秋の手紙
秋が深まり、木々の葉が風に乗って散っていく。
十一月の終わり、空はどこか乾いた色をしていた。
仕事帰りの夜道を歩いていると、
街灯の下に落ちた影が、
ひときわ長く伸びて見えた。
家に着き、ポストを開ける。
一通の封筒が入っていた。
白く、少し黄ばんだ紙。
裏には、見覚えのある名前。
「加奈」。
二年前に亡くなった恋人の名前だった。
息が止まる。
封筒を手に取ると、
指先に微かな震えが走る。
古いインクの匂い。
紙の端に小さな滲み。
まるで、誰かの涙の跡のように。
何度も見覚えのある筆跡だった。
名前の書き出しの角度、
文字の止め方、
全部が彼女そのものだった。
理解が追いつかないまま、
俺は封を切った。
中から便箋が出てきた。
薄いクリーム色の紙。
丁寧な字で、こう書かれていた。
「隆へ。
元気にしていますか。
もしこの手紙が届いているなら、
私はもうこの世にはいません。
でも、この手紙は悲しみのために書いたわけじゃないの。
あなたに伝えたいことがあるからです。」
呼吸が止まった。
二年前の、あの日。
病室のベッドに横たわる加奈の姿。
白いカーテンの向こう、
夕暮れの光が、
彼女の髪に反射していた。
最後に交わした言葉が、
頭の奥でよみがえる。
「また春を見ようね」。
彼女は微笑みながら、そう言った。
俺はその約束を守るつもりでいたのに、
季節は巡り、
彼女はいなくなった。
便箋の文字は続いていた。
「私はその約束を守れなかったけれど、
後悔はしていません。
あなたが泣きながら笑ってくれた、
あの瞬間が、
私の一番の春でした。」
視界がぼやけていく。
文字が揺れ、
涙が滲む。
俺はその場にしゃがみ込み、
手紙を胸に押し当てた。
時間が巻き戻ったように、
すべてが、
あの日の病室に繋がっていく。
あの夜、何を言えばよかったのか。
何を残せば、
彼女の心に届いたのか。
言葉にならない問いが、
胸の奥で繰り返された。
便箋の最後に、
見慣れぬ一文。
「もし、いつかあなたの心が止まりそうになったら、
この手紙を持って旅に出てください。
行き先は、
私が生きていた最後の季節――春の海です。
潮の香りと風の中に、
きっと答えがあるから。」
春の海。
加奈が好きだった場所。
死の直前まで、
「もう一度見たい」と言っていた海。
けれど、十一月の今、
その海は冷たく、
灰色に沈んでいるに違いなかった。
行けるはずがない。
そう思いながらも、
手紙を握る指は止まらなかった。
窓の外、風が鳴った。
どこか遠くで、
電車の音がした。
気づけば、
俺は切符を買っていた。
心のどこかで、
何かに呼ばれている気がした。
朝。
霧のかかる駅のホームに立っていた。
吐く息が白く消える。
十一月の終わりの風は冷たく、
ポケットの中で、
手紙の封筒がかすかに擦れた。
行き先は、
加奈が最後に見たと語った「春の海」。
けれど季節は違う。
もう誰も泳がない。
潮風の代わりに、
冬の前触れの匂いがした。
電車の窓に映る自分の顔は、
どこか他人のようだった。
二年という時間が過ぎても、
何も終わっていなかった。
車窓の外には、
黄金色の田んぼ。
遠くの山並み。
季節は変わっても、
記憶の中の彼女は、
いつも春の中にいた。
海沿いの終着駅で降りると、
空気が変わった。
潮の香りが鼻をかすめ、
遠くで波の音が聞こえた。
手紙をポケットから取り出し、
もう一度読む。
「行き先は春の海です。
潮の香りと風の中に、
きっと答えがあるから。」
その文を読み終えるたび、
胸が締めつけられた。
砂浜へ向かう道の途中、
小さな土産物屋。
軒先の風鈴が鳴る。
老婦人が店先に立っていて、
俺を見ると微笑んだ。
「観光ですか?」
尋ねられ、
言葉に詰まる。
「……昔、来たことがあるんです。」
そう答えると、
