桜のポスト
『郵便配達員の手紙』は、五通の手紙と五つの出会いで紡ぐ、静かな連作です。
舞台は海沿いの小さな町。主人公の配達員・結城春人は、毎日ポストからポストへと手紙を運びながら、誰かの想いの近くを歩いていきます。
第一話「桜のポスト」は、そのはじまり。宛名のない一通の手紙が、春人の足取りを少しだけ変えます。雨上がりの光と、紙の匂いと、遠い記憶の残響を、どうか静かに受け取ってください。
雨上がりの朝は、町全体が少しだけ若返る。
海から吹く風が塩の匂いを運び、通りの石畳は薄く濡れている。結城春人は、配達用の自転車のベルを指で軽く鳴らし、郵袋の口を確かめた。封筒の角が擦れないように、厚紙の仕切りを入れるのが癖になっている。
「おはようございます」
角のパン屋の前で、顔なじみの老夫婦が店先を拭いていた。奥さんがモップを止め、春人に小さく会釈する。春人はベルで返礼し、緩い坂を上る。荷台の郵袋が背に寄り添い、湿った空気の中でわずかに紙の匂いが立つ。
この町の朝は、音がやさしい。海鳴りは遠くで深く、信号の電子音は短く、猫の鳴き声は途切れ途切れ。春人はそれらの音を数えるようにペダルを踏む。角を曲がるたび、決まった順番でポストが現れ、赤い筒の口に封筒が吸い込まれる。
坂の上、神社へ続く参道の手前に、一本の桜が立っている。幹は太く、皮はところどころ銀色に光り、枝先はまだ硬い。春になれば町じゅうを桃色に染める古木だ。その根元に、古い据え置きのポストが一つある。
桜のポスト。春人がそう呼ぶのは、子どもの頃からの癖だった。正式な集配ルート名は別にあるけれど、春人にとっては、このポストだけは音で覚えている。投函口の金属片が小さく噛み合う、乾いた「コトン」という音。町のどのポストとも違う、少し古い音だ。
その朝、桜のポストの前に人影はなかった。春人は自転車を降り、投函口の鍵を開ける。扉を手前に引くと、雨の余韻が薄く香った。集めた封筒を取り出し、仕切りの上に整える。いつもの公共料金のハガキ、旅行会社の案内、厚めの招待状。手触りで内容の重さが何となく分かる。最後に底を指で撫でると、指先に薄い紙の端が触れた。
一通、残っていた。白い便箋を二つ折りにしただけの、封のない手紙。宛名も差出人も書かれていない。けれど、折り目は丁寧で、角がきちんと揃っている。春人は思わず眉を寄せた。
「……投函の途中で封をし忘れたのかな」
集配規則では、開封状態の手紙は局に持ち帰って確認する。春人はビニールの保護袋にそれを滑り込ませ、他の封筒と分けて郵袋へ戻した。桜の枝が、風でもないのに微かに揺れた気がした。いや、気のせいだろう。春人はペダルを踏み、坂を下り始めた。
午前の便を配り終えると、郵便局の仕分け室は紙とインクの匂いで満ちていた。金属のラックに地域ごとのケースが並び、窓口から差し戻された荷物のタグが揺れている。春人は桜のポストで拾った開封手紙を課長に渡し、事情を説明した。
「宛名も差出人もなし、か。困ったもんだな」
課長は老眼鏡を額に上げ、便箋を光に透かした。紙に混ざった繊維が浮かび、細い文字が二、三行だけ見えた。
「中身は?」
「見ていません。封がなかったので、まずは持ち帰りました」
「ふむ。念のため確認は必要だな。トラブルの種になるといけない」
課長は手袋をはめ、便箋を静かに開いた。春人は少し離れて立ち、視線を落とした。紙が空気を切る小さな音がして、部屋の時計が一つ、秒を刻む。
「……なんだこれは」
課長の声が低く漏れた。春人は顔を上げる。課長は読み上げはせず、しばらく黙って文字を追い、それから便箋を畳んで春人に渡した。
「お前が読め」
春人は指先の汗を意識しながら、便箋を受け取った。薄い紙に、細く揺れる文字が並んでいる。
――桜の下で、あなたに会えますように。雨が止んだら、ポストの口に私の名前を置いておきます。
それだけだった。差出人の名も、宛先も、日時もない。けれど、その一行の中に、待ち合わせの息づかいのような温度があった。春人はもう一度、最初から読み直した。「桜の下で」「雨が止んだら」「私の名前を」。そこで目が止まる。
「名前を、置く?」
課長は肩を竦めた。
「恋文の類かもしれんが、宛先がない以上は扱いに困る。しばらく局で保管だ。心当たりがあれば……まあ、無理に探す必要はない」
「はい」
