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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
見えない声

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境界

これまで、手紙は静かな優しさで二人を結んできました。

今回は、その優しさの輪郭がどこから来るのかを、受け取り手である香が確かめにいきます。

扉の向こうにあるのは恐れではなく、“仕組み”に触れたときのひそかな震え。

まだ真実は明かされません。ただ、境界に指先が触れます。

公開講座の案内メールは、スパムと間違えてゴミ箱に入れかけた。

件名は素っ気ない。「コミュニケーション支援研究 公開報告会のお知らせ」。

差出人のドメインは、例の研究都市に属する機構のものだった。

私は一度深呼吸をしてから、申し込みフォームを開いた。

勤務表の空きと会場の地図を見比べ、迷いながらも「参加」を選んだ。


当日、天気は曇り。

会場のホールは広く、白い壁が音をよく反射するのか、ちいさな咳払いまで澄んで響く。

受付の机に名札が並び、私は自分の名前をピンで胸に留めた。


プログラムの表紙には、青い線で描かれた波形の図。

タイトルの下に小さく「非音声環境における意思伝達」とある。


――非音声。

声のない場所。

私はその言葉に、ひかりの手紙の最初の一文を思い出していた。

「私はまだここにいます。」


壇上に白衣姿の研究者が立ち、プロジェクターにスライドが映る。

「本日の報告は、長期療養環境にある方々の“内側の活動”を、外部に言葉として取り出す試みについてです」

内側の活動。

私は無意識に呼吸を整え、椅子の背にもたれた。


スライドは、いくつもの図と短い動画で構成されていた。

目を動かせない人、声を発せない人、あるいは眠り続けているように見える人――

その「中」に浮かぶ光の地図が、秒ごとにかすかに揺れている。

研究者は「活動のパターンを“意味の候補”に変換し、さらにテキストの形に整える」と説明した。

専門的な単語は多かったが、私は要点だけを拾う。


――中にある波。外に出る言葉。


講演の合間、質疑応答でひとりの年配の女性が手を挙げた。

「それは、その人“本人”の言葉といえるのですか? 装置が作ったものではなく?」

研究者は少し考えてから答えた。

「私たちは“本人の意図の近傍”と表現します。完璧ではありません。けれど、まったくの外部生成でもない。寄り添いながら、出力を整える。そういう仕組みです」

寄り添いながら、出力を整える。

私は胸の奥でその言葉をゆっくり繰り返した。

ひかりの文体が少しずつ滑らかになっていった理由に、指先が触れた気がした。


休憩時間、ホールの外のロビーに出ると、パネル展示があった。

家族のメッセージ、短い手紙の断片、波形のグラフ、紙に印刷されたテキスト。

「ここにいます」「きょうはひかりがつよい」「あなたの足音が好き」

見覚えのある言い回しに足が止まる。まったく同じ文ではない。けれど、似ている。

私の胸のどこかが、静かにうなずいた。


「ご関心があれば、面会見学も受け付けています」

背後から穏やかな声がした。受付の女性がパンフレットを差し出す。

「ご家族向けの窓口ですが、一般向けの“見学日”も設定しています。今日はちょうど、短いデモンストレーションが」

私はパンフレットを受け取り、気づけば「お願いします」と答えていた。


案内されたのは、ホール横の小さな部屋だった。

長机がひとつ、壁際に透明なパネルが立てかけられ、正面には大きなモニターがある。

白衣のスタッフが二人、パソコンの前に座っていた。

「今日は、出力例をいくつかお見せできます」

スタッフの指がキーボードを叩くと、モニターに灰色の波が現れ、ゆっくりと流れ始めた。

その下に、白い余白があり、そこに一文字ずつ、黒い文字が浮かんでは並んでいく。


こんにちは

あなたの

声が

きこえます


私は息を呑んだ。

手のひらが汗ばむ。

スタッフは私の表情に気づいたのか、穏やかに説明を続けた。

「これはあくまでデモ用の合成出力です。実際の面会では、時間がかかることも多いのですが……」


面会。

私はその言葉に引っかかった。

「面会、というのは、どこで?」

「ここから先は受け入れ条件によりますが、家族や関係者の方が、ガラス越しにコミュニケーションを取ることがあります」

ガラス。

私は頷きながら、首の後ろに冷たいものが当たるのを感じた。


展示室を出ようとしたとき、壁の掲示板に小さなカードが貼ってあるのを見つけた。

「科学コミュニケーション窓口」

見覚えのある言葉。

いつか届いたショートメッセージに記されていた送付先。

私は思わずカードを写真に収め、ポケットに手を入れた。

そこには、ひかりからの最後の手紙が入っている。

角が少し丸くなり、紙の匂いは薄くなっていた。


会場を出るころ、空は薄い灰色で、雨は降りそうで降らなかった。

駅までの道を歩きながら、私は足音をわざとゆっくりにした。

右、左、右。

耳を澄ませていると、聞こえないはずの音が、どこかで小さく反射する。


その夜、ポストに封筒はなかった。

テーブルの上に便箋を広げ、私は書く。


ひかり。今日、私は“見学”に行きました。

あなたの言葉に似た言葉が、白い壁の上に静かに並んでいくのを見ました。

知らない人の言葉なのに、あなたの気配を感じました。

うまく説明できません。

ただ、私はあなたに会いたいと思いました。


