あの夜の続きを
# 十月の雨の日(完成稿)
十月の、雨の日。
仕事帰りのポスト。
白い封筒が、一通。
差出人の欄は、空白。
宛名だけが、丁寧な筆致で――
「西原涼子様」。
濡れた指で、封を切る。
銀色のインクが、淡く光る。
〈十月二十日 午後七時〉
〈ホテル・ミレニアムにて〉
〈特別記念パーティーのご案内〉
心当たりは、ない。
けれど、その下に小さく、手書きの追記。
「あなたを待っています。あの夜の続きを。」
心臓が、一瞬止まった。
――あの夜。
何のことだろう。
思い出そうとすると、頭の奥がざらつく。
指の腹に残る紙の湿りだけが、生々しい。
ここ数週間、私は同じ夢で目を覚ます。
誰かが私の名を呼び、
雨粒がガラスを撫で、
次の瞬間に視界が白く弾ける夢。
何かを忘れている。
けれど、それが何かは、
掴もうとするほど遠ざかっていく。
そんな最中に届いた、一通。
偶然とは、思えなかった。
---
十月二十日。
指定の時刻。
ホテル・ミレニアム、最上階。
エレベーターの扉が開く。
薄暗いホール。
人の気配は、ない。
中央のテーブルに、ただ一つ。
赤い封筒。
〈西原涼子様 ご来場ありがとうございます〉
指先が冷える。
封を裂く。
白黒の写真が、一枚。
鏡の中の、私。
隣に男がいる。
顔の半分が、影に沈む。
写真の裏。
黒いインクで、短い一文。
「彼を、殺したのはあなたです。」
呼吸が、止まった。
心臓の音が、耳の奥で跳ねる。
冗談では済まされない。
なのに、胸のどこかが震えた。
その言葉を、私は知っている気がした。
次の瞬間、壁際のスクリーンが光る。
監視カメラの映像。
雨の夜。
車の中。
助手席に、私。
運転席の男が、こちらを見て笑う。
数秒後、赤い尾灯。
ブレーキのきしみ。
衝突音。
映像は、そこで途切れた。
「やめて……」
声が漏れる。
目を逸らしたい。
でも、体が動かない。
胸が、焼ける。
フロントガラスに映った、瞬間の私の顔。
――笑っていた。
スピーカーから、声。
低くて、穏やか。
けれど、懐かしい。
「涼子。ようやく、思い出してくれた?」
息を呑む。
「……あなたは、誰?」
「君が忘れた人だよ。
君を守るために、記憶から消された存在。」
ホールの照明が、わずかに明るくなる。
テーブルのノートパソコンが、自動で起動。
画面の隅に研究所のロゴ、中央に私の名。
――研究所。
私は数年前、心理学の研究室にいた。
外傷記憶の再構築プログラム。
“仮想体験”として安全に再生し、
断片化した記憶を、再統合へ導く。
被験者第一号は、私自身。
この招待状。
このホテル。
すべては、私が過去の自分へ仕掛けたテスト。
自ら退避させた記憶を、
「思い出すと決めたときだけ」開く導火線。
事故で亡くした恋人を、
忘れることでしか生きられなかった私が、
再び彼と向き合うために――
封筒に、合図を埋め込んだ。
画面が切り替わる。
雨上がりの夕陽。
彼が笑っている。
「これでいい。君が思い出してくれただけで、もう十分だ。」
唇の動きが、光に溶けた。
映像が消える。
ホールに、静寂。
赤い封筒を、胸に抱く。
涙が、頬を伝う。
記憶を消しても、心は嘘をつけない。
忘却という救命具を外すのは、怖い。
それでも――
ここまで私を導いた、私の声を信じる。
「やっと……行けるね」
かすれた声。
窓の外、雨がやみ、
夜のネオンがにじんでいた。
ガラスに映る顔は、少し穏やかで、
濡れたアスファルトを叩く水音が、
まだ遠くで続いていた。
---
十月二十一日 午前二時。
ホテルを出た足は、
無意識のまま研究所へ向かっていた。
非常灯の青白い廊下。
足音だけが、よく響く。
制御室。
モニターが一斉に点く。
画面の中央に、白衣の私。
「これが最後のセッションになるかもしれません」
過去の私が言う。
向かいの男――研究助手の早瀬。
穏やかな笑み。
彼は、私の恋人だった。
研究と恋は並走し、
倫理の境界は、曖昧になっていた。
最終段階は――
“忘却を実験的に起こし、
再生のタイミングを制御する”。
私たちはそれを、
「ミレニアム・プロトコル」と呼んだ。
彼は私の脳波を見つめ、
催眠誘導で連結を切っていく。
グラフが上下し、瞳孔が開く。
「怖くない?」
「大丈夫。あなたがいるから」
――映像が、途切れる。
次のフレーム。
赤い警告灯。
制御エラー。
通信遮断。
早瀬がコンソールへ手を伸ばし、
私を抱き起こそうとする。
そこまでで、記録はノイズに沈む。
