青い封筒の少女
『郵便配達員の手紙』第二話「青い封筒の少女」。雨上がりの町に、今度は薄い青の封筒が届きます。差出人は“未来の私”。宛先の少女は、夢を諦めかけている高校三年生。配達員・結城春人は、手紙が導く小さな勇気のそばを、そっと歩きます
青い封筒は、朝の仕分け台の隅で、光って見えた。薄い空色の紙、角に小さく銀の星のシール。宛名は手書きで「滝本結衣 様」。差出人は空欄。春人は郵袋を肩にかけ、配達順の束のいちばん上にその封筒を置いた。紙から、ごく微かに柑橘のような香りがした。
滝本の家は、川沿いの坂を上った先にある新しいアパートだ。午前九時、インターホンを押すと、少しして少女の声がした。「はい」「郵便です。お届けものです」足音。ドアが開く。セーラー服の少女が現れた。髪はひとつにまとめられ、目の下には薄い影。春人が封筒を差し出すと、彼女は驚いたようにまばたきをした。
「これ……青い」「珍しい紙ですね」「ありがとうございます」彼女は受け取り、足元を見た。青い封筒を見つめる時間が、ふっと長くなる。春人は会釈して建物を出た。背中で、ドアの閉まる音が柔らかく響いた。
午後の回収で再びそのアパートの前を通ると、ベンチに結衣が座っていた。封筒はすでに開封され、膝の上の便箋には、細く躍る文字が並んでいる。春人は声をかけるべきか迷い、そのまま通り過ぎようとしたとき、結衣が顔を上げた。
「あの……さっきの郵便屋さん」「はい」「この手紙、未来の私からって、書いてあるんです」春人は足を止めた。「未来、ですか」「たぶん、冗談だと思うんですけど」結衣は笑おうとして、うまく笑えず、唇を結んだ。「でも、私しか知らないことが、書いてあって」
春人は距離を保ちつつ頷いた。「差出人はありませんでした。投函場所も分かりません。けれど、届いたのは確かです」結衣は便箋の一行を指でなぞった。「“今朝、オレンジの匂いのする目覚ましで起きたあなたへ”……これ、私の部屋にある小さなアラームのことなんです。誰にも言ってない。お母さんにも」
春人は青い封筒を見た。星のシールは、少し斜めだった。結衣は続けた。「“あなたは、まだ音楽を諦めていない。もし、そう思えなくなったら、青い封筒を開けて。そこには、未来のあなたがいる”」結衣の声は、読み進めるうちにかすかに震えた。「私、ピアノ、好きだったんです。でも受験が近くて。先生に、音大なんて無理って言われて」
風がアパートの廊下を抜け、薄いカーテンが揺れた。春人は言葉を選んだ。「この手紙が、誰からでも。あなたの“好き”が消えたわけではないと思います」結衣は頷き、便箋を胸に当てた。「郵便屋さん、手紙って、どこから来るんでしょうね」「ポストの向こうから、です」春人はそう言って、少しだけ笑った。「でも、本当は“誰かの中”から。誰かが誰かを想ったところから来ます」
結衣は目を細めた。「じゃあ、これは……私の中?」「かもしれません」春人はそう言って、自転車にまたがった。「よい一日を」
翌朝、また青い封筒が届いた。宛先は同じ。差出人はやはり空欄。春人は再び滝本家へ向かい、呼び鈴を押した。出てきた結衣は、少しだけ顔色がよくなっていた。「また、来ました」「ええ」彼女は封筒を受け取り、その場で開けた。紙の香りがふわりと広がる。“今日は音符を一つだけ書いて。丸い丸い音。黒く塗らないで、空気のまま置いて。あなたの朝は、それで始まるから”