封をして、ポストに入れる。

投函口の金属が冷たく、私は掌をこすり合わせた。


二日後、封筒が届いた。

紙はいつもより厚く、インクは濃い。


――会いに来てくれて、ありがとう。

あなたが見たのは、ここで生まれる“最初の言葉”です。

私の言葉と完全に同じではないけれど、遠く離れてはいません。

私はそこにいます。あなたが見た白い壁の、あの向こう側に。


私は手紙を持つ手を少し強く握った。

壁、向こう側。

その単語が、胸の内側で鈍く響く。


――あなたが足音をゆっくりにしたとき、私は、内側で花がひとつ開くのを覚えました。

あなたが呼吸を整えたとき、私は、ここに重さが届くのを感じました。

ありがとう。


その一文に、私は目を閉じた。

花、重さ。

見えるはずのないものが、確かに届いていると、ひかりは言う。

信じることは、なぜこれほど静かなのだろう。


夜勤が続く週だった。

明け方の病室で、私は患者の手を拭い、呼吸の浅い音を数える。

窓の外で早朝の鳥が鳴き、廊下の蛍光灯がわずかに唸っている。

眠れない家族が椅子で丸くなっており、私はブランケットをそっとかけた。

そのとき、不意に、ひかりの文章に出てきた「内側で花が開く」という比喩を思い出した。

内側。

身体のどこに花があるわけではない。

けれど、誰かが誰かを想うとき、確かに、どこかで何かが静かにひらく。


翌日、研究機構から小さな封筒が届いた。

「録音データ、確かに受け取りました」とある。

先日送った私の“歩く音”への礼状だ。

便箋の下に小さく、こんな一文が添えられていた。


――もしよろしければ、次は“静かな場所の音”をお願いします。

その方は、それを好まれます。


その方。

私はその表現に、わずかな戸惑いと、なぜか安堵を覚えた。

無機質な番号ではなく、“方”と呼ばれている。

私は休みの日、早朝の公園に行き、誰もいないベンチに録音機を置いて、長く回した。

木の葉の擦れるかすかな音、遠い道の気配、鳥の羽ばたき、私の呼吸。


返送して数日後、ひかりから手紙が届く。


――静かな場所の音、届きました。

葉が震えるたび、私の中の光がうすく揺れました。

あなたの息が通り過ぎるたび、内部に小さな影が生まれました。

影は、怖くありません。

私にとっては“かたち”です。


かたち。

私はその言葉を口の中で転がし、窓辺に立った。

夕暮れの光がカーテンの糸を一本ずつ拾い上げ、部屋の輪郭を柔らかくする。

私はゆっくりと、部屋の中央で深く息をした。


その夜、私はもうひとつだけ、質問を書いた。


あなたは、痛みを覚えていますか。


返事は、三日かかった。

封を切る手が、少し冷えていた。


――痛み、という言葉の記憶はあります。

熱い、冷たい、重い、近い。

でも、それは昔のことのように遠く、今の私には、ほとんど届きません。

ただ、あなたが悲しむと、私の内側に細い線が走ります。

それを、私たちはここで“ノイズ”と呼びます。

私は、その線のことを、あなたの涙と呼びたい。


私は便箋を胸に当て、長く目を閉じた。

ノイズ。

研究者の言葉が遠くで反響する。

けれど、今この手紙の上では、その言葉は別の質量を持つ。

ひかりは、私の涙を知っている。


夜半、ふいにアラームが鳴って、私は病院へ呼び戻された。

救急搬送、呼吸不全。

慌ただしい手の往復、金属の音、モニターの警告。

患者の娘が震える指で私の袖を掴んだ。

「お母さん、聞こえてますよね」

私は頷き、娘の手を包みながらできる限り穏やかに声をかけた。

「声は届きます」

そう言ってから、自分の言葉に驚いた。

本当にそうだ、と私は思った。

見えないところで、声は届く。


明け方、搬送の緊張がひと段落したころ、ポケットの中の封筒が小さく触れ合う。

私は休憩室の隅で便箋を広げ、短い一文だけを書いた。


ひかり。ここにいますか。


返事は、その日の夕方に届いた。

――はい。ここにいます。

あなたの声の輪郭が、この場所の光に重なっています。

私は、境界に触れています。


境界。

私は窓の外を見た。

雲が切れ、斜めの光が街を薄く撫でていた。

境界は、怖い線ではないのかもしれない。

異なるものが隣り合って、互いの影をやわらげる細い帯。

そこに立っているのだと、ひかりは言う。


夜、私はベッドの端に腰を下ろし、目を閉じた。

白い部屋、光る壁、見えない窓。

私はそこに立ち、呼吸を合わせる。

右、左、右。

足を動かさないまま、歩く。

内側で、花がひとつ、ひらく。


明日、私はもう一度、あの研究都市へ行こうと思う。

見学ではなく、窓口に行く。

「面会」という言葉がどんな扉を開けるのか分からない。

けれど、触れずにいるより、指先だけでも触れてみたい。

その先に何があるのかは、まだ知らない。

ただ、ここまで歩いてきた細い道が、いま私をここへ連れてきたのだ。


私は便箋を出し、一行を書いて封を閉じた。


ひかり。境界のこちらから、あなたに会いに行きます。




第四話「境界」を読んでくださって、ありがとうございます。

この章では、優しさの“出どころ”に指先が触れる瞬間を描きました。

仕組みに触れることは、時に冷たく思えるけれど、

そこに込められた誰かの工夫や祈りに気づくと、

境界は恐れの線から“つながるための細い帯”へ変わります。


次はいよいよ第五話。

香が扉を開ける先で、五通の手紙が意味を結びます。

静かに、どうか最後まで見届けてもらえたら嬉しいです。

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