覚えている。
雷鳴。大雨。暴走するプログラム。
私の記憶は断片化し、
彼は装置を遮断して私を助けようとした。
その直後――車の衝突。
私は病院で目を覚ました。
彼のいない世界で。
研究は中断され、記録は封印。
私は現実に耐えられず、
自ら申請して記憶の一部を削除した。
招待状は、あの時の私が未来へ残した再起動信号。
研究ログを開く。
〈トリガーコード:OCT20〉
〈条件:雨/赤い封筒/招待文/音声再生〉
すべてが、完璧に実行されていた。
もう一つのファイル。
「SUBJECT HAYASE – CONTINUATION DATA」。
音声が流れる。
「もしこれを見ているなら、涼子、君はプログラムを完了したんだね。
君が僕を忘れることは、罰じゃない。治療なんだ。
でも、思い出せたなら、今度は君が自分を赦して。」
彼の声が、ノイズに溶ける。
脳の奥で、何かが弾けた。
断片が、次々に蘇る。
白い研究室。
雨の道路。
助手席で笑う彼。
ブレーキ音。
ガラスの破片。
血の匂い。
――私の手が、彼の腕を掴もうとしていた。
けれど、届かなかった。
衝撃の光。
最後に見えた、彼の唇。
「また春に」
涙があふれる。
思い出すほど、喪失は現実になる。
モニターを閉じ、深呼吸。
外では、また雨。
街の灯りが滲み、夜がほどけていく。
ポケットの中で、赤い封筒の端。
未来の私が、過去に残した印。
今度は私が、誰かへ手紙を送る番だ。
引き出しから便箋。
群青のペン。
書き出す前に、窓の外を見る。
雨粒が街灯を滑り、
音もなく地面に消える。
彼の好きだった、雨の匂いが残っていた。
---
十月二十二日。夜明け前。
空調の低い唸り。
端末に、最後のログを打ち込む。
〈プロジェクト・ミレニアム〉
〈被験者コード:RN-01〉
〈ステータス:終了〉
指が、少し震えた。
小さなウィンドウが開き、
早瀬の最終メッセージが流れる。
「再生は救いじゃない。
もう一度、選ぶことだ。」
音が消える。
白衣を脱ぐ。
机の上のオルゴール。
蓋を開く。
金属の擦過音。
小さな旋律。
途切れながらも、確かに続く音。
東の空が、わずかに明るい。
夜と朝の境目。
静かで、誰もいない。
実験前に撮った写真。
カメラを構える彼。
笑う私。
隅のメモ。
「記憶は、二人で作るもの。」
たとえ彼がいなくても、
この記憶は、私の中で生き続ける。
オルゴールを抱き、研究所を出る。
街灯が揺れ、
水たまりが夜の名残を映す。
ポケットの封筒は、宛名のない招待状。
宛先は、知っている。
――次の誰か。
金属の口へ、封筒を滑らせる。
擦れる音が、夜明けに溶けた。
胸の奥で、重い扉が外れる。
風が頬に温かい。
新聞配達の自転車。
カラスの声。
新しい朝が、始まる。
スマートフォン。
カレンダーの三月二十日に小さな印。
「春に会おう」を、
繰り返しから外す。
永遠では、なくていい。
今、この一度で、いい。
灰色の雲が切れ、光がこぼれる。
世界が、息をし始める。
「ありがとう、早瀬。
さようなら。
そして――」
「もう一度、生きるね。」
朝の光が、頬を照らす。
オルゴールの旋律が、かすかに鳴った。
遠くで雷鳴のような音が、一度だけ。
それは恐怖ではなく、始まりの音。
私は歩き出す。
濡れたアスファルトを踏む音。
行き先は決めていない。
雲の隙間の光が、
手紙の封を開けるように、
空を裂いた。
---
三月二十日。
朝の空気は薄く冷たいのに、
匂いだけが、やわらかい春。
研究所のカードキーを封筒に入れ、
事務室のポストへ。
振り返らない。
雨は恐れでも慰めでもない。
――記憶の呼吸。
駅前の花屋で、白い花。
ポケットに群青の万年筆。
鞄には、オルゴール。
街は半分眠っていて、
パン屋の湯気だけが早起きだ。
地下鉄を乗り継ぎ、
地図の赤いピンへ。
街外れの公園。
鳥の声が重なる広場。
桜の幹はまだ硬い。
けれど、蕾の先にほどける気配。
ベンチ。
封の切れていない便箋を膝に。
宛名は、空白のまま。
招待状は名指しだけの道具じゃない。
いちど途切れた心へ、
世界の側から手を差し出す仕草。
オルゴールの蓋を開く。
金属のやわらかな擦過音。
静かな旋律。
同じ音なのに、
聞こえ方だけが、少し違う。
彼の不在を告げる音ではなく、
私が“今”を生きている音。
鼓動が重なり、音と心が同期する。
風が便箋の角を持ち上げる。
万年筆を取り、最初の一行。
「拝啓 春のあなたへ」