彼女は小さく頷いた。
「この季節に海を見に来る人は少ないですよ。
でも、いい季節です。
静かで、誰も泣かないから。」
その言葉に、
なぜか胸の奥がざわめいた。
浜辺に出ると、
風が強く吹いた。
空は鉛色、
波は灰のような白。
誰もいない砂の上に、
落ち葉が舞っている。
夏の名残を失った海。
けれど、どこか懐かしい。
加奈と最後に見た海の面影が、
風の中に溶けていた。
俺は手紙を胸に抱え、
海を見つめた。
どうして、
彼女は“春の海”と言ったのだろう。
この季節の海ではなく、
春にこだわった理由。
それは、きっと――
自分の最期を、
始まりとして残したかったのだ。
波打ち際まで歩き、
足元の砂を踏む。
風に混じって、
かすかに女性の声が聞こえた気がした。
「ねえ、隆。」
振り返っても誰もいない。
ただ、風の音だけが残っている。
幻聴だとわかっていても、
その声があまりに鮮明で、
膝が震えた。
ポケットの中で、
手紙の封筒が揺れた。
中の便箋が、
かすかに音を立てる。
その音が、
まるで心臓の鼓動のようだった。
俺は立ち尽くしたまま、
海を見つめ続けた。
どこまでも灰色の水平線。
空と海の境目が曖昧で、
まるで世界が、
一枚の絵のように静まり返っていた。
そのとき、
ポケットのスマートフォンが震えた。
画面には「差出人不明」。
半信半疑で開くと、
そこに一行だけメッセージ。
――「もう一通、届くよ。」
息が詰まった。
手が震えた。
見間違いだと思いたかったが、
画面は確かに、
そう表示されていた。
加奈の声が、
再び胸の奥で響く。
もう一通。
そう、手紙の最後に書かれていた。
「そして、もう一通、
同じ封筒があなたの家に届くでしょう。
その手紙が、
本当の私信です。」
風が強く吹き、
ポケットの中の便箋が舞い上がった。
慌てて追いかける。
砂浜の上を転がり、
海の際で止まる。
拾い上げた紙は濡れていたが、
文字は消えていなかった。
そこには、
確かに加奈の文字が刻まれていた。
「生きてください。
どんな季節になっても。」
涙が零れた。
波の音が、
心臓の鼓動と重なる。
この海が、
彼女の最期であり、
俺の始まりなのかもしれない――
そう思った。
夕暮れの色が濃くなり、
海辺の駅からの帰り道で、
雨が落ち始めた。
十一月の雨は冷たく、
コートの肩に染みていく。
電車の窓に映る自分の顔は、
さっき砂浜で見た灰色の水平線と、
同じ色をしていた。
ポケットの中で封筒が湿り、
紙の縁が指先に柔らかく折れる。
終点で降り、
バスを乗り継いで家に着くころには、
夜がすっかり街を包んでいた。
玄関の鍵を回す前に、
胸の奥がざわついた。
理由はないのに、
ポストに視線が吸い寄せられる。
蓋を開ける。
白い封筒が一通、
雨を吸った重みで沈んでいた。
差出人の欄は空白。
けれど、紙の手触りも、
糊の貼り方も、
昼間受け取ったそれと同じだった。
喉が鳴る。
玄関灯の下で封を切る。
刃は使わない。
指で繊維を裂くと、
雨粒の形に光が散った。
便箋を引き出す。
最初の一行を見た瞬間、
呼吸が止まった。
「隆へ。
これを読んでいるあなたは、
きっと海へ行ってくれたのね。
ありがとう。」
筆跡は加奈のものに見えた。
けれど、二行目から、
文字の重さが変わる。
止めと払いの癖、
句読点の置き方、
言い訳の下手さ、
行末で言葉を言い切れず、
少しだけ余白を残す習慣。
それは、俺自身の書き癖だった。
「実はね、
この手紙は私が亡くなる前に書いたものじゃないの。
あなたが私を忘れられなくなったときに、
未来のあなた自身が書いた手紙なの。」
額に落ちる雨の冷たさが、
急に遠のいた。
廊下の灯りが少し揺れ、
世界が音を吸ったように静かになる。
文は続いた。
「病室の夜を覚えている?
