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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
言葉の残る場所

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30/49

黒の手紙

十一月の終わり。

冷たい雨が降っていた。


夜勤明けの帰り道。

ポストの中に、黒い封筒が一通。


艶のない紙。

差出人は、ない。


宛名だけが、銀色のインクで浮かんでいる。


『瀬名一真様 ― 式へのご招待 ―』


中には、厚紙の招待状。

金の縁取り。

見覚えのある、名前。


神崎絢音・白峰悠人 結婚披露宴。

会場:セント・ラグーン教会。

十二月十日 午後六時開宴。


指が、震えた。

絢音。妹の名。


だが、彼女は五年前、死んだ。

結婚相手の白峰悠人。

妹が亡くなった“あの夜”に、一緒にいた男。


事故死とされた。

警察の報告は、不自然だった。


私は、信じなかった。

あの夜、妹は自ら死を選んだのではない。

誰かが――。


胸の奥に沈めていたものが、

再び、息を吹き返す。


封筒を握りしめる。

滲む文字。

日付は、妹の命日と同じ日。

十二月十日。


教会の門は、閉ざされていた。

扉の前に、一本の蝋燭が灯る。

炎の揺らぎだけが、暗闇に息づいている。


私は、躊躇なく扉を押した。

軋む音。

中は無人。

だが、花の香りが漂っていた。


白いユリ。

妹が、好きだった花。


祭壇の前に、真っ白なウェディングドレスが飾られていた。

人がいないのに、衣装だけが、そこに立っている。


足元に、また一通の黒い封筒が落ちていた。


『ようこそ、お兄ちゃん。』


頭の奥が、凍った。

妹の字だ。間違いない。


震える指で、中の手紙を取り出す。


この日を待っていました。

約束どおり、“式”を挙げます。

みんなにも、来てもらいました。


その瞬間。

背後で、ドアが閉まる音。

足音が、近づいてくる。


暗闇から、三人の人影。

白峰悠人。

かつての担任教師。

事故当夜の、刑事。


三人とも、蒼白な顔。

何も、言わない。

胸元には、黒い花。


「まさか……お前たちも、招かれたのか?」


誰も、答えない。

沈黙。


祭壇のスクリーンが、光を放った。

映像が、流れる。


雨の夜。

車の中。

助手席に妹。

運転席に白峰。

笑っている。


次の瞬間。

車がスリップ。

画面が、闇に沈む。


映像は、続いていた。

誰かが車に近づく。

後部座席のドアを開け、何かを引きずり出す。


顔は、映らない。

だが、その手首に巻かれた、古い革のブレスレット。

私のものだった。


呼吸が、止まる。

記憶が、断片的に戻る。


あの夜。

妹を探していた。

雨の中。

電話を握りしめ。

白峰の車を、追って。


ブレーキ音。

炎。

叫び。


彼女はまだ、息があった。

助けようとした。

白峰が「警察に通報しよう」と言った瞬間。


妹が、かすかに言葉を発した。


『お願い……あの人を、許さないで。』


あの“あの人”が誰を指していたのか。

私は、確かめられなかった。


気づけば。

炎の中で、私は白峰を引きずり出し――

その首を、絞めていた。


スクリーンの映像が、止まる。

教会の鐘が、鳴る。

六回。

宣告のように。


白峰が、膝をつき、泣き崩れた。


「頼む……もうやめてくれ……俺たちは――」


「俺たちは?」


「彼女を……利用したんだ。あの夜、金が必要で……」


声が、途中で途切れた。

銃声。

煙。

担任教師が、倒れている。


刑事が、拳銃を持っていた。

血の気が引く。


「復讐だ」と呟いた。

「あの日の捜査資料を握りつぶしたのは私だ。金を受け取った……。だから、終わらせに来た。」


銃口が、こちらを向く。

引き金の音――


だが、弾は出なかった。

空だった。


彼は、笑い、床に崩れ落ちる。

こめかみを撃たれたように、ゆっくりと。


手に残る、硝煙の匂い。

誰が、撃った?


