赦しの灯
夜明け前。
街は、まるで呼吸を忘れたように静かだった。
瀬名一真。
あの事件から、一年。
夜ごと、教会の夢を見ていた。
銃声。
炎。
妹の、笑顔。
そして、最後の封筒。
目を覚ますたび。
あの香りが、蘇る。
――白いユリの匂い。
ある朝。
ポストに、一通の封筒。
今度は、白い紙。
差出人の欄には、たった一言だけ。
『絢音より』
心臓が、跳ねた。
震える手で、封を開ける。
短い文章。
兄さん。
まだ、ここにいるの?
――会いたい。
セント・ラグーン教会にて。
十二月十日、午後六時。
あの日と、同じ場所。
同じ時刻。
悪い夢が、また始まるのか。
それとも、終わるのか。
分からないまま。
彼は、車を走らせた。
冬の風が、フロントガラスを叩く。
目的地に近づくにつれ。
胸の鼓動が、痛みに変わっていく。
教会の門は、開いていた。
昨年、あの惨劇が、起きたはずの場所。
だが。
内部は修復され、白い壁が新しく塗られていた。
ユリの花が飾られ、
窓から朝の光が差し込んでいる。
誰もいないはずの祭壇の前に、ひとりの女性。
絢音だった。
白いコートを羽織り。
少しやつれた顔で、笑っていた。
生きていた。
その事実だけで。
言葉が、出なかった。
「……夢じゃ、ないのか?」
「夢だったほうが、よかったかもね」
その声に。
かつての妹の面影が、混じっている。
だが。
彼女の瞳は、冷たく澄んでいた。
「どうして……生きていた?」
「死んだことにしたの。あの夜のことを、終わらせるために」
絢音は、ゆっくりと語り始めた。
あの夜。
車の中で、白峰と争ったこと。
脅され。
金を奪われ。
そして、兄に“復讐”を望む言葉を残したのは。
自分の、恐怖からだったこと。
彼女は炎の中から逃げ出し。
誰にも見つからないように、身を隠した。
罪を兄に背負わせたまま。
「兄さんが。あのあと、全部抱えたって聞いた。
刑事も教師も……死んだんでしょう?」
「……ああ」
「私のせいだね」
彼女は、静かに微笑んだ。
涙のない、笑顔。
けれど。
その表情の奥にある痛みを。
一真は、知っていた。
彼女の両手が、震えている。
冷たい冬の光が。
その震えを、照らす。
「兄さん。お願いがあるの。
私を――裁いて」
その言葉に。
彼の胸が、潰れそうになった。
長い間。
彼が望んできたのは、“赦し”ではなく“罰”だった。
けれど。
今、目の前にいる妹を見て、分かった。
罰することは。
彼女を再び、殺すことになる。
「……もう、いい。
俺たちはもう、充分苦しんだ」
「でも……」
「生きていること自体が、罰にも救いにもなるんだよ」
絢音の頬を、涙が伝う。
彼女は、初めて泣いた。
長い沈黙のあと。
一真は、懐から一通の封筒を取り出した。
黒い封筒。
あの“復讐の招待状”だ。
「これを焼こう。
終わりにしよう」
二人は、祭壇の前でマッチを擦った。
火がゆらめく。
黒い封筒を、包む。
紙が焦げる音が。
静かな教会に、響く。
灰になった欠片が、宙を舞い。
光に溶けて、消えた。
「兄さん……ありがとう」
「いいや。
これからだ。
俺たち、もう一度生き直すんだ」
外に出る。
雪が、降り始めていた。
冷たい粒が、頬に触れるたび。
何かが、溶けていく気がした。
空は。
灰色の雲を裂き。
わずかな青が、のぞいている。
二人は、並んで歩き出した。
誰もいない街を。
ゆっくりと。
あの夜の教会は。
もう、存在しない。
けれど。
心の中には。
今も灯りが残っていた。
――それは、赦しの形をした、救いの光だった。
十二月十日。
午後六時。
セント・ラグーン教会の外では、雪が降り始めていた。
空は低く、街の灯りが水に滲んでいる。
一真は車を降り、手の中の白い封筒を見つめていた。
絢音から届いた手紙。
そこに書かれた時間と場所は、まったく同じ。
五年前の夜と、同じ日付。
同じ場所。
同じ時刻。
まるで何かが再生するように、運命がそこへ引き寄せられていく。
教会の門は、半ば開いていた。
鉄の軋む音が、夜気に響く。
足を踏み入れると、古い木の床が鳴り、冷たい空気が頬を撫でた。
奥の祭壇には、無数の蝋燭が灯されていた。
ユリの香りが漂い、白い花弁が床に落ち、蝋が涙のように滴っていた。
人の気配は、ない。
だが、一真は感じた。
誰かが、見ている。
祭壇の上に、一冊のノートが置かれていた。
表紙には銀の文字で、“式の記録”とある。
開くと、中は写真で埋め尽くされていた。
どれも同じ構図。
祭壇、白いドレス、倒れた人々、そして黒い封筒。
最後のページにだけ、手書きの文字。
『兄さん、あなたは何度もここに来ている。思い出せないだけ。』
息が止まる。
ページをめくるたびに、映像のような記憶が頭の奥に滲み出てくる。
炎の夜。
銃声。
妹の叫び。
白峰の顔。
刑事の瞳。
そして、黒い花。
誰が誰を殺したのか。
何が最初で、何が終わりだったのか。
時間の順序が、崩れていく。
耳の奥で、鐘の音がした。
六回。
まるで合図のように、祭壇のスクリーンが光を放つ。
映像が、映し出される。
そこには、一年前の自分がいた。
血に濡れた手。
倒れた仲間。
燃える祭壇。
そのすべてを見下ろしながら、笑っている自分。
笑っている?
