は――三年前の六月。


春人は局の端末で住所を引いた。地図には、川沿いの古い倉庫の並び。「……アトリエかもしれない」


午後の便、雨脚はすこし強くなっていた。川べりの道は細く、カモメの声が雨に溶ける。倉庫の一つに、ガラスの引き戸と「Atelier Sara」と手書きのプレート。扉を叩くと、内側で椅子の脚が床を擦る音がした。


「はい」


細い声。戸が開くと、墨色のワンピースを着た女性が立っていた。肩で切った髪、指先には油絵の具の跡。春人は名札に触れ、軽く会釈した。


「郵便です。有馬沙羅様でいらっしゃいますか」


「……はい」


「保管扱いになっていたお手紙をお持ちしました。差出人は、有馬春江様」


女性の表情が、雨に打たれたガラスみたいに一瞬だけ揺れた。「母です」


春人は封筒を差し出した。沙羅は両手で受け取り、指で紙の縁を確かめる。「三年、も……」呟きは雨音に紛れた。「中、濡れてないですか」「はい。大丈夫です」


アトリエの中へ通されると、油と樹脂と紙が混ざった匂いがした。窓の外を雨が縞のように流れ落ち、イーゼルには白いキャンバスが立てかけられている。部屋の隅に、古いピアノの椅子のような丸椅子。壁には、途中で止まったままの風景画。色は淡く、空の部分だけが手つかずで残っていた。


「母が亡くなったとき、引っ越して……」沙羅は封筒を眺めたまま言った。「住所変更の手続きを途中でやめちゃって。だから、ここに届かなかったんですね」


春人は頷いた。「雨の日だけ、ここを開けるんです」


「雨の日だけ?」


「はい。晴れてると、人の声がよく聞こえすぎて。雨なら、絵のことだけ考えられるから」


沙羅は封筒の口に指をかけ、ゆっくり開いた。紙がほどける音が、雨の音に溶ける。中から便箋が一枚。万年筆の細い字で、丁寧に書かれている。


――沙羅へ。雨が降ると、あなたはよく筆が進むね。わたしは雨の日のあなたの顔が好きでした。この手紙が届くとき、あなたが筆を持っていることを、心から願っています。もし空の色に迷ったら、川の匂いを吸ってごらん。あの匂いは、あなたの青だから。 母より。


沙羅は、最後の行に指を置いたまま、しばらく動かなかった。「……届かなかったんですね、三年も。私、あの時から、描けなくなって」


春人は言葉を探した。窓の外では、川面が小さく泡立っている。「お母さまの手紙は、今日届きました」春人は静かに言った。「今日の雨の音で、届いたんだと思います」


沙羅は微かに笑って、うなずいた。「……川の匂い、ですって。忘れてました」


彼女は窓を少し開けた。風が入り、雨の匂いがふくらむ。絵の具のチューブが並ぶ棚から、コバルトとシアンを選び、パレットにほんの少し絞り出す。「少しだけ。少しだけ描いてもいいですか」


春人は頷き、背中で扉に寄りかかった。沙羅は筆を水に浸し、色を混ぜ始める。雨の色と、川の匂いと、母の言葉。白いキャンバスの空の隅に、薄い青がひと刷毛、置かれた。


その色は、音もなく呼吸をした。


やがて筆が止まり、沙羅は深く息を吐いた。「不思議ですね。三年前の雨が、今降ったみたい」


春人は微笑んだ。「手紙って、そういうものかもしれません」


雨が少し弱くなった。沙羅は便箋を大切に封筒へ戻し、小さな箱にしまった。箱の蓋には、古い切手がいくつか貼られている。「母は切手が好きで。国名や絵の具みたいだって」


春人は頷き、視線を落とした。棚の隅に、もう一通、古びた封筒が立てかけてある。宛名はにじんで読めないが、雨の小さなスタンプが同じ位置に押されていた。


「それも、お母さまの?」


沙羅は首を振った。「私からの。出せなかった手紙。……宛先が、決まらなくて」


春人は一歩だけ近づいた。「宛先を、決めなくてもいいときもあります」「え?」「“雨が止んだら、ポストへ”――それで届く手紙もあります」


沙羅は目を瞬かせ、それからふっと笑った。「あなた、変わった郵便屋さんですね」


「雨の日だけ、少しだけ」


窓の外、川の濁りが少し薄くなった。雨が細くなると、アトリエの白い壁が少し明るく見えた。沙羅は未投函の封筒を手に取り、新しい便箋を一枚出した。ペンを握る手が、雨の糸のように細く震える。「書いても、いいですか」「どうぞ」


春人は視線を外し、扉の向こうの雨を見る。背後で、紙の上をペンが走る音がした。ときどき止まり、やがてまた動き出す。そのリズムが、雨音と重なって、アトリエの空気を静かに満たした。


数分後、沙羅は便箋を折り、封筒に入れた。封を閉じ、宛名の欄に何も書かず、封の上に小さな雨粒のスタンプを一つ、押した。「この手紙、預かっていただけますか」


春人はうなずいた。「必ず、どこかへ届きます」


アトリエを出るころには、雨は糸のようになっていた。春人は自転車にまたがり、桜のポストの方向へペダルを踏んだ。胸の中に、少しだけ温かい色が残っている。それは、キャンバスの隅に置かれた薄い青によく似ていた。


それから数日、雨は途切れなかった。朝の通りは傘の群れで彩られ、ポストの赤も水滴をまとって鈍く光る。春人は配達の合間に、何度も川沿いの道を通った。アトリエの窓には、いつも小さな灯りがともっている。雨の粒がガラスに当たるたび、内側で色が動くような気がした。