そのとき。

祭壇のドレスが、揺れた。

まるで、誰かが袖を掴んだように。


風は、吹いていない。

蝋燭の炎が、大きく揺れ、教会中が、光で満たされる。


その光の中。

白いドレスを着た、妹の姿が見えた。


泣きながら、微笑んでいる。


『お兄ちゃん、もういいよ。』


耳の奥で、声が響く。

私は、その場に、崩れ落ちた。

涙が、止まらない。


気づけば、全員が倒れていた。

銃弾の跡。

割れたガラス。


だが、妹の姿だけは、消えていた。


翌朝。

警察が教会に踏み込んだとき。

誰の姿も、なかったという。


血痕も。

銃も。

映像装置も、見つからなかった。


ただ一つ。

祭壇の上に、黒い封筒が残っていた。


『式は、無事に終わりました。

お兄ちゃん、お疲れさま。

— 絢音より。』


私は、それを今も持っている。

夜になると、微かにユリの香りがする。

蝋燭の炎を見つめるたびに、妹の声が、聞こえる気がする。


――“復讐”という名の儀式は、まだ終わっていない。



十一月十一日。朝。

雨は、まだ降っていた。


ニュースでは、郊外のセント・ラグーン教会での火災が報じられていた。

死者はなし。

だが、現場からは“誰も”見つからなかったという。


焦げた床の上に残っていたのは、黒い封筒と、白いユリの花だけ。


私はテレビの前で、固まっていた。

夢では、なかった。

あの夜、確かに教会にいた。

白峰、刑事、そして――絢音。


だが、彼らの名前は、ニュースには出なかった。

死亡者不明。関係者なし。


私はコートを羽織り、外へ出た。

雨は細く、街の音を静かにしていた。


交差点を渡り、駅前の古びたビルに入る。

そこは、かつて刑事が出入りしていた、非公式の調査事務所。


扉のガラスには、手書きの貼り紙。〈閉鎖中〉。

ノブを回すと、鍵は掛かっていなかった。


中は暗く、紙の焦げたような匂いが残っていた。

机の上に、一枚の写真。

式の日の教会。


だが、そこに写っている人物は四人ではなかった。

もう一人、私の知らない女が写っていた。


黒いベール。

顔は半分、隠れている。

背後の鏡に映ったその目だけが、こちらを見ていた。


写真の裏。

銀色のペンで、文字。


「“彼女”を探せ。

式は、まだ終わっていない。」


私は写真を、胸ポケットに入れた。


ビルを出ると、電話が鳴った。

非通知。

躊躇したが、出た。


「お兄ちゃん」――女の声。

電波の奥から、絢音の声が聞こえた。


「行かないで。次の式が、始まるよ。」


通話が切れる。

手の中のスマートフォンが、熱を帯びていた。


画面に、知らない通知。

〈セント・ラグーン教会 記録映像 アップロード完了〉。


リンクを開く。

再生が始まった。


昨夜と同じ映像。

だが、最後に違うシーンが、追加されていた。


光に包まれたあと。

祭壇の前で、横たわる四つの影。


その中の一人――私自身。

血に濡れた手で、黒い封筒を握りしめている。


映像が、止まる。

私は、息を止めた。


あの夜の記憶を、掘り起こす。

銃声。

倒れた刑事。

泣き崩れる白峰。

揺れるドレス。

妹の声。


すべてが、断片。

だが、私がいつ倒れたのかを、覚えていない。


もしかして――。


私は立ち上がり、鏡の前に立った。

映る自分の顔。

頬に薄く、火傷の跡。


胸の奥で、低い鼓動。

昨日より、遅い。


指先で、脈を確かめる。

冷たい。

爪の色も、灰のように褪せている。


鏡に映る部屋の隅で、何かが動いた。

振り向くと、そこに、黒い封筒。


誰もいないのに、封筒だけが置かれている。


宛名は――


『瀬名一真様 ― 告別式のご案内 ―』


背筋が、凍った。

