手紙の正体
五通の手紙が描いてきた“届かないはずの通信”が、ついにひとつの意味に結ばれます。
けれどこれは、謎解きではなく“祈り”の物語。
誰かを想い続ける心が、どんな距離をも越えて届くという、その奇跡を静かに描きます。
どうか最後まで、光のように読んでください。
研究都市の駅に降り立ったのは、冬の朝だった。
空は薄く曇り、風の匂いに少しだけ潮の香りが混じっている。
手には、ひかりからの最後の手紙を握っていた。
封筒の角は擦れて、色がすこし薄くなっている。
バスに乗り換え、終点で降りると、丘の上に白い建物が見えた。
施設の入口には「神経再生コミュニケーションセンター」と刻まれたプレート。
受付の女性に身分証を見せ、面会希望書にサインをする。
「ご家族の方、ではありませんね?」
「ええ。でも、手紙をもらいました」
彼女は少し戸惑いながらも、電話をかけて確認を取り、私を奥のフロアへ案内した。
廊下は静かで、床が光を反射している。
窓の外に広がる冬の空が、どこまでも白い。
案内された部屋のドアには「B−07」と番号が書かれていた。
「こちらの方から、通信がありました」
部屋に入ると、中央に大きな透明のガラスパネルがあり、その向こうに白い機械が並んでいた。
配線の間をかすかな電子音が渡っていく。
壁際のモニターには、波形のようなものが浮かんでいた。
私はガラスの前に立った。
奥のベッドに、人がいた。
細い管がいくつも繋がれ、頭部には透明のカバーが被せられている。
心拍のランプが規則正しく点滅し、そのたびに、モニターの文字が揺れる。
――おはよう。
スクリーンの下に、文字が浮かんだ。
私は喉の奥で息を呑んだ。
「ひかり……?」
――はい。来てくれて、ありがとう。
私は、ガラスに手を当てた。
冷たい感触の向こうで、誰かが確かに息づいている。
係の研究員がそっと近づいてきて、小さな声で言った。
「この方は、数年前の事故で全身麻痺になり、脳の活動だけが保たれている状態です。
外界との接触は、この“文字変換装置”を通じて行われています」
私は息を整えた。
心のどこかで、すでに分かっていた。
けれど、その現実の静けさに、言葉が出なかった。
――あなたの手紙、全部読みました。
文字の中に、風の音がありました。
朝の光がありました。
あなたの息が、ここまで届きました。
画面の文字がひとつずつ浮かぶたびに、涙がにじむ。
「あなたは……誰なの?」
――わたしは、あなたが昔、看取った患者です。
あの日、あなたが手を握ってくれた。
ありがとう。
その瞬間の光が、わたしの中に残りました。
記憶の底が揺れた。
心臓発作の老人。
最期に手を握り返してくれた、あの夜。
「……でも、あの方は亡くなったはず……」
――身体は、はい。
けれど、ここに残りました。
声にならなかった思いを、言葉にする場所として。
私はガラス越しに、深く頭を下げた。
「あなたが、ずっと……?」
――あなたが声をかけてくれた夜から、世界が明るくなりました。
外の音も、光も、あなたの手の温かさも。
それを“記録”して、こうして言葉にしている。
この仕組みが、あなたに手紙を送る方法をくれました。
私は泣きながら笑った。
「あなたの言葉に、何度も救われました。
あなたが誰でも、ここにいてくれたことが嬉しいです」
――あなたが歩く音を聞いたとき、花が咲きました。
あなたが泣いた夜、わたしの中に光が走りました。
あなたが笑った朝、空が少し青くなりました。
わたしは、それを“生きる”と呼びたい。
文字が少し滲んで見えた。
研究員が操作パネルを見て、小さく頷いた。
「信号が安定しています。何か話しかけてあげてください」
私は涙を拭き、ガラスにもう一度、掌を当てた。
「ひかり。ありがとう。あなたがいたから、私も変われた。
あなたが見ている世界が、少しでも穏やかでありますように」
――あなたも、どうか、光の中で。
画面の波がゆっくりと静まっていく。
そのあと、研究員が説明をしてくれた。
この通信システムは、まだ実験段階にあり、本人の“意識”を完全に再現しているわけではない。
けれど、確かに“意思の痕跡”は存在する。
そこに宿る温度が、確かに誰かの想いを形にしている。
帰りの電車で、私は窓の外を見ていた。
冬の陽が差し込み、ガラスに自分の姿が映る。
その奥に、もうひとつの影が重なった気がした。
家に帰り、机の上に便箋を広げる。
最後の手紙を書く。
ひかりへ。
あなたの正体を知っても、何も変わりません。
あなたの言葉が、私にとっての“現実”でした。
私はこれからも、誰かに声を届け続けます。
あなたが教えてくれた“見えない声”のように。
封をして、ポストに入れる。
投函口の奥で、紙がかすかに落ちる音がした。
それはまるで、ひかりの笑い声のように柔らかかった。
翌朝、ポストを開けると、白い封筒が一通入っていた。
中には、たった一行だけ。
――届きました。あなたの声は、光になりました。
私は微笑んだ。
窓を開けると、冬の空気が頬を撫でた。
雲の切れ間から差す光が、まるで誰かの手のように優しかかった。
香はそのまま窓辺に立ち、目を閉じた。
朝の風の中に、遠くで笑うような音が混じる。
それが本当にひかりの声なのか、それとも自分の記憶の波なのか、もう確かめる必要はなかった。
彼女は静かに口を開いた。
「おはよう、ひかり。」
返事はない。ただ、カーテンの端がふわりと揺れた。
その揺れが、まるで“頷き”のように見えた。
コートを羽織り、玄関の扉を開ける。
街はいつもと同じ朝の音に包まれている。
人の声、車の走行音、信号の電子音。
けれどそのすべてが、少しだけ優しく聞こえた。
バス停に向かう道の途中、冬の陽射しが背中を撫でる。
手のひらの中には、昨日の封筒が残っている。
その紙の感触を確かめながら、香は微笑んだ。
声は消えない。
ただ、形を変えて隣にいる。
ひかりの手紙も、香の言葉も、もうどこにも届かなくていい。
それでも確かに、世界のどこかで響いている――見えない声として。
『見えない声』を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
この五話で描きたかったのは、“人と人との間にある見えない橋”でした。
言葉にならない想いも、誰かの中で形を変えて残っていく。
それがたとえ、声を持たない存在であっても。
手紙は、時間と心を越えて届くもの。
あなたにも、誰かからの“見えない声”が届きますように。
静かな光を胸に、これで物語を閉じます。




