届かない住所
この物語は、五話から成る連作です。
差出人も、宛先も、最初は誰にも分かりません。
ただ、ひとつの手紙を受け取った人が、見えない誰かと心を通わせていく――そんな物語です。
五話の手紙で、すべての意味が明らかになります。
ポストの口は、夜勤明けの指先には冷たすぎた。十一月の乾いた風が頬を撫で、私は重いカバンを足元に置いて、差し込まれていた白い封筒を引き抜いた。
宛名は私の名前。差出人はない。消印は見慣れない地名で、地図の端に小さく載っている研究都市の名前だった。
玄関の灯りをつける前に、私はその場で封を切った。中から、罫線の薄い便箋が一枚、するりと落ちる。拾い上げると、さらさらとした細い文字が並んでいた。
――私はまだここにいます。あなたが眠る前に、どうしてもこれを伝えたくて、手紙を書きました。
私は戸口で立ち尽くした。夜勤は救急外来。今夜は運ばれてきた心臓発作の老人が、家族の手を握りながら息を引き取っていった。手の温度が失われていくのを何度も見てきた。けれど「まだここにいる」という言葉は、死と生の境目に置かれた小さな石のようで、私は足を止めざるを得なかった。
靴を脱ぎ、台所の灯りだけをつける。湯を沸かす音の向こうで、手紙の文字が静かに立ち上がる。
あなたが笑った朝の気配を、私は覚えています。カーテンの端をつまむ光、あなたの腕時計が鳴らす短い電子音、薄いミントの香り。今はどれも直接は届きませんが、形の違う方法で、確かに触れています。私は、まだここにいます。
香り? 触れている? 私は首を傾げ、便箋の縁を指でなぞった。差出人の名前はどこにも記されていない。思い当たる人の顔を順に浮かべる。家族、大学時代の友人、元恋人、職場の誰か。どれもしっくり来ない。
湯が鳴り、私はマグにお茶を注いだ。湯気の向こうで文字は揺れて、しかし意味は揺れない。
あなたがこの手紙を受け取ったとき、私は開くことも閉じることもできない窓のそばにいます。風はありません。けれど、あなたの声に似た振動が、いつも遠くから伝わってきます。私は、それに耳を澄ませています。
耳を澄ませる? 私は笑ってしまった。どこで、どんなふうに? 私は医療者として、経験的に知っている。人は自分の身体から離れては生きられない。けれど、夜勤明けの頭は、理屈よりも先に、言葉の温度で何かを受け取ってしまう。
私は便箋の最後まで目で追った。そこには住所らしきものが印刷されていた。見覚えのない番地、見慣れない施設名。研究都市の中にある、リハビリテーションセンター。最後の一行だけが、手書きだった。
――返事を、ください。あなたの字が見たいのです。
私は便箋を二つに折り、テーブルに置いた。返事など書くべきではない、と頭のどこかが言った。いたずらかもしれないし、何かの宗教勧誘かもしれない。だが、文字は私をよく知っているように見えた。電子音、ミントの香り。私の朝のルーティーンを知っている人間は、限られている。
寝る前に洗濯機を回し、目覚ましをセットし、布団に潜った。目を閉じると、便箋の「ここ」という語が浮かんだ。ここ、とはどこか。窓のそば、と書いていたが、窓は開かないと言う。風はないと言う。けれど、私の声に似た振動があると言う。曖昧な比喩のようで、説明のようでもある。
次の日、私は投函元の住所を地図で調べた。灰色の衛星写真に、四角い建物が広がっていた。周囲は草地のようで、人の影は見えない。施設のホームページを開く。機能回復、長期療養、先進的コミュニケーション支援。難解な言葉が並ぶ。スタッフ紹介のページには、知らない医師たちの笑顔が並んでいた。
昼休憩の合間に、私は返事を書いた。差し障りのない挨拶と、簡単な自己紹介と、質問をひとつ。
お手紙、受け取りました。私は西條香。病院で働いています。あなたは、どなたですか。どうして、私の朝のことを知っているのですか。
書いたあとで、紙を裏返し、名前を書いた指先が小さく震えた。便箋は、誰に宛てればいいのだろう。封筒の宛名は自分の名前だった。差出人は空欄だった。私は、施設の住所を書き、宛名に「初めて手紙をくださった方へ」と記した。ポストに投函すると、胸の奥が少し軽くなった。職場に戻ると、午前の外来が押していて、手紙のことは一時的に薄い膜の向こうへ追いやられた。