封を開ける。

白いカードが一枚。


〈日時:十一月十二日 午後六時

場所:セント・ラグーン教会〉


同じ場所。

あの夜と、同じ時間。


カードの下に、小さく手書きの文字。


「参列者:あなた」


その瞬間、部屋の照明が揺れた。

ブレーカーが落ちたのか、暗闇が部屋を満たす。


窓の外で、稲妻。

光の中、ガラスに、何かの影。


白いドレスを着た人影が、雨の中に立っていた。

顔は見えない。

手には、黒い花。


私は、立ち尽くした。

雨が強くなり、窓を打つ。

心臓の音が、遅くなり、遠くなっていく。


耳の奥で、絢音の声。


『お兄ちゃん。今度は、あなたの番だよ。』


気づけば、手の中の封筒が、湿っていた。

銀のインクが、滲んで形を失っていく。


私は、ゆっくりと膝をつき、空を仰いだ。

雨の音の奥に、鐘の音が重なる。

六回。

まるで、昨日の続きのように。



十一月十二日。午後六時。

再び、雨。


私は黒い封筒を手に、セント・ラグーン教会の門の前に立っていた。


前回の火災の跡は、不自然なほど消え、壁も床も新しい。

だが、どこかに焦げた匂いが残っていた。


扉の前には、昨日と同じように一本の蝋燭。

だが炎は揺れず、まるで風のない場所で燃えているようだった。


扉を押す。

軋む音。

中は静寂。


祭壇の前に、白い棺が一つ。

上には、ユリの花束。


棺の前に立つと、金属の冷たい匂い。

プレートには、「瀬名一真」。


私は、息を呑んだ。


視線を上げると、祭壇の奥にスクリーン。

自動的に光を放ち、映像が流れ始める。


雨の夜。

教会の中。

倒れた白峰。

血を流す刑事。

崩れた椅子。


そこに立つ、もう一人の男――私。

無表情で、妹の遺体を抱いている。


その背後から、白いドレスの影が近づく。

絢音。

彼女は微笑み、私の肩に手を置いた。


その瞬間、映像の中の私の顔が、こちらを向く。

黒い瞳が、光を吸い込むように、動いた。


『お兄ちゃん、行こう』

スクリーンの中で、絢音が言う。

『式を、終わらせよう』


映像が止まり、光が消える。

教会の中は、蝋燭の炎だけ。


私は棺の前に膝をつき、蓋に触れる。

指先に、冷たい感触。

ゆっくり、押し上げる。


中には、私自身の顔。

蒼白で、眠るように。

頬には、火傷の跡。

胸元には、黒い封筒。


震える手で、それを取る。

宛名は「神崎絢音」。

裏に、小さく書かれた文字。


「ようやく、約束を果たせたね。」


私は、その場に崩れ落ちた。

視界が滲み、雨音が遠ざかる。


頭の奥で、妹の声。


『お兄ちゃん、あの夜のこと、覚えてる?』


光景が、蘇る。

炎の中、妹を抱きしめた瞬間。

彼女はすでに、意識を失いかけていた。


白峰が叫び、刑事が無線を掴む。

私は泣きながら、妹の名前を呼び、何度も揺さぶった。

だが、彼女は動かない。


気づけば、自分の手が、彼女の首に伸びていた。

止めようとして、止められなかった。


『お願い……あの人を許さないで』

――その言葉の意味は、私だった。


彼女が止めたかったのは、復讐そのもの。

だが私は、復讐に取り憑かれた。


だから、彼女は“式”を開いた。

私を呼び戻し、過去を、終わらせるために。


教会の鐘が、鳴る。

六回。

光が、満ちる。


祭壇の上、ドレスが風に揺れ、白い光が形を取る。

絢音。


彼女は、もう泣いていなかった。


『もういいよ、お兄ちゃん。』


その声は柔らかく、幼い頃のまま。

私は立ち上がり、手を伸ばす。

彼女の手が、光の中で重なる。

だが、触れることはできない。


『ごめん、絢音……俺は……』

『ううん。ありがとう。』


彼女は、微笑んだ。

光の粒が宙に舞い、ユリの花びらが、風に溶けていく。


