― 生きた証 ― 第2話「返信」
拝啓 結城瞳さんへ。
前回のお手紙、確かに受け取りました。校庭の砂が舞っていた日は、空の色が少し白っぽく霞んでいました。風の匂いが甘いという言葉、あれから気になって仕方ありません。外の世界の空気は、きっとあなたの窓辺まで届いていると思います。僕の名前は朝倉蓮。これから、少しだけあなたの話し相手をさせてください。
敬具。
封筒を閉じたあと、蓮は机の上の教科書を押しのけ、深く息をついた。ボランティア活動で「病院宛ての手紙」を書くのはこれで三通目だったが、こんなに返事を書く手が止まるのは初めてだった。彼女の文章は、まるで静かな水の底で光が揺れているようだった。何かを書き間違えた気がして読み返すと、自分の文字がやけに硬く見えた。
放課後の校舎は人が少なく、窓の外の風だけが音を立てていた。蓮はその音に耳を澄ませる。
「風って、時々甘いんです」
——彼女の言葉が頭の中で繰り返される。そんな風を、今まで感じたことがあっただろうか。彼は鞄を抱えて立ち上がると、グラウンドの端にある古いベンチに向かった。空気が冷たく、指先が痺れる。けれど、不思議と居心地が悪くない。
次の日、瞳の病室に新しい封筒が届いた。璃子が小さな笑みを浮かべて差し出す。
「またお返事が来たよ」
「えっ、もう?」
「早いねぇ。青春だね」
冗談めかした声に、瞳は顔を赤らめた。封を切る音が、心臓の鼓動よりもはっきりと響く。インクの香りがふっと鼻をくすぐった。手紙の紙質は少し厚くて、彼の文字がわずかに滲んでいる。勢いよく書いたのだろうか。文字の角がほんの少し揺れていて、まるで呼吸しているみたいだった。
『風の匂いは、花の近くを通ると変わるんですね。昨日は校庭の端に咲いていた菜の花のせいかもしれません。甘い匂いを教えてくれてありがとう。あなたの手紙を読んで、少しだけ空を見上げてみました。空ってこんなに広かったんですね。』
その一文に、瞳の目の奥が少し熱くなった。誰かが“ありがとう”と言ってくれたのは、いつ以来だろう。世界のどこかに、自分の言葉を受け取ってくれた人がいる。そのことだけで、肺の奥まで空気が広がるようだった。
夕方、璃子がナースコールに応えて入ってくる。
「ねえ璃子さん、今日ね、私、空の絵を描いてみようと思うの」
「絵?」
「うん。だって、お返事に“空が広い”って書いてあったから。私の空を描いて、今度はそれを送ってみたい」
璃子は小さく笑ってうなずいた。「いいね。どんな空にするの?」
「うーん……まだ、わかんない。でも、風の音が聞こえる空。」
瞳は画用紙を膝に広げ、色鉛筆を一本ずつ並べた。青、薄い青、少しだけ灰色。窓の外には春の光が斜めに差し込んで、カーテンが淡く揺れている。ウィッグの髪がその風に動いて、光を掬ったようにきらめいた。彼女は微笑む。まだ手は震えるけれど、その震えごと描きたかった。
次の日の放課後、蓮の机の上に白い封筒が置かれていた。差出人の名前を見て、胸が高鳴る。開封すると、中には折りたたまれた紙と、淡い色鉛筆の跡があった。絵には、白い雲が小さく浮かんでいる。その下に、一行だけ文字があった。
『あなたの風も、ここまで届きました。ありがとう。』
蓮はその絵を指先でなぞる。指に少しだけ粉の感触が残る。窓の外では夕暮れの風が吹き、校庭の砂を舞い上げていた。彼は思わず目を閉じる。風が頬を撫でるたびに、あの手紙の中の“甘い風”が、現実の空気と混ざり合う気がした。
その瞬間、蓮は初めて、自分の世界が誰かとつながっていることを、確かに感じた。遠くても、届かない距離じゃない。彼は深く息を吸い込んで、手紙を胸にしまった。心臓が少しだけ早く脈を打つ。その鼓動のひとつひとつが、彼の中の「生きた証」になっていた。