春人は返事をして、便箋を保護袋に戻した。机に置こうとして、ふと手を止める。指先に、紙の角のかすかなささくれが触れた。そこに、鉛筆の微かな跡のようなものがあった。こすれて読めない。けれど、確かに何かが書かれて、消された跡。
昼の休憩、春人は弁当を早めに食べ終え、桜のポストへ向かった。午前の光は傾き、参道にはまだ誰もいない。ポストの投函口を覗くと、薄い影が落ちている。春人は鍵を差し、扉を開けた。そこに一通、白い封筒があった。
さっきの便にはなかったはずだ。封筒の表には、やはり宛名はない。裏面の差出人欄にも何も書かれていない。ただ、封のところに細い鉛筆で短い線が一本、斜めに引かれている。それは文字というより、記号。春人は封筒を陽にかざした。中の紙の影が、桜の葉脈のように薄く透ける。
「……」
局に戻ると、課長は外回りに出ていた。春人は封筒を預かり票に記し、机の上に保管する。仕事に戻ろうとしたとき、窓口に老婦人が立っているのが見えた。真珠色のカーディガン、淡い紫のスカーフ。春人は急いで窓口に向かった。
「いらっしゃいませ」
「すみませんね、急に。桜のポストから、今朝手紙を出した者ですが……」
老婦人はそこで言葉を切り、春人の胸の名札を見た。
「結城さん。あなたが集配しているのね」
「はい。何か不都合がございましたか」
「いえね、封を閉じ忘れてしまって。戻せませんか」
春人の胸に、朝の開封手紙がよぎった。だが、老婦人の目はどこか遠くを見ている。春人は慎重に言葉を選んだ。
「確認します。差し支えなければ、投函された手紙の特徴を」
「白い便箋を二つ折りにしただけのもの。宛名も、差出人も書いていません」
「内容は」
老婦人は小さく首を振った。
「言えません。けれど、長く待っていた人に向けてです」
春人は頷いた。窓口の奥で、時計の秒針が柔らかく跳ねる。老婦人は財布から身分証を出しかけて、やめた。
「身分はどうでもいいの。届けばそれで」
「……宛先がないと、届けることができません」
老婦人は微笑んだ。その笑みは、何かを諦めた人の静かな光を帯びていた。
「宛先は、桜の下。雨が止んだら」
春人は息を呑んだ。便箋の文とおなじ言葉。老婦人は春人の表情を読み取り、微かに首を傾げた。
「あなた、あの手紙を見たのね」
春人は正直に頷いた。老婦人は怒りもしないで、ただ目を伏せた。
「若いころにね、桜の下で待ち合わせをした人がいるの。雨が降ったら、その日は会えない決まりで。いつも、雨の止む気配ばかり見ていた。あの人は、とうに別の土地で暮らしているでしょう。でも、宛先は変わらないのよ。桜の下。雨が止んだら」
春人は言葉を探した。窓口の外で、潮の匂いがわずかに濃くなる。老婦人は両手でハンドバッグの持ち手を包み、言葉を続けた。
「封を閉じ忘れたのは、私の落ち度。もし局で預かっているなら、返していただけませんか」
春人は頷き、課長の机へ向かった。保管袋に入った便箋を手に取り、戻る前に一度だけ目を落とす。「私の名前を置いておきます」。春人は老婦人の前に袋を差し出した。
「こちらで間違いありませんか」
老婦人は袋越しに便箋の折り目を確かめ、深く頷いた。
「ありがとうございます。これで、ちゃんと封をして出せます」
「宛名は、やはり……」
「ええ。桜の下。雨が止んだら」
老婦人は礼を述べて、足早に去っていった。春人は窓口からその背中を見送り、静かに息を吐いた。午後の配達が待っている。桜のポストに戻れば、封を閉じた手紙がきっと待っているだろう。春人は郵袋の口を正し、扉を押した。
午後、桜のポストに着くと、投函口の金属片が光っていた。鍵を回して扉を開ける。中には白い封筒が一通。封はしっかり糊付けされ、裏面の差出人欄には、やはり何も書かれていない。ただ、封の端に、鉛筆で短い線が二本。午前中の一通には一本、今回は二本。春人は封筒を手に取り、光に透かした。中の紙影が微かに揺れる。その揺れは、雨上がりの水面のようだった。
局に戻る道すがら、春人はふと、ポケットに触れた。指先に固い感触。午前に拾った、封のない便箋の角のささくれが、まだ指に残っている気がする。名を置く、という言葉が耳の奥で繰り返された。誰の、どんな名前を。
仕分け室に封筒を置いたとき、窓の外で小雨がまた降り出した。紙の匂いが濃くなる。春人は肩の力を抜き、午後の便の準備に戻った。桜のポストは、午後の光の中で静かに立っている。次にそこへ行くとき、投函口の向こうには、三本目の線が待っているのだろうか。春人はそんなことを考えながら、地図に視線を落とした。