結衣は思わず笑った。「音符を一つだけ……」「書いてみますか」春人が言うと、結衣は頷いた。「鉛筆、借りてきます」彼女は玄関に駆け戻り、小さなメモ帳を持ってきた。白いページの中央に、彼女は丸い音符を一つ描いた。「……できた」「きれいな音ですね」春人はそう言って、自転車のベルを小さく鳴らした。澄んだ音が、朝の空気に輪を描く。結衣は驚いたように目を上げた。「今の、音符みたい」
その日から、青い封筒は三日に一度届いた。“今日は右手だけでド・ミ・ソを”“今日は鍵盤の上に指を置くだけでいいよ”“今日は聴いて。雨の音は、曲の最初の小節になる”便箋の言葉は、練習のメニューとは違う。どれも、音に触れる前の“心の準備”のようだった。結衣は少しずつ笑うようになり、春人に会うと封筒を掲げて見せるようになった。
ある午後、結衣はポストの前で春人を待っていた。「郵便屋さん。これ、私からも」結衣は小さな青い封筒を差し出した。差出人は「結衣」。宛先は空欄。「誰に?」「わからない。でも、いつか届く気がして」春人は封筒を受け取り、うなずいた。「預かります。必ず、どこかに届きます」結衣は安心したように微笑んだ。春人の胸のどこかで、柔らかい音が鳴った。その音は、桜のポストの金属音に少し似ていた。
その週の終わり、青い封筒は届かなかった。朝の仕分け台をいくら探しても、薄い空色の紙は見当たらない。春人は束をめくりながら、少しだけ寂しさを覚えた。窓の外では、雲の切れ間から光が差している。雨は上がり、空気は透明だった。
午後の配達を終えて局に戻ると、机の上に小さなメモが置かれていた。課長の字で、“桜のポスト 回収注意”とある。春人は荷台を整え、夕方の便へと向かった。
坂を上る途中、子どもたちの笑い声が風に乗ってきた。春の陽気の中、制服の袖をまくった学生たちが駆け抜けていく。遠くでピアノの音が聞こえた。まだ拙いが、懸命に音を掴もうとしている音。春人はその方向を振り返る。町の学校からだ。
桜のポストに着くと、枝先が夕陽を受けて金色に光っていた。ポストの口を開けると、一通の青い封筒が入っていた。封は閉じられていない。中の便箋の端が少し覗いている。宛名の欄には、まだ何も書かれていなかった。春人はためらいながらも、局に持ち帰った。開封手続きのため、規則に従って便箋を確認する。
そこには、細い筆跡でこう書かれていた。
――次の音は、誰かといっしょに。あなたの指の隣に、もう一つの音がある。
春人はその文字を見つめ、結衣の横顔を思い出した。ピアノの音。窓際の光。あの午後の笑顔。封筒を手に、局を出た。外はもう暮れかけている。桜の枝の間を抜ける風が、まるで誰かのため息のように優しかった。
翌日、春人は学校の門前に立っていた。昼下がり、文化祭の準備でざわめく校舎の中から、ピアノの音が流れてくる。体育館のドアが開いており、ステージの上では結衣が椅子に座っていた。鍵盤の上に両手を置き、目を閉じている。彼女の隣には、小柄な少年が立っていた。譜面台を支え、結衣の指の動きに合わせて小さくうなずいている。
曲はまだ途中だったが、音は確かに生きていた。春人は扉の影から静かに見守った。結衣が最後の音を弾いたとき、体育館の隅で小さな拍手が起こった。教師らしい女性が微笑んでいる。結衣は照れくさそうに笑った。その頬は、あのときの影よりもずっと明るい。
帰り際、春人は校門の前で彼女に声をかけた。「いい音でした」結衣は驚き、そして笑った。「聞いてたんですか?」「偶然です。でも、未来のあなたも、たぶん今の音を好きだと思います」結衣は少し目を伏せ、ポケットから青い封筒を取り出した。「これ、また届いたんです」「今朝?」「はい。ポストの中に入ってました」春人は封筒を受け取らず、彼女の手の中で見つめた。「開けてみても?」結衣は頷き、封を切った。
