空に還る約束
春の風が、少しだけ冷たい午後だった。
ポストの口から、白い封筒が滑り落ちる低い音がして、玄関の静けさがふっと揺れた。宛名の筆跡を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれる。似ている。いや、似ているどころじゃない。何度も見た、あのまっすぐで少しだけ震える線。差出人の欄には、たしかに「母」とあった。
亡くなって二年。三回忌も過ぎて、家の中のものは少しずつ片付けた。だけど片付かないものがある。棚の上の花瓶に活けた造花、針山に刺さったままの待ち針、エプロンのポケットに入った小さなメジャー。手に取るたび、そこから声が立ち上がる気がして、私は触れられずにいた。その私のもとに、今、手紙が届いたのだ。
封筒の切手は十日前の消印。宮城の小さな町の局名が押されている。母の故郷。私は震える指で封を切った。便箋は二枚、淡い青の罫線に、知っている癖のある字が並んでいた。
『陽大へ。あなたがこれを読む頃、私はもう、この世界にはいないでしょう。でも、これは遺書じゃないの。どうしても伝えておきたかった“約束”の手紙です。あなたが十歳の夏、海で拾った貝殻を覚えていますか。「いつか、もう一度いっしょにこの海を見ようね」と私が言ったあの約束。あれは冗談のつもりだったのに、あなたが本気でうなずいた顔が、ずっと心に残っているの。』
文字がにじんだ。目頭が熱い。母の字の端に小さな染みがある。インクを乾かす間に落ちた、母自身の涙の跡だと、見た瞬間に分かってしまった。読み進めると、私は椅子に座っていられなくなり、床に膝をついた。畳のひんやりした感触が掌から腕へと登ってくる。
『陽大、あなたはよく頑張っています。私は病室のベッドで、何度もあなたの名前を呼びました。でも、そのたび思ったの。もう呼ばなくても、きっと大丈夫だって。あなたは優しい子です。人を思いやることを忘れない子です。だから、ひとつだけお願い。どうか、自分のことも大切にしてください。泣きたいときは泣いていいのよ。誰かを失った痛みを抱えながら笑って生きてもいいの。「強くなりなさい」とは言いません。あなたのままで、進めばいいのです。』
読み終えると、窓が風に鳴った。薄いカーテンの向こうで、夕暮れが淡く膨らむ。部屋は、母が最後に歩いた日から時間の針が止まったように静かだ。片付けられなかった裁縫箱が、陽の名残を拾って木目を光らせている。私は便箋を胸に当て、静かに泣いた。嗚咽は出ない。ただ、涙が勝手に零れ続ける。泣くことは、許されている。母がそう書いたから。声に出してみる。「泣いていい」と。言葉に触れると、涙が新しくなった。
便箋の最後に、短い追伸があった。
『追伸。あなたがこの手紙を受け取ったら、私の机の引き出しを開けてごらん。左の奥に小さな箱があります。その中に、“もうひとつの約束”が入っています。』
私は立ち上がり、母の部屋へ向かった。机の引き出しは固く、両手で少し引き上げるようにして開ける。古い木の匂い。左奥を探ると、手のひらに収まる木箱が指先に触れた。蓋をそっと開ける。鈍く光る銀色のペンダントと、もう一通の小さな手紙が入っている。
『陽大が旅立つ日、これを空にかざしなさい。私は、風になってあなたを見つけます。』
短いその一文を読んだとき、胸の奥で硬く結んでいた何かがほどけた。母は遠くへ行ってしまったのではない。届かない場所に閉じ込められてしまったのではない。どこにいても、風で、光で、匂いで、触れられない何かで、私の側にいる。そう思っていいのだと、許された気がした。
その夜は、久しぶりに深く眠った。夢に海が出てきた。十歳の私が砂浜でしゃがみ込み、白い小さな貝殻を集めている。波が来るたび貝殻は転がり、日差しが跳ね、母の笑い声が背中から降ってくる。目が覚めると、枕は少し湿っていた。窓の外は鳥の声で明るい。私は出勤前に、ペンダントをシャツの下に通した。冷たい金属が胸に触れる。
