返せ
人は誰しも、心のどこかに「届かないはずの言葉」を隠して生きている。もしそれが、思いがけない形で届いたとしたら——あなたはどうするだろうか。これは、一通の脅迫状から始まる、涙と真実の物語である。
夕暮れの郵便受け。それは、入っていた。
茶色い封筒。
宛名もない。差出人もない。
裏面に、赤いインクが一文字。大きく。
「返せ」
何を、返せというのか。見当がつかない。
会社帰りの鞄を、玄関に置いたまま。
封筒を、見つめていた。
奇妙な寒気が、指先から腕へ上がる。
手紙を開ける。打ち込みの文書が、一枚。
命を奪われた者の声を返せ。
さもなくば、次はお前だ。
一瞬、息が止まった。
悪質な、嫌がらせか。いたずらか。
文末の日付に、目が留まる。背筋が凍りついた。
“2005年11月12日”
十五年前の、あの事故の日。
高校生だった。
親友の尚人が、亡くなった日。
雨の中。運転は、僕だった。スリップ。激突。
僕は奇跡的に助かった。尚人だけが、帰らなかった。
それ以来。罪悪感に、縛られて生きてきた。
町を離れた。名前も変えた。過去を、封印したはずだった。
その**「過去」**から、手紙が届いた。
夜。机の上に封筒を置く。眠れない。
赤いインクの「返せ」が、頭の中で点滅する。
あの夜。尚人が最後に言いかけた言葉。
「たの…む……」
その続きが、今も耳に残っていた。
翌朝。ポスト。また同じ茶封筒が入っていた。
中身は、一行。
『声を返せ。お前にしかできない。』
会社を休む。電車で、尚人の故郷へ向かった。
十五年ぶり。風景は、変わっていない。
すべてが、遠く感じた。
墓地に向かう坂道。風が吹き抜けた。
木の葉が、ざわめいた。音の残像。
墓前。立ち尽くす。
背後から、声がした。
「来ると思ってたよ。」
振り返る。尚人の母が、立っていた。
年老いた顔。深い皺。優しい笑みが、混ざっていた。
「ずっと、謝りたかったんです。」
頭を下げる。「僕のせいで……」
「違うのよ。」
静かな、声だった。
「あなたが手紙を受け取ったってことは、ようやく**“彼”**の声が届いたってこと。」
「……彼の?」
「十五年前。あなたの意識が戻らなかった、あの三日間。」
「彼は夢に来たの。『俺の声を、あいつに託す』って言ってね。」
僕は、息を呑んだ。
「手紙の『声を返せ』って言葉、あれは……?」
「彼が最後に書き残したノートにあったの。」
事故の一週間前。彼は**「親友の夢を応援する」**と、言葉を残していた。
「あなた、歌をやめたでしょう?」
黙って、うなずく。
事故以来。歌うことが、怖くなっていた。
尚人がハモってくれた、あの曲を。二度と、口にできなかったから。
「『声を返せ』は、命令じゃないの。」
母は、小さく笑った。
「**『お前の声を取り戻せ』**って、そういう意味よ。」
その場で、膝をついた。涙が、止まらなかった。
墓の前。十五年ぶりに、口ずさむ。
尚人と作った、未完成の歌。
風が、頬を撫でた。
どこかで、鈴のような音がした。聴覚の強調。
空の向こう。誰かが、笑っているように感じた。
帰り際。母が、封筒を差し出した。「彼の最後の曲、あなたに。」
開ける。走り書きのような、文字。
俺の声をお前に託す。
お前の歌が、俺の生きた証になる。
電車に揺られる。涙を拭った。
あの“脅迫状”は、尚人の想いだった。
恐怖ではない。愛の、手紙。
罪ではない。赦しの、呼びかけ。
そして今夜。僕はステージに立つ。
十五年ぶりに、マイクを握る。あの日の続きを、歌う。
声が、震える。
それで、いい。
震える声の向こうに。
確かに。
尚人の笑顔が、見えた。
“脅迫状”という言葉には、恐怖と拒絶の響きがある。けれど、ときにそれは「心の封印を破る鍵」でもある。届くはずのない想いが、誰かの声を通して帰ってくるとき——それは、失われた命がもう一度、この世界で息をする瞬間なのだ。