十月の雨の日。
最上階の薄い闇。
赤い封筒。
写真の裏の一文。
スクリーンの光。
彼の声。
研究室の沈黙。
ノートの一行。
どれもいったん死に、
もう一度、生まれた。
便箋一枚目に、書く。
忘却が私を守ってくれたこと。
思い出すことを、自分で選んだ日のこと。
二枚目に、簡潔な招待。
「三月二十日 午後六時 桜の木の下。
赤いものをひとつ。」
合図は似ているのに、
書いた人は同じではない。
十月の私と、今の私は、
同じ体に宿る、別々の時間の人。
封を閉じ、宛名は空白のまま。
裏に、小さく書く。
「お待ちしています。必ず。」
白い花を、桜の根元へ。
「行ってきます」と小声で。
空はたやすく晴れ、
街路樹の影が伸びる。
研究所の近くの小さなカフェ。
窓際。
メニューの端に「春限定ブレンド」。
研究記録の最後のページ。
〈RN-01:再構成完了〉
〈副作用:涙/夢/光過敏〉
〈推奨:朝の散歩/手紙/音楽〉
過去の私から未来の私への助言は、
生活の言葉で書かれていた。
それで、よかったのだ。
記憶は、壮大でなくていい。
朝の散歩で、十分に立ち上がる日がある。
コーヒーの香り。
胸がゆるむ。
涙腺が、少し温かい。
連絡先の一覧。
連絡が途絶えた同僚の名前。
「春になったら、会いませんか。」
送信。
返事は、すぐには来ない。
それでも、世界へ手を伸ばした事実だけが、
静かに効いていく。
郵便局。
ポストの前で、動きが止まる。
宛名は、空白のまま。
窓口へ。
「宛先が未定でも、預かっていただけますか」
少し驚いて、微笑む係の人。
「局留でお預かりできます。差出人名だけ。」
ためらわずに、書く。
――西原涼子。
託したあとに残るのは、
空洞ではなく、ゆるやかな満足。
温まり始めたポストの金属。
手のひらに移る、温度。
ふと、ホテル・ミレニアムの方角。
十月二十日の最上階。
もう、私を呼ぶものはない。
それでも、あの夜の私に、小さく手を振る。
ありがとう。
さようなら。
おはよう。
三つの挨拶が胸で重なり、
やがて、一つの呼吸になる。
薄桃色のチラシが、風に舞う。
「市民コンサート/春の小夜曲」
会場は公園の音楽堂。
日付は、三月二十日の夜。
偶然は、ときどき、
こちらの歩幅に合わせてくれる。
夜。音楽堂。
木立の影。
客席は、半分。
最後列で、オルゴールを抱く。
ざわめきが水面のように揺れ、照明が落ちる。
知らない曲。
次の曲も、その次も。
三曲目の終わり。
休符のあとに置かれた短いフレーズが、
どこかで聴いた雨音に似ていた。
音楽は、記憶の裏側から回り道をしてくる。
正面からは思い出せない何かが、
別の扉から静かに入ってくる。
目を閉じ、音に身を預ける。
蓋の金属の冷たさが、
私を現在へ繋ぎ止める。
アンコール。
指揮者が振り返り、一礼。
最後の曲の前。
隣の女性が、目頭を押さえて囁く。
「春って、音が明るいですね」
「ええ、明るいですね」
短い会話。
胸が波打ち、笑みがこぼれる。
外へ出ると、夜風がやさしい。
桜並木はまだ硬い蕾。
枝先が星の光を受け、
ゆっくり呼吸しているようだ。
ベンチに腰をおろし、
便箋の控えの裏へ、小さく書く。
「また春に」
インクが乾くまでの数秒、息を止める。
高い空で、飛行機の点滅が遅いリズム。
時間はもう、私を置き去りにしない。
立ち上がり、オルゴールを掌に包む。
蓋を開ける。
誰にも聞こえないほど小さな音が、
夜の中へほどけていく。
音に合わせて、心臓が一度、大きく脈を打つ。
――私はもう、過去の中で生きていない。
過去と共に、今を生きている。
帰り道、橋の上。
川面に街の光。
風が髪を通り抜ける。
「さようなら。そして、こんばんは」
滑稽でも、ちょうどよかった。
遠くへ来た分だけ、
近くへ戻ってこられたのだから。
家の灯り。
少し冷たい空気。
窓の外で、線路の音。
テーブルにオルゴール。
コップに水。
靴を揃える。
ここからまた、日常が始まる。
カレンダーの三月二十日には、
もう印をつけない。
明日は二十一日で、
明後日は二十二日。
――それで、十分だ。
ベッド。
目を閉じる。
暗闇の向こうで、鍵盤を押す気配。
彼の手ではない。
私の手だ。
私が押す鍵盤から、
私の音が出る。
静かに、確かに。
眠りに落ちる直前、
風が短く笑った気がした。
春が来る。
――いや、もう来ている。
その合図を受け取り、
息を整える。
胸の奥で、約束がひとつ、
そっと、呼吸をした。