十年が過ぎた。二十七歳の春。私は有給を取り、母の故郷へ向かった。新幹線を降りると、空が広い。乗り換えたローカル線の車内には、制服の高校生と、買い物袋を持った人たちが座っている。車窓の向こうに、まだ若い田の緑と、遠い山の青が重なっていた。駅に着くと、潮の匂いがすぐに分かった。バスに揺られ、海沿いの道をいく。運転手が「この先、停留所ふたつで終点です」と穏やかに言った。
終点の小さな広場で降りると、風が強くなった。浜へ続く坂道の途中で、古い灯台が見えた。白い壁は少し剥げ、足元の雑草が春の勢いで伸びている。私は歩く。靴に砂が入り、砂利が小さく鳴る。浜に降り立つと、海は思っていたよりも穏やかだった。波は低く寄せ、遠くで小舟が一艘往復している。私はペンダントを握り、空にかざしてみた。夕陽にはまだ早い。銀の縁に薄い光が乗る。その瞬間、不意に、背中のほうから優しい気配がした。「おかえり」と、確かに聞こえた気がした。
涙が溢れた。海は滲み、視界は丸くぼやける。風が泣き顔を撫でていく。私はひとり浜辺に立ちながら、独りではない感覚を抱いた。膝が少し笑う。砂の上に腰を下ろし、両手で顔を覆った。こんなふうに泣くのは、いつ以来だろう。最後に声をあげて泣いたのは、病院の廊下だった。主治医が言葉を選びながら伝えた現実を、母の手の温度がまだ残る手のひらで受け止められなかったあの夜。私は、泣くことをやめることで、日々をつないできたのだ。
波打ち際で、子どもたちが貝殻を拾っている。笑い声が風に乗って届く。私はハンカチで目を拭き、立ち上がった。浜の端にある小さな神社に向かう鳥居が見える。お参りをしようと思った。階段を上がる途中、白いビニール袋を持った年配の女性に会釈をした。女性は私の胸元のペンダントに目を留め、やわらかく微笑んだ。「風、強いねえ」と言って、通り過ぎた。たぶん何も知らない。だけど、知らなくても届くやさしさが、この土地の空気には混じっている。
神社の境内は小さく、鈴緒は塩で少し白くなっていた。二礼二拍手一礼をして目を閉じる。願うというより、報告をした。「来ました」と。「約束、覚えているよ」と。まぶたの裏に、母の手のひらのしわが浮かぶ。縫い物をするとき、針を押すために硬くなった指先。炊きたてのご飯を茶碗によそう手首の角度。怒るときより先に笑う癖。私は手水で指を濡らし、額を撫でた。潮の匂いの中で、私の身体は今、確かに生きている。
宿は港のそばの民宿だった。廊下には、夏の写真が並んでいる。浴衣を着た家族、花火、スイカ割り。夕食の時間、食堂では他の宿泊客が賑やかに話していた。私はカウンターの隅に座り、焼き魚と味噌汁をゆっくり口に運んだ。味に、母の台所が混ざる。味噌は甘め、出汁は強すぎない。幼いころ、台所の椅子の上に立って、母の横顔を見上げながら「ぼくもやる」と言った記憶が戻る。母は包丁を持つ私の手に、そっと自分の手を重ねた。「刃の向き、気をつけてね」。指先の温度が、今でも残っているようだ。
部屋に戻り、机の上に手紙とペンダントを置いた。窓の外には満月。カーテンを開けると、月光が床に四角く落ちる。ペンダントがかすかに揺れ、鈴のような小さな音を。風は入ってこないのに、不思議だった。私はそっと手紙に触れ、声に出して読んだ。「泣いてくれて、ありがとう。でも、次に会うときは笑顔でいてね」。母の字が光を吸い、それを返すように輝いて見えた。
私は机に向かい、ノートを開いた。白紙の一行目に、ゆっくりと書く。「ありがとう、母さん。今度は、僕が誰かを照らす番だよ」。書きながら思う。照らす相手は、まだ見えない。けれど、目の前の誰かの背中に手を添えることなら、明日にもできる。職場で新人が戸惑っていたら、少しだけ時間を使って説明しよう。レジで焦っている人がいたら、順番を譲ろう。帰り道で俯いている自分自身に気づいたら、「泣いていいよ」と言ってやろう。母が私にしてくれたことを、小さく配っていく。そんなふうにして生きていくことが、約束への返事になる。