あのとき、あなたは何も言えなかった。
言えなかった言葉の代わりに、
あなたは“未来の自分”へ手紙を書いた。
いつか呼吸が戻る日のために。
二年後の十一月、
秋の雨の夜に届くように、と。」
手が震えた。
便箋の裏に小さなメモ。
雨で滲んだ青いボールペンの線。
見覚えのある乱れた字。
「加奈へ。
ありがとう。
俺はもう、大丈夫だ。」
それは俺の文字で、
俺の癖で、
俺の未熟さがそのまま滲んでいた。
記憶の奥が、軋むように開く。
病室の前の廊下。
夜勤の看護師の足音。
白い自動販売機の光。
紙コップのぬるいコーヒーを片手に、
俺は便箋に向かっていた。
加奈が眠る横で書けなかった言葉を、
別の宛先に預けるみたいに。
ポケットカレンダーに丸をつけ、
配達の指定日を書き込む。
二年後の十一月。
理由は自分でもうまく説明できなかった。
ただ、春ではなく秋にしたのは、
花が散る季節にこそ、
受け取る準備ができている気がしたからだ。
便箋の中の“俺”は続ける。
「この手紙は、未来の俺へ。
もし開けているなら、まだ痛いはずだ。
でも大丈夫。
痛みが残っていることは、
忘れていない証拠だから。
忘れないことと、
進めないことは、
同じじゃない。
加奈が言った“また春を見よう”は、
“春まで息を止めていろ”じゃない。
秋にだって、風は吹く。」
その文章の言い回しの拙さに、
思わず笑いそうになる。
自分を励ます言葉は、
どうしてこんなに不器用で、
どうしてこんなに、
まっすぐ刺さるんだろう。
便箋の最後に、
さらに小さな注釈があった。
「追伸。
もし可能なら、
海へ行ってからこの手紙を開けてくれ。
潮の匂いを吸い込んでから。
そうすれば、
きっと文字の重さが少し軽くなる。」
昼間、砂浜で感じた、
胸の解けるような瞬間が、
ここでつながる。
二年前の俺は、
未来の俺の動揺まで見越して、
呼吸のタイミングまで指定していた。
可笑しいほどに気が利いているくせに、
肝心なところで、
何も言えていない。
ポストの口から吹き込む雨風が、
廊下の冷気を押し出す。
俺は靴を脱ぎ、
玄関を閉め、
台所の灯りを点けた。
白いテーブルに二通の手紙を並べる。
昼に受け取った「加奈の春の海」。
今宵の「未来の俺」。
並べてみると、
紙の色が少し違う。
インクの光り方も違う。
同じ白の上で、
別々の時間が交わっている。
二枚の紙の境目に、
雨粒が一つ落ちる。
滲んだ水の輪がゆっくり広がり、
二つの手紙が、
わずかに触れ合って重なった。
俺は深呼吸をして、
昼の手紙をもう一度読む。
加奈の声が、静かに戻ってくる。
「もし、いつかあなたの心が止まりそうになったら、
この手紙を持って旅に出てください。」
その旅は、もう終わったのかもしれない。
あるいは、
今ようやく始まったのかもしれない。
テーブルの端に、古い封筒が一つ残っていた。
差出人不明、消印だけがはっきりしている。
二年前、病院近くの小さな郵便支所の印。
俺は指先で円形の印字をなぞった。
二年前の俺は、未来の俺を信じようとしていた。
信じ切れなかったから、紙に託した。
紙は二年を運び、
雨の十一月に届いた。
窓の外で風が鳴る。
落ち葉がアスファルトを滑る音が、
かすかに聞こえる。
雨脚が強まるたび、
玄関の方でポストの蓋が小さく震える。
呼ばれている気がした。
俺は立ち上がり、
引き出しから空の便箋を取り出す。
灯りの下、
ペン先を紙に置き、迷う。
誰に宛てる?
加奈に?
それとも、二年前の俺に?
それとも、まだ知らない未来の誰かに?
ペン先がわずかに震え、
最初の一文字が白に沈む。
「加奈へ。」
声に出すと、
部屋の空気が少し柔らかくなった。
続ける。
「春はまだ遠いけれど、風はある。」
書きながら、俺は気づく。
昼の手紙も、夜の手紙も、
どちらも“俺を生かすための指示書”だった。
ひとつは、
記憶の中の加奈がくれた呼吸。
ひとつは、
過去の俺が未来の俺に置いた道標。
どちらも確かに嘘じゃない。
手紙の正体が誰であれ、
俺はそれでようやく息を吸えた。
インターホンが短く鳴った。
心臓が跳ねる。
時計は二十二時を少し回っている。
こんな時間に、誰だろう。
玄関まで歩く。
ドア越しのカメラには誰も映っていない。
代わりに、
ポストの口に白い影が見えた。
もう一通?