便箋には、たった一文だけ。
――この曲を、誰かに贈って。
結衣はその文字を見て、しばらく動かなかった。春人は静かに尋ねた。「贈りたい人、いますか?」結衣は小さく頷いた。「……母に、聞いてもらいたいです」「きっと喜びます」「ううん。たぶん、泣くと思います」春人は微笑んだ。「それでも、届くと思います」
夕方の風が、青い封筒を揺らした。陽射しが紙の繊維を透かして、薄い水色が淡く輝いた。結衣は便箋を折り、胸に抱えた。「未来の私、ありがとう」その声は、ピアノの余韻のように柔らかく、春人の耳に残った。
夜、春人は自宅の机に座り、配達記録をまとめていた。ふと、書類の端に光るものがある。青い封筒だった。差出人は「滝本結衣」、宛名欄には、一言だけ。
――まだ見ぬ誰かへ。
春人はその文字を見つめながら、そっとベルを鳴らした。静かな音が夜に溶けた。
その翌日、空は透きとおるように晴れ渡っていた。春人が滝本家の前を通ると、玄関先に結衣と母親らしき女性が立っていた。小さなキーボードを抱えた結衣は、何度も深呼吸をしていた。
「お母さん、聴いて」その声は少し震えていたが、まっすぐだった。母親は驚いたように目を見開き、そして静かにうなずいた。結衣は椅子に腰かけ、鍵盤の上に指を置く。最初の音が鳴る。白く柔らかい陽射しが、指先を照らした。
曲は短かった。けれど、その一音一音が、空気の粒を震わせるように確かだった。春人は門の外から静かにその音を聴いた。ピアノの旋律の合間に、鳥のさえずりと風の音が混じる。そして最後の一音が消えると同時に、母親の小さな嗚咽が聞こえた。
「ありがとう……」母親はそう言って結衣を抱きしめた。結衣の肩が小さく震える。二人の影が陽の光の中で重なっていた。春人はそっと背を向け、通りへ出た。風が頬を撫で、空に薄い雲が流れていく。
その夜、局の桜のポストに青い封筒が一通届いていた。封筒の裏には、「差出人:結衣」と書かれている。宛名は「郵便配達員さんへ」。春人は局の灯りの下で、そっと封を開けた。
――未来の私の手紙、ちゃんと届きました。あなたが運んでくれたおかげです。今日、母に音を聴かせました。泣かせてしまったけど、少し笑ってくれました。私、これからも弾きます。誰かの心に、手紙のように届く音を奏でたいです。ありがとうございました。
便箋の最後に、小さな音符が描かれていた。丸くて黒く塗られていない、空気のような音符。春人は微笑み、封筒を胸に当てた。
桜のポストへ向かう夜道は静かだった。波の音が遠くに響き、街灯の光が石畳に落ちている。ポストの口を開け、結衣からの手紙をそっと入れた。「コトン」と金属の音が響く。春人はその音に合わせて、自転車のベルを一度だけ鳴らした。澄んだ音が、夜の空へと広がっていった。
翌朝、ポストを開けると、中には新しい青い封筒があった。封の裏には、星のシール。宛名は「まだ見ぬあなたへ」。差出人の欄には、「滝本結衣」と、そしてその横に小さく――「未来の私」と添えられていた。春人は空を見上げた。朝の光が雲の端を白く染め、海がきらめいている。手紙はきっと、どこかへ届くだろう。たとえ宛先がわからなくても、誰かの心がそれを受け取る。春人はそう信じた。
第二話「青い封筒の少女」を読んでくださり、ありがとうございます。音と手紙。どちらも“届けたい”という気持ちから生まれるものです。滝本結衣の青い封筒は、誰かを励ます未来の声となり、また別の誰かの手に渡ります。春人の配達は、言葉ではなく“想いの往復”を運ぶ旅のようなもの。次の手紙は、誰のもとへ届くのでしょうか。どうか、またページを開いてください。




