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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
言葉の残る場所

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33/47

矢印の先に人がいる

白い照明の下で、湊はマウスを動かしていた。

パワーポイントの画面には、矢印と四角で組まれた図。

クライアントの指示は「社会の流れをシンプルに」。

上に“グローバル経済”、その下に“政府・企業”、最下層に“国民”。

そして、それらをつなぐ数本の矢印。

整ったデザインのはずなのに、どこか空虚だった。


「湊くん、ここ、“国民”をもっと下げて。バランス悪いから」

上司の声が後ろから飛ぶ。

「はい」と答えながら、湊はマウスを少し下げた。

ほんの数センチ、でもその線の意味が変わる気がした。


図の中に“顔”がない。

矢印の先には、人の名前も温度もない。

けれど、それを求める人もいない。

効率と伝達が最優先される世界で、

湊は日々、言葉のない図を描いていた。


残業が終わる頃、社内は静まり返っていた。

蛍光灯の光が白く滲み、机の端の紙コップが影を落とす。

ふと、湊は引き出しを開けた。

古い封筒が一枚入っている。

年賀状――母から届いたものだ。

「今年も元気でね」と、柔らかな文字で書かれている。

返事を出そうと思いながら、もう三ヶ月が過ぎていた。


ディスプレイを閉じると、音が消えた。

耳の奥に、紙のこすれる音が残る。

この静けさの中なら、言葉が戻ってくる気がした。


湊は机の上に便箋を広げ、ボールペンを握った。

しばらく文字が出てこなかった。

でも一度ペン先が紙に触れると、

まるで堰を切ったように書き始めていた。


お母さんへ。


この前は電話出られなくてごめん。

忙しいというより、うまく話せる自信がなかったんだ。

なんだか最近、自分の言葉が空回りしてる気がする。


ぼくの仕事、説明したことあったっけ。

行政とか企業のプレゼン資料をつくってる。

“わかりやすく伝える”のが目的なんだけど、

最近、その“わかりやすさ”って何なのか分からなくなってきた。


今日つくった図は、「社会の構造」を示すやつ。

上にお金、真ん中に政治とメディア、下に国民。

矢印をつなげば、それっぽく見える。

でも見てるうちに、どこか気味が悪くなる。

誰も描かれていないのに、全部が決まっているようで。


お母さんの仕事は、もっと直接的だよね。

子どもたちの顔を見て、声を聞いて、

ときには怒って、ときには笑って。

ぼくが小学生だったころ、作文を見てくれたのを覚えてる。

「主語が抜けてるよ」って、赤いペンで書いてくれた。

その横に、小さな矢印があってね。

“ここからここへ、気持ちをつなごう”っていう印。


あの赤い線、今も目に浮かぶ。

ぼくにとって、最初の“修正”だった。

でも、あれは訂正じゃなくて、“導き”だった気がする。

あの頃のお母さんの矢印には、ちゃんと人がいた。


ぼくのつくる図には、人がいない。

それでも世の中は、それを“正しい”って言う。

でも、もしお母さんが見たら、何て言うだろう。

「人を描きなさい」って、たぶん笑って言うよね。


この手紙を書きながら、少し泣きそうになってる。

子どもみたいだよね。

でも、久しぶりに“自分の言葉”で書いてる気がする。

だから、これを残業明けの机に置いて帰る。

また続きを書くね。


湊より


朝いちばんの社内は、紙とトナーの匂いがする。

夜のあいだに冷えた空気のなかで、湊は昨夜の便箋をもう一度読み返した。

文字のゆらぎが、眠気よりも確かな現実だった。

送るつもりのない手紙は、机の引き出しに戻す。

送らない限り、誰にも傷はつかない――そう思っていた。


午前の会議。

クライアント席から見えるよう、スクリーンの矢印は少し太くした。

上司は「視認性が上がった」と満足げに頷く。

湊はうなずき返しながら、心のどこかで昨夜の赤い線を思い出していた。