『式は、終わったよ。』


その瞬間。

教会の天井が崩れるような音。

光が一面に広がり、私の体が浮かぶ感覚。

すべての音が、遠ざかる。


目を閉じる。

暗闇の中で、妹の声が最後に響く。


『お兄ちゃん、また春に。』


――光が、消えた。


次に目を開けたとき、私は自分の部屋にいた。

窓の外は、朝。

雨は止み、鳥の声がする。


テーブルの上に、黒い封筒。

中身は、空。

だが封筒の内側に、銀色の文字が滲んでいた。


「式は、すべて夢の中。」


私は椅子に座り、深く息をした。

鏡の中の自分に触れる。

温かい。

心臓が、確かに打っている。


夢だったのか。

それとも――。


机の上に、ユリの花が一輪。

水もないのに、瑞々しく咲いていた。


私は花を見つめ、静かに微笑む。

『絢音……ありがとう。』


その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が柔らかく揺れた。

窓の外で風が吹き、遠くで教会の鐘の音が、一度だけ鳴った。


――式は終わった。

だが、祈りはまだ続いている。



十二月十日。

あの日から、ちょうど一年が過ぎた。


冬の朝の光は冷たく、街の屋根には薄く雪が積もっていた。

私は久しぶりに、実家のある町へ戻ってきた。


駅前の通りは静かで、風が通り抜けるたび、旗の音が微かに鳴る。

胸ポケットには、あの黒い封筒。

何度も読み返したせいで角が擦り切れ、銀色の文字は、かすかに薄れていた。


教会の跡地に向かう。

セント・ラグーン教会は取り壊され、更地になっていた。


雪の下から、ユリの花が一本だけ咲いていた。

信じられない光景だった。

白い花弁の先に、わずかに焦げ跡が残っている。


私は膝をつき、手袋を外して花に触れた。

冷たいのに、どこか温かかった。


そのとき、風が吹く。

雪が舞い上がり、空気が柔らかく揺れる。

耳の奥で、妹の声がした気がした。


『お兄ちゃん、もう泣かないで。』


私は小さく笑う。

「泣いてないよ。」


声に出すと、少しだけ、胸が軽くなった。


手の中の封筒を開ける。

中には、一枚の白紙。

だが、光の角度で、薄く文字が浮かび上がる。


「ありがとう。生きて。」


それだけ。


涙が滲む。

私は立ち上がり、白紙をポケットに戻した。

雪の中、空を仰ぐ。

冬の雲の切れ間から、青が覗いていた。


冷たい風が頬を撫で、遠くで鐘の音。

あの教会のものではない。

新しく建てられた、別の教会の鐘。

けれど、不思議と同じ音に聞こえた。


息を吸い、目を閉じる。

妹の顔。

笑い声。

ユリの香り。

炎の色。


すべてが遠くに溶けていく。

けれど、もう怖くはなかった。


私の中で、彼女は死んでいない。

あの日の儀式は、復讐ではなく、再生だった。

失われたものを取り戻すのではなく、

赦すことでしか、前に進めなかったのだ。


風が止む。

静寂の中、雪がひとひら、手の甲に落ちた。

私はそれを指先で掬い、空へ返す。

溶ける瞬間、小さな光が見えた。

まるで、誰かが微笑んだように。


駅へ向かう道を歩き出す。

足跡のあとに雪が薄く積もり、振り返っても、すぐに消えた。


ポケットの中で、黒い封筒が軽くなっている。

封筒の裏を見ると、いつのまにか新しい文字が刻まれていた。


「春に、また会おう。」


私は微笑み、空を見上げた。

灰色の雲の間から、一筋の光。

雪がきらめき、風がまた吹いた。


すべてが、静かに続いていく。


――儀式は終わった。

けれど、祈りはまだ、世界のどこかで息をしている。

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