恐る恐る蓋を開ける。
中には何もなかった。
風が抜けただけだった。
背中の力が抜け、
苦笑いが漏れる。
テーブルへ戻ると、
二通の手紙の上に、
薄い影が重なって見えた。
俺自身の影だった。
影のかたちが、かすかに揺れる。
呼吸で揺れている。
俺は影ごと椅子に腰を下ろし、
ペンを置いた。
二年前の俺が書いた追伸が、
視界の端で光る。
「秋に届くように。」
ああ、そうだ。
今でよかった。
春では、きっと眩しすぎて、
まっすぐ読めなかった。
花が散り、風が冷たく、
雨が文字を重くするこの季節だから、
俺はやっと、
自分の字を自分の目で読めた。
手紙の重みは、もう怖くない。
怖くないと気づいた瞬間、
涙が少しだけ遅れて落ちた。
テーブルの端に、
未使用の切手が数枚あった。
加奈が好きだった山の花の図柄。
俺は一枚を剥がし、
新しく書きかけの便箋の封筒に貼る。
宛先の欄に、
少しだけ迷ってから書いた。
「未来の隆へ」。
そして差出人の欄に、
ゆっくりと書く。
「加奈」。
それは嘘ではない。
二年前から届いた声と、
今日の俺の声が重なった名前だから。
雨音が少し弱くなった。
窓を開けると、
冷たい空気が頬を撫でた。
どこか遠くで、
線路を渡る警報機の音が鳴っている。
時間が、
ゆっくりと動き始めた気がした。
俺は封を閉じ、
胸に当てる。
鼓動が、
紙越しに小さく伝わる。
「ただいま、加奈。」
声にした瞬間、
部屋の奥で時計の秒針が、
一つ進む音が、
はっきりと聞こえた。
夜が明ける前、
窓の外の空は、
薄い群青に染まり始めていた。
十一月の終わりの風が、
カーテンの隙間を抜け、
頬に触れる。
机の上には三通の封筒。
春の海から持ち帰ったもの。
夜に届いたもの。
そして、自分で書いた新しい一通。
どれも同じように白いのに、
紙の温度が少しずつ違う。
指先で触れるたび、
時間の層が透けていくようだった。
湯を沸かし、
静かにマグカップを置く。
湯気が立ち上るその先で、
加奈の笑顔がぼんやり浮かぶ気がした。
「春はまだ遠いけれど、風はある。」
昨夜書いたその一行が、
机の上の便箋に残っている。
書き終えたあと、
何も足さなかった。
言葉はもう十分だった。
俺はゆっくりと封を閉じ、
ポストへ向かう準備をする。
外は冷たい朝霧に包まれている。
通りを歩く人は少なく、
遠くで新聞配達のバイクが走り去る音だけが響いた。
ポストの前に立つ。
赤い鉄の表面が、
まだ夜露に濡れて光っている。
封筒を投函口に差し入れる前に、
少しだけ空を見上げた。
雲の切れ間から、
淡い月が残っていた。
「加奈。」
名前を口にすると、
胸の奥で何かが温かくほどけた。
もう泣きたいわけじゃない。
ただ、伝えたかった。
届かなくても、
書くことが祈りになる。
手紙が落ちていく音がした。
ポストの中で静かに受け止められるその音が、
心臓の鼓動と重なった。
帰り道、街路樹の下を通る。
枝にわずかに残った紅葉が風に舞った。
陽の光がその隙間から差し込み、
足元に小さな影をつくる。
ふと足を止める。
加奈が言っていた言葉を思い出した。
「花が散るのは終わりじゃないよ。
次の季節の種になるだけ。」
あのときは意味がわからなかった。
けれど今なら、
少しだけ理解できる気がする。
部屋に戻ると、
窓の外の空がオレンジに染まっていた。
カーテンを開ける。
光が差し込み、
机の上の二通の手紙を照らした。
春の海の手紙と、
夜の手紙。
重ねた紙の境目が、
まるで一枚の風景画のように見える。
文字の上を光が滑り、
インクの粒が微かに輝いた。
その瞬間、
どこかで波の音がした気がした。
耳を澄ますと、
風がカーテンを揺らし、
紙の端が小さく震えた。
便箋の隅に、
あの日のメモがある。
「生きてください。
どんな季節になっても。」
その文字が、
もう過去のものではなくなっていた。
今の俺に向けられた言葉になっていた。
二年前の俺も、
加奈も、
同じ場所にいた気がする。
生と死の境目ではなく、
ただ“想い”の中で繋がっている場所。
窓を開け、
深く息を吸い込む。
冷たい空気が肺を満たし、
心臓の音が静かに響いた。
「行ってきます。」
誰にともなく呟く。
返事はない。
けれど、風が頬を撫でた。
その風の中に、
微かな声が混じっていた気がした。
「いってらっしゃい。」
笑ってしまう。
ほんの一瞬、
春の海の潮の香りがした。
十一月の風なのに、
少しだけ温かい。
机の上に残した手紙は二通。
春と秋。
過去と未来。
そのあいだに今がある。
どの季節も、
どの手紙も、
同じ言葉で結ばれていた。
――ありがとう。
それが、
彼女の遺した最後の文であり、
俺の始まりの言葉だった。
カーテンの外で風が吹き、
紅葉が空へ舞い上がる。
散るように見えて、
どこかへ帰っていくようにも見えた。
季節は巡る。
けれど、想いは消えない。
手紙の中で生き続ける。
俺は机の上の空の便箋を取り上げ、
ペン先を紙に置いた。
次の宛名を書こうとする。
けれど、書けなかった。
今はまだ、
誰に宛てるべきか分からない。
ただ、書くことだけはやめたくなかった。
紙の上に残る、
最初の一筆。
それが新しい呼吸になる。
外の空が明るくなった。
十一月の朝日が街を照らす。
風がカーテンを揺らし、
二通の手紙が重なって落ちた。
白い紙がひとつに溶けるように、
静かに重なり合う。
その重なりの中に、
確かに加奈の笑顔があった。