主語が抜けてるよ。

黒い図形の間に、見えない指で書かれたあの言葉が滲む。


昼休み、玄関の自動ドアが開く風の音に、不意に故郷の学校の匂いを思い出した。

廊下のワックス、牛乳パックの紙、チョークの粉。

思い出は順番を守らずにやってくる。

湊はスマホを取り出し、母の番号を開いたところで閉じる。

「いま職員室かな」

声を聴くより先に、教室のざわめきが耳の奥で立ち上がる。


午後、修正したスライドに赤いコメントがついた。

〈この矢印、逆にできますか?〉

湊は矢印を反転させる。

線は軽く動く。

けれど、手のひらには、紙を押さえつけるときの力が残らない。

マウスは、何も重さを伝えてこないのだ。


退勤後、最終バスに間に合う時間だった。

湊は衝動のようにコンビニで切手を買う。

封をしていない昨夜の便箋を、封筒に滑り込ませた。

宛先を書いてから、しばらく見つめる。

ポストの口に差し入れると、紙が冷たい金属に触れて、すっと落ちた。

小さな落下音が、胸の底で響いた。


翌日。

昼前に一本の電話が入る。

表示は「母」。

出ると、受話器の向こうで、子どもたちの声が遠く反射していた。

「いま、読み聞かせ終わったところ。三年生、落ち着きがなくてね」

母の笑い声が、少しだけかすれている。

「手紙、届いたよ。字が昔のままだね」

湊は息を呑む。

送るつもりがない、という自分の設定は、紙と一緒にポストの底でひっくり返っていた。


「返事、書くね。今日の放課後に」

通話は短く切れた。

たぶん、次の授業のチャイムが鳴ったのだ。


夕方、ポストに薄い封筒が入っていた。

「早瀬湊さま」と、見慣れた筆致。

定形の切手の上に、校章入りの消印。

湊は玄関先で、立ったまま封を切った。


――湊へ。

授業の合間に書いています。

あなたの手紙、読んだよ。

矢印の話、むずかしいけど、わたしには少しわかる気がした。

教室にも見えない矢印がたくさんあります。

黒板と子ども、子どもと子ども、子どもとわたし。

矢印は、片方だけが動かすものじゃないんだって、最近とくに思う。

わたしが話すと、子どもたちは目で返事をする。

沈黙で返す子もいる。

そのとき、矢印はわたしのほうへ、静かに戻ってきます。

戻ってくる矢印は、叱ったあとに抱きしめる腕に似ている。

痛いところと温かいところを、両方で確かめる感じ。


あなたの図にも、戻ってくる矢印を一本描けたらいいね。

それは便利じゃないかもしれないけど、

人がいる図になると思う。


赤いペン、まだ机にあるよ。

インクはとっくに切れています。

でも、押せば跡はつくの。

すこし紙がへこむでしょう。

あれは、声のない字です。

誰にも聞こえなくても、紙だけは覚えていてくれる。


今度帰っておいで。

駅まで迎えに行くから。

風が強い日が続いてるから、首もとを温かくね。

母より。


手紙は、ほんの数行の余白を残して終わっていた。

湊は封筒を握りしめた手を、ゆっくりと開く。

紙に押しあとがある。

古い赤ペンでつけたのだろう、小さな点々。

インクが出ないはずの赤が、確かにそこにいた。


夜、湊は二通目の手紙を書いた。

返事というより、報告に近い。

職場のこと、同僚のこと、昼休みに見た鳩のこと。

取り留めのない言葉を書いては消し、

最後に一行だけ残した。


――戻ってくる矢印、描いてみるよ。


その翌日、クライアントとの最終確認があった。

スライドは整い、色は均一、数字は桁が揃っている。

湊は、図の隅に一本の細い線を加えた。

見れば見るほど消え入りそうな薄い矢印。

それは最下段の四角から、静かに上へ戻っていく。

上司は気づかなかった。

クライアントも、気づかなかった。

気づかれない線が、はじめて意味を持つこともある。

湊はそう信じたかった。


業務の終わり、エントランスの自動ドアが開くと、

夕暮れの風が胸の内側を通り抜けた。

電話が震える。

短いメッセージ――〈駅、東口で待ってる〉

母の名。

定年を控えた小さな学校の教師は、相変わらず約束の時間より十分早く来る人だった。


