表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
言葉の残る場所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/47

月へ送る下書き

最初に月へ手紙を書こうと思った夜、私は屋上の風の匂いを小さな瓶に閉じ込めるみたいに、胸いっぱいに吸い込んだ。冬の終わりの空気は冷たくて、吸うたび痛いのに、なぜか安心した。痛みは、まだ生きている証拠だから。


あなたが望遠鏡を組み立てる音が好きだった。金属が金属に触れる乾いた音。焦点を合わせる指先。目を覗き込むときの、少し真剣すぎる横顔。私はその度に、胸のどこかが満ちて、そしてこぼれそうになった。こぼさないために、いつも月を見上げた。


——月はいいよね。欠けても、また満ちるから。


口にした言葉は、おまじないのようでもあり、言い訳のようでもあった。本当は知っていた。人は月じゃない。いったん失ったものが同じ形で戻ることはない。それでも「また満ちる」と言ってみたかった。言葉にすれば、未来がこちらを振り向く気がした。


病名は、最初に告げられた日から私の中で曖昧な音に変わっていた。きちんと発音すれば、恐怖が輪郭を持って私に伸びてくる。だから私はノートに星座を描いた。筋書きのある恐怖の代わりに、筋書きのない夜空を持ち歩くために。


入退院を繰り返すたび、屋上の階段は少しずつ急になった。けれど、あなたが必ず先に上がって、ドアを押さえてくれた。あの小さな所作が、どれほど大きかったか、私はうまく伝えられなかった。伝える言葉は、体力が落ちるのと同じ速度でこぼれていったから。


それでも最後の冬、私は言った。「月に手紙を書きたい」と。あなたが首を傾げるのを見て、胸の奥がふっと軽くなった。私の思いつきに、あなたがいつもの真剣さで向き合ってくれるのがわかっていたから。


その夜が、私の“満月”だった。





病室の窓から月が見えた。消毒液の匂いと夜の冷気が混ざって、鼻の奥がつんとした。点滴の滴る間隔に合わせて、言葉を並べる練習をした。


——月へ。 ——わたしの大切な人に、手紙を読んでください。 ——どうか、迷ったときの北極星になってください。


ノートの最後のページに書いた「お願い」は、私の弱さの白旗ではなく、あなたへのバトンだった。私が手放す瞬間、誰かに確かに渡せるものがほしかった。だから、あえて不確かな場所——月——に託した。たしかでないものに、たしかな祈りを結びつける。その結び目だけが、死の向こうへ残る気がした。





眠るみたいに、私はこちら側の音から遠ざかった。最期、私の耳に届いたのは病室の機械の音でも、家族のすすり泣きでもなく、屋上で聞いた風の音だった。風が一度だけ、上向きに吹いた。私は、その風に背中を押されて、すこしだけ軽くなった。


次に目を開けたとき、時間は紙のように薄く、指の腹で破れてしまいそうだった。月の裏側に立っている夢を見た。音はなく、影が澄んでいる。私はスケッチブックを抱えて、白い地平を歩いた。遠くで、小さな音がした。金属が金属に触れる乾いた音。あなたが望遠鏡を合わせる音だと、すぐにわかった。


——聞こえる?


声にならない声を投げると、どこかで微かな点滅が応えた。遅く、でも確かに。私はスケッチブックを開き、鉛筆で四つの大きな文字を書いた。


LOVE。


それは私の言葉であり、あなたの言葉でもあった。誰のものでもない普遍の文字にしておかないと、宇宙のどこかで壊れてしまう気がしたからだ。普遍は、ときに一番個人的だ。





満月の夜が続いた。こちら側からは数えることができない日々を、私は影の濃淡で知った。あなたの机の上に置かれる封筒の白さを、私はいつも月明かりのように感じた。あなたが涙で滲ませたインクは、こちら側で小さなクレーターの影になって、私の足もとを淡く縁取った。


あなたが送ってくれた小さなデータの舟。私はそれを受け取るたび、指先の温度を取り戻す。冷たい世界にも、温度は運べる。温度の別名は、祈りだと私は知った。


ある満月の夜、あなたは「行ってこい」と呟いた。衛星の腹に忍ばせた手紙が、静かに月の海をなでる。私はその軌跡に沿って歩き、ふと振り返った。地球が青く、やわらかく、遠かった。あなたがそこにいる。その事実だけで、私はまた満ちることができた。




手紙は、届かなくてもいい。書くことが、届くことだから。あなたがそう理解してくれたことに、私は救われた。私がこの世界に置いていけたのは、立派な言葉でも、劇的な別れでもない。書く、という姿勢だ。欠けた夜にも、書く。満ちた夜にも、書く。どちらも同じ重さで。


私はときどき、あなたの夢に出る。月面の白に紛れて、手を振る。言葉がうまく届かないから、私は唇で形を作る。「読んだよ」と。あなたが眠りから醒めたあと、机の上の封筒をそっと撫でる仕草を思い浮かべて、私は小さく笑う。


——わたしも、満ちてるよ。


この一行に、私はいくつもの夜を畳んでしまった。満ちるとは、元に戻ることではない。欠けたまま、今ある形を受け入れて、そこに光を満たすことだ。あなたが屋上で息を白くしながら見ていた月が、毎回すこしずつ違って見えたように。違っていい。違うたびに、私たちは更新される。




あなたがペンを取る気配が好きだ。紙が机と擦れる音。キャップが外れる、あの小さな合図。あなたが書き出す一文字目は、いつもすこし震える。私はその震えごと抱きしめたい。震える文字は、生きている文字だから。


“真白へ。今夜も月がきれいだよ。”


もし私が返事を書くなら、こう始めるだろう。


“こちらもきれいだよ。あなたの窓から漏れる光が、こちらの地平を白くしている。”


そして、こう続ける。


“あなたが満ちる夜も、欠ける夜も、わたしは同じ距離で見ている。迷ったら、ノートの余白を開いて。答えはいつも、余白のほうにいる。”


——最後に。


あなたが、あなたの言葉で、あなたの速度で、生きてくれたら、それでいい。月への手紙はその練習だった。宛先が遠いほど、差し出す手は強くなる。あなたがこれから差し出す手が、誰かの夜を照らすと私は信じている。


おやすみ。次の満ちる夜に、また会いましょう。



真白視点は、失われた側からの静かな“続き”を描き、愛する人の想いが時を越えて届くことを優しく示す章です。

読者の皆さんへ——この章では、別れが終わりではなく、光を分け合う形で続いていくことを感じてほしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