ありがとうのかたち
この物語は、何気ない日常の中に潜む“もう一つの真実”を描いた手紙の話です。感謝の言葉の裏に隠された想いが、読む者の心を静かに揺らす――そんな余韻を残せたらと思います。
朝。会社のデスク。
一通の封筒が、置かれていた。
白地に青いライン。事務用の、便箋。
宛名は、私の名前。
「吉岡玲司 様」
封を切る。丁寧な文字が、並んでいた。
先日は本当にありがとうございました。
あなたのおかげで、人生が変わりました。
署名は、ない。誰からの手紙か、分からない。
ただ。その一文が、朝の空気を変えた。
心当たりは、なかった。
人の役に立つようなこと。した覚えもない。
職場では、数字に追われていた。会話も、挨拶程度。
だが。手紙の文面には、本気の感謝が滲んでいた。
昼休み。手紙を、何度も読み返す。
インクの筆圧。文字の傾き。どこかで見たような、癖。
だが、思い出せない。
誰だろう。
その夜。帰り道。駅。
ふと、自販機の前に立つ青年が目に入った。
寒い夜気。スーツ姿。手には、花束。
どこか、見覚えがあった。営業部の新人。たしか、坂下。
声をかけようと、思った。
彼は、人混みに紛れていった。
残されたのは、ベンチの上の小さな封筒。
拾い上げる。
宛名には、見覚えのある文字。
「坂下浩平 様」
差出人の欄。――「吉岡玲司」。
私は、息を飲んだ。
書いた覚えなど、ない。
それなのに。そこには、私の名前が。私の筆跡で。
恐る恐る、中を開く。
そこには、午前中に読んだものと、まったく同じ文章。
先日は本当にありがとうございました。
あなたのおかげで、人生が変わりました。
誰かが。“私宛てに、私の手紙”を送り返してきた、ように。
奇妙な寒気が、背中を這う。
次の瞬間。記憶の奥底から、ひとつの光景が蘇った。
一年前の、冬。
終電を逃した夜。駅のホーム。倒れていた、若い男。
冷たい床。顔色の、青白さ。
彼を、交番まで連れて行った。名乗らなかった。
たしかに、あれは坂下だった。
昇進を断り、彼を後任に推薦した。その数か月後のことだ。
彼が今、どんな思いでこの手紙を書いたのか。
それを、考える。胸の奥が、熱くなった。
だが。その熱は、次の瞬間。別の感情に変わる。
封筒の裏。差出人の下に、小さな行が添えられていた。
この手紙を見たら、少し早いですが“お礼”を伝えたかった理由が分かると思います。
今夜、僕は旅立ちます。
どうか、笑って送り出してください。
翌朝。ラジオ。
彼は、海辺の街で事故に遭ったというニュース。
飲酒運転の車に、巻き込まれたらしい。
財布の中には、たった一枚の便箋。
遺書ではない、ことだけは分かっている。警察は言った。
それが、私の手紙だった。
彼は、一年前に受けた恩を形にするため。あの夜。
私の筆跡を真似て、「お礼状」を書いた。
そして。それを、自分宛てに投函した。私に気づかせるために。
今。その手紙は、机の引き出しにしまってある。
文字は、不思議と薄れない。
毎朝見るたびに、新しい意味を持つ。
先日は本当にありがとうございました。
あなたのおかげで、人生が変わりました。
それは。彼からの感謝。
そして。生きている、私への宿題でもあった。
私は今日も。その手紙を、胸にポケットへ入れる。
街を歩く。風の中に「ありがとう」という声が、混じる気がする。
立ち止まる。
もしかしたら。誰かが、今もどこかで。
私の知らない、**“お礼状”**を書いているのかもしれない。
「お礼」は、過去形では終わらない言葉です。誰かが誰かを思い出すたびに、新しい形で生まれ変わる。――この物語は、感謝の連鎖の不思議を描きたくて書きました。
もし読み終えたあと、あなたの心にも一人だけ思い浮かぶ人がいたなら、その人に「ありがとう」を伝えてください。それがきっと、次の物語の始まりになります。