返事は二日で届いた。今度は薄いグレーの封筒。紙の匂いは控えめで、インクの跡が少し盛り上がっている。手紙は短かった。
――名前は、今は言えません。あなたが知っている名前が、今の私と一致するのかどうか、まだ確かではないからです。けれど、私はあなたの笑い方を知っています。歯を見せずに頬だけで笑うこと、目の下の小さなしわの場所、笑ったあとに喉で小さく息を整える癖。私が覚えているのは、たぶん、あなたの声の形です。
声の形。私は声を出して読み上げ、紙に置いた視線を外にやった。窓の外で、配達員が台車を押している。金属の音がアスファルトに擦れて、短く跳ねた。
私は今までにも奇妙な手紙を受け取ったことがある。患者の家族から届く、誰にも宛てられない嘆き。夜中の病棟で、誰かが書き置いていった遺書。それらはどれも、書いた人の温度をもっていた。この手紙にも、温度がある。だが温度は、体温とは少し違う。紙から伝わるものは熱ではなく、密度のようなものだ。短い文の隙間に、濃い何かが沈殿している。
その夜、私はまた返事を書いた。質問はいくつも浮かんだが、私はそれらを手のひらに載せたまま、一つだけ選んで紙に置いた。
あなたは、私の何を覚えていますか。
返事は翌日には届いた。驚くべき速さだった。封は丁寧に閉じられ、切手の位置はわずかに斜めで、誰かの手仕事の気配がある。中の便箋に、私は指先で触れた。
――あなたが眠れない夜、階段の踊り場で息を整えていること。朝の電車で、吊革に掴まった手を時々離して、指を開閉していること。疲れたとき、右のこめかみを小さく押す癖。晴れの日の午後、自販機の前で何秒か立ち尽くして、結局水を選ぶこと。小さなことばかりで、ごめんなさい。けれど、私は大きなことをうまく覚えられないのです。私は、細部のほうに近づいてしまう。
私はぞくりとした。見られている、という恐怖ではない。むしろ、見守られている、とでも言うべき静けさが背中に乗った。けれど、どうやって。私の生活圏に、その施設はない。誰が、どういう経路で、私の日々の小さな反射を見ているのか。
私は初めて、友人にこの手紙のことを話した。同期で、病棟の先輩でもある田村に、夕方のロッカールームで封筒を見せた。彼女は眉を上げ、ため息をついた。
「香、それ、ストーカーの可能性。警察に相談して」
「分かってる。でも、手紙の文面が……変なの。怖がらせる感じじゃなくて、なんて言うか、私が忘れていた私を拾って、返してくれるみたいな」
「それが余計に厄介なのよ。優しさって、距離を曖昧にするから」
彼女の言葉はまっすぐだった。私はうなずきながら、便箋の「細部」という語を思い返した。私が自分で気にしていない些細な癖。それらは確かに私を作っている。だが、それを知っている人間は限られる。元恋人は、そんな細部には興味を示さなかった。家族は、私を全体で見る。職場の同僚は、疲れの輪郭しか好きではない。
私は返事の一部を書き換え、最後に一行だけ加えた。
あなたは、どこから、私を見ていますか。
返事は、また二日で届いた。今度は、便箋の紙質が少し変わっていた。柔らかく、吸い込みがよく、指に触れると薄い音がする。
――ここは、寒くありません。暑くもありません。風は来ません。音は、あなたの声のようにして、光と一緒に届きます。私は、ここに固定されていて、足音のたて方を忘れました。けれど、あなたの歩き方のリズムを覚えています。右、左、少しだけ右が早い。あなたは、いつも忙しそうに歩きます。どうか、一度だけ、ゆっくり歩いてください。私に、その音を聞かせてください。
私は、読みながら笑っていた。歩き方のリズム。そんなこと、誰が知っているというのだろう。私は立ち上がり、廊下をわざとゆっくり歩いた。足裏の着地を確かめ、息を浅くして、音を小さくした。部屋の空気は、特に何も変わらない。何も起きない。当然だ。だが、私は次の日、駅のホームでいつもより半歩遅く歩いた。吊革に掴む手を開閉せず、指を伸ばしたままにした。まるで、見えない誰かに歩き方を見せるように。