翌朝、空は雲ひとつなかった。港では漁船が戻り、銀色の魚が樽に跳ねた。私は宿の女将に礼を言って外に出る。浜に向かって歩き、昨日と同じ場所に立つ。ペンダントを胸に当て、ひとつ深呼吸。吐き出す息に、塩の匂いが混じる。私はポケットから小さな封筒を取り出した。母への手紙。言葉は多くない。「約束、果たしました」「ありがとう」「大丈夫です」。封筒を砂に埋めるのではなく、潮が届かない石の隙間にそっと差し込んだ。誰かが見つけるかもしれない。それでもいい。誰かが読んでも、そこに書かれた「ありがとう」は、世界の誰に向けても形を崩さない。
帰りのバス停で、制服の女子高生が隣に座った。彼女はスマートフォンを見つめていたが、ふと窓の外の海に目を向けると、小さく呟いた。「きれい」。私はうなずいた。言葉を交わしたわけではない。でも、同じ風を吸い、同じ海を見ているというだけで、世界は私をやさしく包む。バスが揺れるたび、ペンダントが胸で軽く当たる。そのたび、心が「ここだよ」と応える。
家に戻ると、玄関の匂いが少し変わっていた。旅がそうさせるのだろう。冷蔵庫を開けると、保存容器に残っていた味噌が目についた。私は鍋に湯を沸かし、だしを取り、豆腐とわかめを入れて味噌を溶いた。湯気に顔を近づける。味噌汁は、いつだって帰る場所の匂いがする。椀を両手で包むと、掌に温度が宿り、胸の奥のからっぽだった場所に静かな音が満ちていく。私は一口すすり、ゆっくり置いた。そして、食卓の端にペンダントを外して置く。母のものを、私のものとして、いつでも触れられる場所に。
夜、机に座り直し、封筒から最初の手紙を取り出した。便箋をもう一度、最初から最後まで読んだ。読むたびに、違う場所が胸に触れる。今日は「あなたのままで、進めばいいのです」という一行が、深く届いた。完璧じゃなくていい。遅くても、遠回りでも、立ち止まってもいい。母の声は、命令形ではなく、いつも呼びかけだった。私はペンを取り、新しい便箋に書き始めた。未来の自分への手紙。「もし迷っているなら、十年前の海を思い出しなさい。もし泣けないなら、『泣いていい』と声に出しなさい。もし誰かに優しくできない日があっても、自分を責めないで。明日、少しだけでいいから。」書き終えると、封をして引き出しにしまう。いつかのための手紙だ。誰かに届くかどうか分からない。けれど、書くことで、今日の私が救われた。
ベランダに出ると、夜風が頬を撫でた。街路樹の葉がすこし揺れている。遠くで救急車のサイレンが鳴り、すぐに小さくなった。私は空を見上げる。星は少ないが、雲は薄い。指先でペンダントの縁をなぞる。銀の冷たさの奥に、たしかな温もりがある。母は風になって私を見つけると言った。ならば私は、風に向けて歩こう。明日、駅へ向かう道で、きっと同じ風が吹く。私は歩幅を少し大きくして、眠りにつく時間へ向かった。
枕元の明かりを消す直前、ふとひとつ、思いついた。いつか、私にも子どもができたら、その子に手紙を書こう。誕生日のたびに一通ずつ、十年分。開ける時期はその子に任せる。書く内容は、約束ではなく、呼びかけにする。「あなたはあなたのままでいい」と。「泣いていい」と。「怖い日があってもいい」と。「誰かに優しくできない日があっても、それでも生きていればいい」と。その言葉が、あの日母から受け取った灯りのように、次の世代へと渡っていくように願いながら。
私はペンを置き、静かに目を閉じた。遠くで電車の音が響き、夜の空気がゆっくりと冷えていく。胸の奥で小さく鳴るペンダントの音を聞きながら、母の声と、自分の声とが一つに溶けていくのを感じた。
「おやすみ、母さん」
そう呟くと、心の中に春の風が通り抜けた。やさしく、あたたかく。明日を連れてくる風だった。