午後の便を終えた帰り道、春人は再びアトリエを訪れた。戸を叩くと、沙羅が顔を出した。頬は少し赤く、手には小さなパレット。「また、雨ですね」「ええ。雨の日しか描けないって言ったでしょう」沙羅は笑った。アトリエの奥では、新しいキャンバスがいくつも並んでいる。壁際の絵はどれも淡い青と灰の層を重ねた風景だったが、一枚だけ、中央が白く空いたままだった。


「それは?」春人が指差すと、沙羅は視線を落とした。「“空のない風景”なんです。描こうとすると、筆が止まってしまう」「空が、ない?」「描くと悲しくなるんです。何も見えなくなる気がして」春人はその言葉を胸に刻んだ。雨の音が強くなり、ガラスが曇る。「預かっていた手紙、桜のポストに入れました」「……そう」「でも、少し不思議で。翌朝には局に戻ってきていました」沙羅は驚いて顔を上げる。「戻ってきた?」「ええ。封はそのままですが、スタンプが増えていたんです。雨粒が二つになっていました」


春人は鞄から封筒を取り出した。沙羅はそっと受け取り、封の上を指でなぞる。確かに、二つの小さな雨粒のスタンプが並んでいた。「……お母さんの癖です。私、昔の便箋に押してたのを覚えてます。二つの雨は、“あなたとわたし”という意味」「お母さまの?」「ええ。手紙を出すとき、よく押していました。どんなに遠くにいても、二人で同じ雨を見られるようにって」沙羅の声が震えた。春人は、そっと言った。「もう一度、開けてみてもいいですか?」沙羅はうなずき、封を開いた。便箋を広げると、青いインクの文字が浮かび上がる。


――沙羅へ。あなたの絵が空を描く日を、私は見ている。筆を止めても大丈夫。色は、あなたの中で生きているから。雨の中で見つけた光を、どうか忘れないで。 母より。


沙羅の頬を涙が伝った。便箋の文字が少し滲む。「どうして……この手紙、母の字です。けど、今朝までなかった」春人は答えなかった。ただ、静かに雨音を聞いていた。「まるで、今書かれたみたい」「届くべきときに、届くのかもしれません」


沙羅は涙を拭い、絵筆を取った。「空を、描いてみます」パレットに残っていたコバルトを筆に含ませ、白い部分に筆を置く。雨の色と光が混ざり、淡い青が空を満たしていく。春人はその筆の動きを見守った。雨音が、まるで拍子のように静かに続いている。


筆が止まり、沙羅は肩で息をした。「母が見てる気がします」「ええ、きっと」春人はそう言って微笑んだ。そのとき、窓の外で雷のような音がしたが、雨はやんでいた。かわりに、光が差し込む。アトリエの中で、描きかけの絵がわずかに輝いて見えた。


雨が止んで三日後、町の空は深い青に変わっていた。配達の途中、春人は川沿いの道を通りかかった。アトリエの前に、白い紙が貼られている。“個展のお知らせ 有馬沙羅 —雨のアトリエ—”


春人は自転車を止めた。扉の向こうから微かなざわめきと、人の話し声が漏れてくる。入ってみると、壁一面に新しい絵が並んでいた。


風景、花、静物。どの絵も、淡い雨の匂いをまとっていた。空が描かれていない絵はもう一枚もなかった。その中央に、大きなキャンバスが一つ。タイトルカードには「雨のアトリエ」と書かれている。


画面の中では、雨上がりの川の向こうに明るい空が広がっていた。そして手前の机の上には、一通の手紙が描かれていた。封の上には、二つの雨粒のスタンプ。春人は胸の奥が温かくなるのを感じた。


背後から声がした。「来てくれたんですね」振り向くと、沙羅がそこに立っていた。淡い灰のワンピースに、細い青のスカーフ。頬は明るく、瞳には光が宿っている。


「素敵な展示ですね」「ありがとうございます。……あの日、あなたが来てくれなかったら、筆は取れなかったと思います」春人は首を振った。「僕は何もしていません。届くべき手紙を運んだだけです」沙羅は笑った。「それでも、手紙は人が運ばなければ届かないでしょう?」春人はその言葉に、少しだけうなずいた。


アトリエの窓から差し込む光が、絵の具の表面で反射して揺れていた。その光は、雨の粒が跳ねるように静かに踊っている。沙羅は机の引き出しから小さな封筒を取り出した。「これを、あなたに」白い封筒。封の上には、二つの雨粒のスタンプ。


春人は受け取って、ゆっくりと封を開けた。便箋には、淡い青のインクで短い言葉が書かれていた。


――あなたが運んでくれたのは、手紙ではなく、雨の続きを描く勇気でした。どうかこれからも、誰かの空に色を届けてください。


春人は便箋を折りたたみ、胸にしまった。「必ず、届けます」


アトリエを出ると、空には薄い雲が一筋、漂っていた。桜のポストのある坂の上まで自転車を押していく。途中、路肩の水たまりに青空が映っていた。その水面を、風がかすかに揺らす。


桜のポストの前で立ち止まり、沙羅からの封筒を入れた。金属の「コトン」という音が、乾いた空気に響く。その音は、遠くで雷鳴のようにゆっくりと尾を引いた。春人は空を見上げた。薄い雲の向こうに、微かな光が差している。雨上がりの匂いが、まだ胸に残っていた。

第三話「雨のアトリエ」を読んでくださり、ありがとうございます。雨がやむことは、終わりではなく、誰かの再生の始まりかもしれません。有馬沙羅の絵と、母の手紙は、時を越えて“想いの配達”が成された瞬間でした。春人はまた次の町へ、次の手紙を運びます。それが誰の空へ届くのか――どうか、次のページで確かめてください。

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