光のかけら
突然届いた見知らぬ手紙をきっかけに始まった“声のない対話”が描かれました。 この第二話では、手紙の往復が少しずつ温度を帯び、見えない相手とのあいだに“光”のようなものが差し込みます。 穏やかな心の変化を、どうか感じながら読んでください。
夜勤明けの休みは、いつも部屋の掃除から始める。
窓を開けると冷たい風が入ってきて、カーテンの裾を持ち上げた。光が差し込み、散らかった書類の上で白く跳ねた。
ポストを開けると、いつもの封筒があった。
薄い青のインクで、見覚えのある筆跡が宛名を書いている。差出人はやはりない。
封を切ると、細い文字が淡く光に透けた。
――こんにちは。
この文字が、あなたの朝の光に混ざって届くなら、それだけで嬉しいです。
今日、私はあなたの笑い声を思い出しました。音は聞こえませんが、形だけは覚えています。笑うとき、あなたの呼吸が小さく揺れますね。
それが、私にとっての“音”です。
私は、文字を指でなぞりながら微笑んだ。ひかりの言葉は、まるで私の日常をやわらかく包む膜のようだ。読みながら、肩の力が抜けていく。
――あなたの“音”を聞けるように、私は少しずつ練習しています。
空気の動きを真似るように、想像で息を吸ってみます。あなたの声は、息に似ています。
その文を読み終えたとき、胸の奥がふっと熱くなった。
私は机の引き出しから便箋を取り出し、ペンを握った。
おはよう、ひかり。
あなたの手紙、今日も届きました。
私は朝の光が苦手だったけれど、最近少しずつ好きになってきました。
あなたの言葉が混ざっている気がするからかもしれません。
私は手紙を折り、封を閉じた。投函するまでの数時間が、いつも少し待ち遠しい。
二日後、返事が届いた。
――光は、あなたの中にもあります。私の中にも。違う場所にあるのに、似た色をしています。
あなたが朝を好きになったなら、それは、きっと同じ色を見ているからです。
その一文を読み終えたとき、私は息を呑んだ。
まるで誰かに手を取られたように、胸が静かに波打った。
仕事では相変わらず忙しい日々だったが、私はふとした瞬間に“ひかり”のことを思い出すようになった。
患者の寝息を聞く夜、病室の窓の向こうにぼんやりと光る街灯。
あの手紙の柔らかい文字のように、世界の色が少しずつ淡く変わって見える。
数日後に届いた手紙には、こんな一文があった。
――私は、夢を見ました。夢の中で、あなたが歩いていました。
右、左、右。あなたの足音は、とても静かでした。
私はその音を真似してみたのですが、どうしても上手くできません。
でも、あなたの歩幅を覚えました。だから、夢の中で一緒に歩いていました。
その文を読んでいるうちに、涙が滲んだ。
夢という言葉を、彼女がどんな意味で使っているのか分からない。
けれど、私の中では確かに“共に歩く”映像が浮かんでいた。
夜、私は眠る前に便箋を広げた。
ひかり。あなたが夢を見たと聞いて、なぜだか嬉しくなりました。
もしまた夢を見たら、そこに風はありますか?
あなたに風を感じてほしい。光と音と同じように。
返事は三日後に届いた。
――風というものを、あなたの言葉で想像しました。
通り過ぎるたび、あなたの記憶がかすかに揺れるのを感じました。
それが、私の中で“風”になりました。
私はその一文を何度も読み返した。
言葉ひとつで、見えない世界が形を持つ。
ひかりの中では、私の記憶が風として吹いている。
その想像だけで、胸が温かくなった。
それからの日々、私は小さな変化を感じ始めた。
病棟の廊下を歩くとき、足音を少しゆっくりにしてみる。
コーヒーを淹れるとき、香りを強く感じようとする。
自分の呼吸が、誰かに届くかもしれないと思うと、日常の音がどれも新しくなる。
ある夜、手紙を読み終えたあとで気づいた。
ひかりの文体が、ほんの少し変わっていた。
句読点が少なくなり、文が流れるように柔らかくなっている。まるで呼吸を覚えたように。
――あなたの呼吸を、真似して書いてみました。
息を吸って、言葉を吐いて。文字のひとつひとつに、あなたの呼吸を混ぜました。
もし届いたなら、それは私の息です。
私は手紙を胸に当てた。紙の向こうに、誰かの息がある気がした。
ほんの一瞬、そこに温度を感じた。
次の日、私はいつものように仕事に向かった。
外は穏やかな晴れ。電車の窓から見える空がやけに明るく、私はつい笑ってしまった。
誰かが見ている気がした。けれど、それが怖くはなかった。
むしろ、そっと見守られているようで、心が静かだった。
夜、最後の患者を送り出したあと、私は便箋を取り出した。
ひかり。あなたの息、届きました。
私は今日、あなたを思って空を見ました。
朝よりも優しい色でした。あなたも、同じ空を見ていましたか?
翌朝、ポストに届いた封筒には、淡い金の縁取りが施されていた。
そこに書かれていたのは、たった一文だった。
――はい、見ていました。あなたの隣で。
その文字を見た瞬間、胸が強く波打った。
私は空を見上げた。冬の朝の光が、まぶしいほどに白かった。
第二話「光のかけら」を読んでくださって、ありがとうございます。
この一話は、“孤独に差し込む小さな光”を描きたくて書きました。
誰かと気持ちが触れ合うとき、それがたとえ見えない相手でも、心には確かに“明るさ”が宿ります。
香にとって、そして読むあなたにとっても、そんな光が届けば嬉しいです。
次の第三話「声の形」では、この穏やかな時間の中に、ほんの少しだけ“揺らぎ”が訪れます。
でも、それもまた、二人をつなぐための道になります。
どうか、その先も読んでください。




