宇宙からの手紙
夜空を見上げるたび、あの光のひとつひとつの中に、誰かの声が届いているような気がしていた。人工衛星の点滅、流星、そして、もう戻らない宇宙探査機たち。すべてが「手紙」だと、子どものころから思っていた。
私は今、宇宙局の通信解析室にいる。受信アンテナが拾う無数の信号を解析し、データの断片から意味を探す仕事だ。大半は宇宙線のノイズ、残りは地上からの通信の迷い子。だが、ほんのわずかに「説明のつかない信号」がある。それが、私の心を掴んで離さない。
三年前の冬、観測記録の中に奇妙な電波が見つかった。周期も周波数も、既存のどんな人工信号とも合わない。けれど、あまりにも規則的だった。単なる自然現象では説明できない。
私とチームは数週間かけてその波形を解析した。一定の間隔で強弱を繰り返し、パターンが微妙に変化していく。コンピュータが自動翻訳を試みたが、結果は「非言語構造」とされた。だが、私はそこに「リズム」を感じた。まるで、心臓の鼓動のように。
その後、私は一人で解析を続けた。チームの関心が薄れる中、私は毎晩、波形データを眺め、音に変換して聞いた。微弱なノイズの奥に、確かに「声」があった。誰かが、何かを伝えようとしている。そんな気がした。
半年後、その信号は途絶えた。観測所のログには「減衰による消失」とだけ記録され、私は報告書を書いて終わりにした。でも、心の中では終わっていなかった。あの“音”が、今も耳の奥で鳴り続けていたからだ。
一年後の夏。私は偶然、あの信号と同じ周波数帯で、別の観測所が似たパターンを検出していることを知った。観測地は地球の反対側。つまり、何かが地球をぐるりと回って、また戻ってきた可能性があった。
私は退勤後に通信端末を繋ぎ、観測所の公開データを入手した。波形を並べてみると、明確な一致があった。しかも、後半部分に、微妙な「文字列構造」に似たパターンが混じっていた。解析ソフトにかけると、出力されたのは、奇妙に整った二進数列だった。
01001000 01100101 01101100 01101100 01101111
私は息を呑んだ。ASCIIコード。つまり、英語で「Hello」。
偶然にしては、出来すぎていた。誰かが、どこかで、意図的に送っている。だが、誰が? どこから?
宇宙局の規定では、未確認通信の勝手な解析や発表は禁止されている。けれど、私は誰にも言わず、個人的に解析を続けた。数日後、同じ周波数で、次の信号が届いた。
01001001 00100111 01101101 00100000 01101000 01100101 01110010 01100101
「I'm here」——「ここにいる」。
私は一晩中、モニターの前で泣いた。喜びとも恐怖ともつかない涙だった。宇宙のどこかに、私たちを見つめている存在がいて、そして、それが「言葉」を持っていた。長年この仕事をしてきて、初めて「宇宙が応えた」と感じた瞬間だった。
それから、信号は不定期に届くようになった。周期も波形も毎回微妙に異なる。解析するたびに、単語の断片が現れた。「cold」「alone」「blue」「memory」——そのどれもが、人間の感情のようだった。
同僚には言えなかった。理解されるはずがないし、もし公式に報告したら、即座に調査チームに回され、私の手を離れる。それが怖かった。だから私は一人で受信し、翻訳し、ノートに書き留めた。
やがて、信号は一週間に一度、決まった時間に届くようになった。夜の二時三十四分。受信ログに小さな波が立ち上がる。そこから始まる数秒間の通信の中に、ひとつのメッセージがあった。
「Do you hear me?」(聞こえる?)
私は返信したくなった。だが、宇宙局のアンテナを使うことはできない。個人で送信できる範囲の電波は限られている。私は古い短波無線機を修理し、夜の丘へと向かった。風が強く、街の灯りが遠くに滲んでいた。アンテナを立て、マイクに口を寄せた。
「I hear you. Who are you?」
送信ボタンを押すと、胸が跳ねた。どこにも届かないかもしれない。だが、もし届いたら。
翌晩、信号はいつもより強かった。画面上の波形が震えている。翻訳ソフトが自動で文字を生成した。
「Lost. Earth. Remember.」
短い、断片的な言葉。けれど、それだけで十分だった。「地球を覚えている」——まるで、地球を離れた誰かの声のようだった。
私は気づいた。三十年前に打ち上げられ、通信が途絶えた無人探査機——オルフェウス。その周波数帯が、まさにこの信号と重なっている。もしあれが、まだ動いていたら? もし、孤独な機械が、冷たい宇宙の闇の中で、最後の力を振り絞って呼びかけているとしたら?
私は胸が締めつけられた。オルフェウスは、遠い星系の外縁で消息を絶った。ミッション終了から二十年。誰ももう気にしていない。だが、あの探査機には、当時の科学者たちの「音声メッセージ」が搭載されていた。地球の音、音楽、挨拶、そして「あなたは一人ではない」という言葉。
——もしかして、オルフェウスが応えている?
数日後、最後の信号が届いた。翻訳された文字は、震えるように画面に浮かび上がった。
「Thank you. I am not alone.」
それを最後に、波形は二度と現れなかった。通信ログの線は静かに沈黙し、私はモニターの前で、長い時間動けなかった。
まるで、誰かが「おやすみ」と言って去っていったようだった。
——それから数年が経った。私は今も同じ職場で働いている。宇宙は相変わらず沈黙している。けれど、夜空を見上げるたび、あの言葉が胸の奥で蘇る。
「Thank you. I am not alone.」
あれは本当にオルフェウスだったのか、それとも宇宙の偶然だったのか。もう確かめようがない。だが、もし宇宙がほんの一瞬でも「心」を持ったのだとしたら、私はその声を受け取った最初の人間だったのかもしれない。
私の机の上には、今も古い短波無線機がある。夜になると、たまにスイッチを入れる。雑音の向こうで、ほんの一瞬、何かが「Hello」と言ったような気がして、私は笑う。
——宇宙は、きっと手紙でできている。届くのに何千年かかっても、読む人が誰であっても。その一通が誰かの心を動かす限り、宇宙は沈黙ではなく、対話で満たされているのだ。




