見えない糸
手紙が届いたのは、春の午後だった。
母親宛ての、少し古びた封筒。
差出人の名前を見た瞬間、僕の心臓は跳ねた。
父さんだ。
十年ぶりの、父さんからの手紙。
二十歳になった僕は、もう父の顔をはっきりとは思い出せない。
十歳の時、両親は離婚した。
母に引き取られて、それから父とは一度も会っていない。
電話もない。年賀状もない。誕生日のメッセージもない。
完全に、縁が切れていた。
でも、忘れたわけじゃない。
時々、夢に出てくるんだ。
大きな手で、僕の頭を撫でてくれる父さんが。
「大丈夫だ」って、笑ってくれる父さんが。
手紙の中身は、近況報告だった。
車の修理工場を経営していること。
元気でやっていること。
そして最後に、住所が書いてあった。
それだけ。
「会いたい」とも「来てほしい」とも書いていない。
でも、わかったんだ。
これは、招待状なんだって。
父さんなりの、精一杯の。
修理工場は、駅から少し離れた場所にあった。
油の匂いと、金属を削る音。
いくつかの車が並んでいて、作業着を着た男性たちが働いている。
その中に、一人。
車の下に潜り込んで、何かを修理している人がいた。
父さん、だろうか。
面影はある。でも、十年は長い。
すっかり変わってしまった。いや、僕が変わったのか。
「あの……」
声をかけようとした時、その人が車の下から這い出してきた。
顔は油で真っ黒。汗が光っている。
「ああ、君か! 今日から来るアルバイトの子だね」
父は、僕を見て笑った。
「ちょうどよかった。人手が足りなかったんだよ」
違う、僕は……
言おうとした。でも、言葉が出なかった。
父さんは、僕だとわからないんだ。
当たり前か。十年も経ってるんだから。
誤解のまま、僕はアルバイトをすることになった。
工具を渡したり、部品を運んだり。
父は忙しそうに働きながら、時々僕に声をかけた。
「そうそう、上手いね」
「ありがとう、助かるよ」
簡単な言葉だけど、なんだか嬉しかった。
父さんの働く姿を、こんなに近くで見るのは初めてだ。
真剣な目。汗だくの額。傷だらけの手。
この人は、ずっとこうやって働いてきたんだな。
夕方になって、僕は言った。
「あの、俺そろそろ帰らないと……」
「ああ、そうか」
父は手を拭いて、少し考えてから言った。
「ちょっと待ってな」
奥に引っ込んでいく。
何だろう。
心臓がドキドキする。
今、言うべきなのかな。父さん、僕だよって。
戻ってきた父は、封筒を僕に渡した。
「今日は助かった。お礼は弾んどいたから」
中を見て、僕は驚いた。
「こんなにもらえません」
「まぁいいじゃない。こっちも助かったんだし」
父は優しく笑った。
「またよろしくね」
言えなかった。
結局、最後まで言えなかった。
僕は、息子だって。
家に帰って、一人になってから。
封筒の中身を、もう一度確認した。
お金と一緒に、一枚の紙が入っていた。
開いた瞬間、涙が溢れた。
手書きの、たった一行の手紙。
「大きくなったな。母さんをよろしくな」
父さん、わかってたんだ。
最初から。
でも、何も言わなかった。
僕が言い出すのを、待っててくれたのかな。
それとも、これでよかったのかな。
僕は声を出して泣いた。
十年分の、会いたかった気持ち。
十年分の、寂しかった気持ち。
そして今日感じた、父の温かさ。
全部が混ざって、止まらなかった。
父さん。
僕、また行くよ。
今度は、ちゃんと言うから。
「父さん」って、呼ぶから。
待っててね。
春の夜。
二つの心が、見えない糸で繋がっていた。
十年の空白を超えて。
不器用な愛が、静かに流れていた。