午後の光は白く淡く、街の屋根を撫でていた。
結城春人は、昼便の配達を終えたあとも落ち着かずにいた。机の上には、桜のポストから回収した二本線の封筒が置かれている。差出人なし、宛名なし。だが、封の紙には糊の乾いた痕と、わずかな指の跡。老婦人の細い指が思い浮かぶ。
「……三本目が来るのかな」
独り言のように呟いて、春人は局を出た。風は冷たく、空はすこし曇っている。海からの湿り気が肌に張りつき、潮の匂いが濃くなる。坂を上り、神社の鳥居が見えたころ、桜の木の下に影があった。
老婦人だった。薄い灰色のコートを羽織り、手に封筒を抱えている。枝はまだ蕾のまま、風もほとんどない。それでも、花の気配だけは確かにあった。春人は声をかけようとしたが、老婦人は気づかぬまま、ポストに封筒を入れた。小さな「コトン」という音。彼女はしばらく立ち尽くし、それから空を見上げた。
その横顔が、やけに細く見えた。春人が歩き寄る前に、老婦人はふらりと足をよろめかせた。春人は慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
老婦人は驚いたように目を上げ、薄く笑った。
「すみません、少し立ちくらみを……」
「坂が急です。お送りします」
「ありがとう。でも、もう帰ります。封は、ちゃんと閉じましたから」
春人は頷いた。ポストの口の奥で、封筒が静かに揺れている。
「桜の下で」と書かれた便箋が思い浮かぶ。雨は降っていない。けれど、風の中に湿り気があった。
「少し休んでからにしましょう」
春人は老婦人の腕を支え、参道の脇にある石段に腰を下ろした。老婦人は肩で息をしながら、遠くを見ていた。
「あなた、子どものころ、この桜を見ていましたか?」
「え?」
「毎年、卒業式のあとに咲くのよ。この木の下で写真を撮るのが、町の習わしだった。あなたの顔、どこかで見た気がして」
春人は曖昧に笑った。小学生のころ、確かにここで写真を撮った記憶がある。けれど、そのとき隣にいた女の子の顔が、どうしても思い出せなかった。
「……子どものころ、手紙を書いたことは?」
老婦人の問いに、春人は少し考えてから頷いた。
「ええ。桜の木の下で、誰かに“ありがとう”って書いた気がします」
「誰か、というのは?」
「わかりません。ただ、誰かに届いてほしかった。それだけ覚えています」
老婦人は小さく笑った。「それでいいのよ。届くことより、書くことが大事なの」
春人はその言葉を胸の奥で転がした。届くことより、書くこと。郵便配達員として、今まで何千通も届けてきた。それでも、自分の言葉は誰にも渡してこなかった。
「お家までお送りします」
「ええ、ありがとう。少し歩いたら大丈夫だから」
老婦人は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。春人は後ろからその背を見守る。海風が吹き抜け、桜の枝がわずかに揺れた。
その日の夕方、局に戻ると課長が声をかけた。
「おい、桜のポストからまた来てるぞ」
春人はすぐに机へ向かった。そこには新しい封筒が一通。封の上には、やはり鉛筆の線。だが今度は――三本。春人は息をのんだ。三本の線は、少し傾いていて、まるで人の指で描かれたような柔らかさをしていた。
「さっき、通りがかりの子どもが持ってきたそうだ。ポストの前で拾ったって」
「拾った?」
「そうだ。投函口の前に置かれていたらしい。風で飛ばなかったのが不思議なくらいだ」
春人は封筒をそっと手に取った。薄い紙の感触の奥に、何かが入っている。封を透かすと、影のように小さな花びらが見えた。桜の花びら。それは、まだ咲いていないはずの桜のものだった。
「課長、この封筒……」
「どうした?」
「風で運ばれてきたようには思えません。まるで……置かれたみたいに」
課長は肩をすくめた。「風のいたずらってことにしとけ」
春人は封筒を持ち、机に戻った。三本の線。その意味を考えるうちに、ふと視界の隅に、午前に拾った開封手紙が浮かんだ。「私の名前を置いておきます。」その“置く”という言葉が、耳の奥でまた響いた。
その夜、春人は眠れなかった。窓の外で、雨がまた降り出していた。カーテンの向こうの闇の中で、桜の枝が揺れている気がする。夢の中で、子どものころの自分が桜の下に立っていた。誰かが隣にいて、笑っている。その笑顔は、今日見た老婦人と少し重なっていた。