ホームに着くまでのあいだ、湊はポケットの封筒を何度も確かめた。

古い赤ペンが一本、布のペンケースに入っている。

帰りに寄った文具店でわざわざ買ったインクは、

その赤には合わなかった。

ペン先の擦れる音だけが、静かに残った。


電車の窓に、街の光が流れていく。

矢印の先に、誰かの顔が見えた気がした。

それは、スクリーンには映らない光景だ。

湊は目を閉じる。

列車がカーブに差し掛かる。

帰り着く駅のホームで、風がきっと吹いている。


駅のホームには、春の匂いが少し混ざっていた。

電車のブレーキ音とともに、湊の視線は人の群れをなぞる。

改札口の向こうに、小さな人影。

母はグレーのコートの袖を押さえながら、何度も背伸びしていた。

髪に白いものが混じっている。

その一筋一筋が、彼の知らない時間を語っていた。


「おかえり」

母は短くそう言って、笑った。

湊は頭を下げ、何か言おうとしてやめた。

駅の風が二人の間をすり抜けていく。


車の中で流れるラジオは、地方ニュースを淡々と読み上げていた。

道路沿いの看板が一瞬ごとに過ぎていく。

「忙しかったんでしょう?」と母が尋ねる。

湊は「うん」とだけ答える。

「でも、楽しいよ。少しずつ、わかることが増えてきた気がする」

自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

母は笑ってハンドルを握り直す。

「それならいいわ。図だけじゃなくて、ちゃんと顔も見えてるんだね」


実家の玄関は、昔と同じ音を立てて開いた。

廊下の先、居間の隅にあった小さな机。

その引き出しの中から、母が赤いペンを取り出した。

プラスチックの軸は色あせ、ペン先の金属がわずかに黒ずんでいる。

「インクはもう出ないけどね」と母が笑う。

湊は試しに、メモ用紙に軽く押しつけた。

赤くはならない。けれど、確かに跡が残った。


その夜、夕飯を食べながら、母は子どもたちの話をした。

問題児のこと、絵が上手な子のこと、給食で騒いだ日。

湊は相づちを打ちながら、

自分の会社での会話の少なさを思い出した。

ここでは、矢印も数値もいらない。

話すことが、そのまま形になる。

それが、あまりに自然で、眩しかった。


食後、母は手紙の束を取り出した。

古い便箋に包まれた、小さな束。

「あなたが小学生の頃に書いた作文よ」

ページをめくると、稚拙な字で「ぼくのすきなひと」と書かれていた。

その最後に赤い矢印があり、

「がんばったね。主語がぬけてるよ」と添えられていた。

湊は笑って目を伏せる。

「ほんとに全部覚えてるんだね」

「忘れるわけないでしょ。あなたの字は、目で読むより先に心で読めるの」


夜更け、湊は再び机に向かった。

便箋の上に、静かに赤ペンを置く。

母が寝静まったあと、

窓の外の風が、紙を少しだけめくった。


お母さんへ。

今日の夕飯、すごくおいしかった。

あの赤ペン、まだ押しあとが残るんだね。

ぼくも、あした会社で新しい図を描くよ。

でも、上も下もつくらない図。

人と人を、ただまっすぐにつなぐ線。

その先に、ちゃんと顔が見えるようにしたい。


ありがとう。

ぼくのはじまりを、もう一度くれたみたいだ。


湊より。


便箋をたたみ、赤ペンの横にそっと置く。

それでいいと思った。

出さない手紙が、確かに届いている気がした。


朝、母は台所で湯気に包まれていた。

「今日は早いのね」

「うん、少しだけ早く会社に行こうと思って」

「気をつけてね」

湊はうなずき、靴ひもを結ぶ。

玄関を出ると、風がやわらかく頬を撫でた。


出勤の車窓に、朝日が差す。

画面に開いたスライドには、昨夜考えた新しい図が映っている。

そこには、上下も優劣もない。

ただ、人と人をつなぐ輪のような線。

中心には、まだ名前のない小さな点。

そこから無数の矢印が、ゆっくりと互いに向かい合っている。


湊は保存ボタンを押した。

画面に反射した光の中で、

昨夜の赤ペンの跡が、心のどこかで光った。



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