理解できない。
記憶と映像の齟齬が、頭を締めつける。
「これは……何だ……?」
声が漏れた。
その瞬間。
背後から、足音。
白いドレスの裾が、床を擦る音。
振り向くと、そこに絢音がいた。
彼女は穏やかに微笑んでいた。
だが、その微笑みは、どこか虚ろだった。
「兄さん、来てくれてうれしい。」
「……お前は、死んだはずだ。」
「死んでないよ。ただ、消えただけ。」
彼女の声は、まるで録音のように感情がない。
「これでようやく、式を終わらせられる。」
彼女はそう言うと、祭壇の方へ歩いていった。
ユリの花が、その足元で散る。
「何の話だ、絢音……」
一真は追いかけるように歩いた。
祭壇のスクリーンが、再び光る。
今度は、別の映像。
炎の夜。
白峰が血を流し、刑事が銃を構え、妹が泣いている。
だが、映像の中の妹の隣には、もう一人の自分がいた。
現実の自分と、映像の自分が重なる。
記憶の中では存在しなかった、“もう一つの時間”が、ここで交錯している。
絢音が、振り返った。
彼女の瞳の中に、炎が映っている。
「兄さん、私たちは何度もこの夜を繰り返してきた。」
「繰り返す?」
「そう。罪を思い出すまで、赦されない儀式。」
彼女の手には、黒い封筒が握られていた。
それは燃えても、消えても、何度でも現れる“契約の手紙”。
「――あの日。
兄さんが白峰を殺したとき、私も死んだの。
だから、どちらもこの場所に縛られた。」
絢音の声が、震える。
「でも、今度こそ終わらせよう。
兄さんがこの封筒を開ければ、すべて終わる。」
彼女は封筒を差し出した。
指先が触れた瞬間、光が弾けた。
映像の中の炎が現実に重なり、教会全体が赤く染まる。
天井から火の粉が落ち、蝋燭が倒れる。
絢音の髪が風に揺れ、瞳に涙が滲む。
「兄さん、お願い。開けて。」
一真は躊躇した。
だが、逃げることはできなかった。
指先で封を裂く。
中から、一枚の写真が落ちた。
そこには、幼い自分と絢音。
庭でユリの花を植えている写真。
裏に、短い文字。
『生きて、兄さん。』
次の瞬間、炎が消えた。
光も音も止まり、教会の中には静寂だけが残った。
絢音は、そこにいなかった。
祭壇の上に、黒い封筒だけが残っていた。
『次は、あなたの番。』
その文字が銀色に光り、消えた。
一真は、床に膝をつき、息を吐いた。
寒気が、骨の奥に入り込む。
すべてが幻なのか、現実なのか、もう分からなかった。
ただひとつ確かなのは、まだ“終わっていない”ということだった。
扉の外で、雪が静かに積もっていく音がした。
彼は立ち上がり、外へ出た。
空は灰色。
街灯の明かりが、雪の粒を照らし、白い影をいくつも落としていた。
ポケットの中には、いつのまにか新しい封筒。
白でも黒でもない、灰色の封筒。
宛名は書かれていない。
だが、裏には一行。
『明日、夜明けに。』
一真はそれを見つめ、ゆっくりと息を吸った。
冷たい空気が、肺を刺す。
彼は歩き出した。
雪の音だけが、彼の後を追いかけていた。
十二月十一日。
夜明け前。
瀬名一真は、教会を出てから一睡もできなかった。
灰色の封筒を握りしめたまま。
街をさまよい、夜を越えた。
頭の中では、何度も絢音の声が響いた。
『兄さん、明日、夜明けに。』
その意味を考えるたびに。
胸が締めつけられる。
彼女は、何を伝えようとしていたのか。
儀式の続きなのか。
それとも、本当の終わりなのか。
午前四時。
雪は止み、空が薄く青みを帯びていく。
街の端にある、川沿いの道を歩いていると。
橋の上に、人影が見えた。
白いコートを着た女性。
絢音だった。
風に髪を揺らし、静かにこちらを見ている。
一真は立ち止まり、息を整え、ゆっくりと歩み寄った。