翌朝、春人は早めに出勤した。まだ陽は低く、町は眠っている。桜のポストへ向かうと、ポストの口がわずかに開いていた。近づくと、中から風が抜けた。冷たい風の中に、淡い花の香り。春人は投函口を開け、内部を覗いた。
一通、白い封筒。封には、四本目の線が引かれていた。
その朝、春人は迷わず桜のポストへ向かった。空は晴れて、前夜の雨が石畳に淡い光を返している。風の匂いが変わっていた。ほんの少し、花の香りが混じっている。桜の枝先には、小さな蕾がほころび始めていた。
投函口の鍵を開ける。扉を引くと、中には一通の封筒。封の上には、五本の線が重なっていた。紙の色は少し黄ばみ、触れるとぬくもりの残るような感触があった。春人は息を整え、慎重に封を開けた。
中から一枚の便箋が現れた。文字は細く、震えている。それでも一字ずつ、丁寧に書かれていた。
――この手紙を読んでいるあなたへ。もし、これが届いたなら、どうか桜の木の下に来てください。あなたが誰でも構いません。私は、ずっと待っていました。雨が止むたび、ここに立って。けれどもう、自分の足では来られません。だから、あなたの手で、最後の手紙を運んでください。宛先は、桜の下です。そこに、私の名前を置いてください。
署名の欄には、薄く「綾」とだけ書かれていた。老婦人の名前だろうか。春人は胸の奥が熱くなった。昨日見たあの背中。細い手。雨上がりの坂道で交わした言葉。「宛先は、桜の下」――それは彼女自身への手紙だったのかもしれない。
春人は封筒を胸に抱き、参道を上がった。風が頬を撫で、光が揺れる。桜の木の下に着くと、誰もいなかった。ただ、根元の土の上に、小さな白い花びらが一枚落ちていた。まだ咲いていないはずの桜の花びら。
春人はしゃがみ込み、封筒をそっと地面に置いた。風が吹き、便箋の角がわずかにめくれる。その瞬間、背後から誰かの声がした。
「ありがとう」
振り向いても、誰もいなかった。けれど、確かに聞こえた。声ではなく、風の震えのようなもの。春人は目を閉じ、深く息を吸った。潮と花と紙の匂いが混ざり合う。遠い昔、子どものころにも、この香りを感じた気がした。あのとき隣にいたのは――誰だったのだろう。
そのとき、ポケットの中の携帯が震えた。局からの電話だった。
「結城、お前に連絡が入ってる。昨日の老婦人が……今朝、亡くなられたそうだ」
春人は息を呑んだ。桜の枝が音もなく揺れた。
「……そうですか」
「家族の方が言ってた。『最期まで、雨が止むのを楽しみにしていました』って」
電話を切ると、風が強くなった。桜の枝が大きく揺れ、花びらがいくつも舞い上がる。その中の一枚が春人の手の甲に落ちた。指でそっと掬い上げると、花びらの端に鉛筆の細い線が引かれていた。五本の線。それは、封筒の印と同じだった。
春人は微笑み、花びらを空へ放った。光の中で、それがくるくると回りながら上昇し、見えなくなった。風の奥で、もう一度「ありがとう」という声が聞こえた気がした。
その日の夕方、春人は局に戻り、机の上に便箋を広げた。真新しい紙に、鉛筆を走らせる。筆跡は少し震えていたが、それでもはっきりと書けた。
――桜の下で、また会えますように。あなたの手紙、確かに届きました。
春人は封をして、宛名を書いた。「宛先:桜のポスト」。差出人の欄には、自分の名前を記した。ポストの口に封筒を入れると、金属の「コトン」という音が響いた。まるで木霊のように優しい音だった。
夕暮れの光が、町全体を金色に染めていた。桜の枝の先に、ひとつ、ふたつ、白い花が咲き始めている。春人はその下でしばらく立ち尽くし、風に頬を撫でられながら目を閉じた。
手紙は、届くかどうかより、書くことに意味がある。あの老婦人が言った言葉が、今ようやく心に沁みた。
春人は自転車のハンドルを握り、ペダルを踏んだ。背中の郵袋が軽い。坂を下る風の中に、どこかで鈴のような音が混じる。それは、桜のポストの金属音だった。春人は笑い、空を見上げた。雲間から差す光が、手紙のように彼の肩に落ちた。
『郵便配達員の手紙』第一話「桜のポスト」を読んでくださり、ありがとうございました。この物語は、誰かの想いを運ぶことの静かな尊さを描く連作のはじまりです。手紙を書くという行為は、実は“誰かに生きてほしい”という願いそのもの。春人が出会った老婦人の言葉や手紙は、次の物語へと小さな灯を渡していきます。次の手紙がどこへ届くのか、どうか見守ってください。