それから一週間、手紙は定期的に届いた。短い文、短いお願い、短い記憶の断片。それらは、私の生活の微弱な反射を拾い上げ、別の角度から返してくる。
――あなたがミントの歯磨き粉をやめた日の朝、私は、別の香りを覚えました。柑橘。あなたの舌の先に残る、わずかな苦味。
――あなたが夜、窓の外に顔を向けるとき、私は、あなたの横顔の影を思い出します。そこに目はありません。けれど、私は見ています。
――あなたが怒ったとき、あなたは黙ります。私はそれを怒りだとは気づけませんでした。けれど、今は分かります。黙ることも、音の一種です。
読めば読むほど、書き手の輪郭はぼやけ、しかし内側は濃くなっていく。私は次第に、差出人が誰かを突き止めることに焦りを覚えなくなった。代わりに、手紙を介して世界が少しだけ違って見え始めた。歩く音、指の開閉、こめかみを押す癖、自販機の前でのためらい。これらはすべて、私自身の生活の“端”にあった。手紙は、その端を撫で、際立たせ、中心のようにして見せる。
仕事の合間に、私はまた地図を見た。研究都市は相変わらず四角い。施設のブログには、患者の家族へのメッセージが掲載されている。会えない日々も、声は届きます、という言葉。私は空いている時間に電話をかけ、受話器の向こうの事務員に尋ねた。個人情報は教えられないという当たり前の答えのあとで、事務員は一呼吸置いて、言った。
「お手紙……ですか。こちらからご家族に転送されることはあります」
「ご家族に?」
「こちらでは患者さんに直接……その……読んでいただくことが難しい場合が多いので」
難しい、という語に、私は沈む石の重さを感じた。どういう意味か、と問い返すべきだった。けれど、私は礼を言って電話を切った。通話の終了音がやけに柔らかくて、私はしばらく、机に置いた自分の手を見つめていた。
その夜、私は長い返事を書いた。普段は避けている一人称を何度も使って、私は、私は、と繰り返した。私が働く理由、私が嫌う沈黙、私が好きな音、私が苦手な光、私が時々、夜に吐き出す深い息。私は、自分でも知らなかった自分を言葉で照らそうとした。
最後に、私は一行を書いた。
あなたの名前を、ひとつ、私にください。
返事は、思いがけず早かった。今まででいちばん短い手紙だった。
――名前は、まだ返せません。けれど、呼び名をください。あなたが私に付けてくれるなら、私はその名で、あなたを呼びます。
私はしばらく紙を見つめ、ペン先を宙に止めた。名前を付けることは、世界に輪郭を与えることだ。私は、自分が何をしようとしているのかを理解し、少しだけ怖くなった。
それでも私は、書いた。
――では、「ひかり」と呼びます。あなたの文の中に、いつも光があるから。
返事は翌日に届いた。封筒の中には、はじめて小さなカードが入っていた。端にごく薄い金の縁取り。カードには、たった一文だけ。
――ひかりです。あなたを、見ています。
私はカードを指先で弾くように持ち、光にかざした。紙の繊維が淡く透ける。その向こうで、台所の窓に朝の白が広がっていく。私は台所の時計の秒針の音を数え、ゆっくりと歩いてみた。右、左、少しだけ右を遅く。私は笑った。誰にも見られていないのに、笑っていた。
カードの言葉が、まだ指先に残っている気がした。
「あなたが笑うと、世界のどこかで風が動きます。」
湯気の立つポットの音。カーテンの隙間を抜けてきた風が、カードの角をわずかに揺らす。
私はそれを見ながら思った。――笑うって、音のない返事なのかもしれない。
返事を出さなくても、世界のどこかで誰かが受け取っている。
朝の白が少しずつ金色に変わっていく。
私はカードを食卓に置き、もう一度だけ指で撫でた。
それはまるで、目に見えない手紙を送るみたいな仕草だった。
最初の手紙は、まだ「奇妙な出来事」にすぎません。
けれど、どこかに“あなた”がいると信じて言葉を差し出すこと、
その一歩の温度を描きたかった一話です。
書いているとき、私も少しだけ「見えない誰か」に語りかけているような気持ちでした。
手紙って、そういうものかもしれませんね。
第二話「光のかけら」では、この静かな往復が少しずつ“光”を帯びはじめます。
どうか、次の手紙も受け取ってください。