「来てくれたんだね」
彼女の声は穏やかで、どこか現実味がなかった。
「これは、最後の時間だから」
絢音の足元には、一輪のユリの花。
昨日、教会にあった花と、同じものだ。
彼女は橋の欄干に手を置き、空を見上げた。
「――あの夜のこと、ずっと夢に見てた。
兄さんが私を抱いて泣いてたこと。
白峰が逃げようとして転んだこと。
刑事が撃ったこと。
全部、見えてたの。
死んだと思ったけど、本当は消えただけだった。
生きることをやめたのは、私のほうだったのかもしれない。」
一真は何も言えなかった。
ただ、彼女の隣に立ち、同じ方向を見た。
東の空が、白く染まり始める。
「兄さん。
昨日、私が見せた映像、あれは記録でも幻でもない。
あの夜、兄さんが私を殺した瞬間の記憶。」
「やめろ……」
「違うの。
あれは憎しみの手じゃなかった。
止めようとして、止められなかっただけ。
私はあの時、ようやく理解したの。
兄さんがどんなに怖かったか。
どんなに守ろうとしたか。」
絢音の言葉が、空気を震わせた。
彼女はポケットから、灰色の封筒を取り出した。
「これが最後の手紙。
もう開かなくていい。
燃やして。」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、あの頃の妹と同じだった。
一真は受け取り、マッチを擦った。
火が、封筒を舐めるように広がる。
灰が舞い、風に乗って空へ消えた。
絢音は、ゆっくりと手を伸ばし、一真の頬に触れた。
冷たいのに、確かな温もりがあった。
「ありがとう、兄さん。
もういいよ。」
「絢音、どこへ行くんだ。」
「行かないよ。どこにも。
私は、ここに戻るだけ。」
彼女の輪郭が、薄れていく。
朝の光が強くなり、雪がきらめく。
風が吹き、白い花びらのような雪片が、二人の間を通り抜けた。
「生きてね、兄さん。」
その声とともに。
絢音の姿が、光に溶けた。
彼は叫ぼうとしたが、声にならなかった。
両手を伸ばしたが、そこにはもう誰もいなかった。
風だけが残り、空気の中にユリの香りが漂っていた。
一真は、その場に膝をつき、息を吐いた。
涙は出なかった。
ただ、静かな安堵が胸に広がっていく。
儀式は終わったのだ。
彼は立ち上がり、東の空を見つめた。
雲が割れ、朝の光が差し込む。
橋の下では、川が静かに流れ。
氷のような水面が、光を跳ね返していた。
ポケットの中、燃え残りの灰が指に触れる。
そこには、わずかな温度が残っていた。
彼はそれを風に放ち、深く息を吸った。
冷たい空気が肺に満ち、胸の奥が痛む。
けれど、その痛みは生の証のように、心地よかった。
街の鐘が、一度だけ鳴る。
新しい日が、始まる。
瀬名一真は、橋を渡り、ゆっくりと歩き出した。
雪の上に残る足跡が、朝日に照らされ。
まるで、新しい道が描かれていくようだった。
彼の背後で、風が鳴り。
遠くで、教会の鐘がもう一度だけ響いた。
それは、別れの音ではなく。
始まりの音だった。
彼は振り返らずに歩き続けた。
空の向こうに、春の気配がわずかに見えた。
十二月十二日。
夜明け。
瀬名一真は、橋を渡ったあと。
しばらく空を見上げていた。
雪はやみ。
雲の切れ間から、淡い光が差し込んでいた。
川沿いの道には、誰もいない。
足跡が続き、途中で消えている。
絢音の姿は、もうどこにもなかった。
だが、空気の中にはまだ微かに、ユリの香りが残っている。
彼はポケットから、古びた黒い封筒を取り出した。
それは、あの夜のものと同じ形をしていた。
だが、何度見ても新しいように見えた。
封は開いておらず、宛名の文字だけが消えている。
彼はしばらく迷い、それを開いた。
中には、一枚の白紙。
だが光にかざすと、薄く文字が浮かび上がった。
『兄さん、ありがとう。』
その一行だけ。
彼はその紙を胸に押し当て、目を閉じた。
心臓の鼓動が、静かに響く。
あの夜から続いていた痛みが、少しずつ和らいでいくのを感じた。
街が、目を覚まし始める。
遠くで車の音。
鳥の声。
誰かの笑い声。
世界が動いている。
生きていることの音が、確かにそこにあった。
一真は深く息を吸い、ゆっくりと歩き出した。
向かう先は、決めていなかった。
ただ、もう過去に戻らなくていいという確信だけがあった。
踏みしめる雪の音が、心地よいリズムを刻む。
ふと、ポケットの中で携帯が震えた。
画面には見知らぬ番号。
出ると、女性の声。
「瀬名さんですね。警察の者です。セント・ラグーン教会の件で、お話を伺いたくて。」
彼は立ち止まった。
短く息を吐く。
「もう話すことはありません。
すべて終わりました。」
そう答えて、通話を切った。
携帯をポケットに戻し、歩き出す。
信号が赤に変わる前に、横断歩道を渡った。
通りの向こうに、小さな花屋がある。
ガラス越しに見える、白いユリの花。
彼は店に入り、一輪を買った。
花びらを指で触れると、かすかに湿っていた。
花を抱えて外に出る。
空気が澄み、冷たい光が建物の壁を照らしている。
彼はそのまま駅へ向かった。
電車のホームには、人が少ない。
雪を払う音と、遠くの列車のブレーキ音。
電車が来て、扉が開く。
彼は乗り込み、窓際の席に座った。
外の風景が、ゆっくりと流れていく。
街の屋根に積もる雪。
朝の光を反射する窓。
通りを急ぐ人々。
そのどれもが現実で、夢ではなかった。
ふと、車内の窓に自分の顔が映った。
頬の火傷の跡はまだ残っている。
けれど、もう痛みはなかった。
車窓の外に、教会の塔が一瞬だけ見えた。
そこに、鐘がある。
昨日と同じ音が響いた。
六回ではなく、一回。
まるで、新しい始まりを告げるように。
電車がトンネルを抜ける。
光が差し込む。
目を閉じる。
意識の奥に、絢音の声が微かに聞こえた。
『兄さん、ありがとう。生きて。』
それは幻かもしれない。
だが、彼は微笑んだ。
扉が開き、終点のアナウンスが流れる。
駅を降り、外へ出ると、雪が再び降り始めていた。
彼は白い息を吐きながら歩く。
人々が行き交う街の中に混じり、特別な存在ではなく、ただの一人として。
信号の向こう、カフェの前に立つ女性がこちらを見て、微笑んだ。
どこかで見たような横顔。
だが、彼は思い出そうとはしなかった。
そのまま、歩き続ける。
過去を背負いながらも、未来へ進むために。
交差点の角に立ち、空を見上げる。
灰色の雲の隙間から、光が差していた。
その光の中に、雪が舞い、花びらのように消えていく。
一真は立ち止まり、ポケットから白いユリを取り出した。
花弁が少しだけ揺れる。
彼は笑い、呟いた。
「また春に。」
風が吹き、花びらが舞い上がり、空へ溶けていった。
街のざわめきの中で、教会の鐘がもう一度だけ響いた。
音は遠くへ伸び、空の果てで消えた。
だが、その余韻は、彼の胸の奥に残った。
生きるということ。
赦すということ。
そのどちらも、痛みの中にあるのだと。
ようやく理解した。
彼は歩き続けた。
信号が青に変わり、世界が再び動き出す。
雪の上に落ちた足跡が、光に照らされて消えていく。
風が頬を撫で、ユリの香りがほんの少しだけ残った。
彼はもう、振り返らなかった。
夜は終わった。
朝が来た。
そして、その光の中に。
確かに、絢音の微笑みがあった。
すべての儀式は、終わり。
物語は、静かに閉じた。
だが――
祈りだけは、まだ続いている。
彼の胸の奥で。
静かに呼吸をしながら。




