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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
生きた証

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― 生きた証 ― 第1話「封筒」

拝啓 どなたでも。

病室の窓から見える空は、いつも同じに見えて、毎日すこしずつ違います。点滴の落ちる音が、秒針みたいに時間を刻みます。私がここにいるということを、どこか遠い場所の誰かに伝えたくて、この手紙を書いています。私の名前は結城瞳。十七歳です。外の世界の匂いを、少し分けてください。

敬具。


封を閉じてから、私はしばらく指を離せなかった。白い封筒の角に体温が移って、紙がやわらかくなる。呼び鈴が鳴って、看護師の足音が近づいてきた。璃子さんが顔を出す。


「どうしたの、瞳ちゃん」


「ポストって、病院にもあるのかな」


「あるよ。外来の廊下に。行ってみる?」


 首を縦に振ると、璃子さんはカーディガンを私の肩にかけて、点滴スタンドを押してくれた。昼の廊下は消毒液の匂いがする。誰かの笑い声、誰かの咳、子どもの泣き声。私の心臓は、いつもよりも忙しく跳ねた。


 自動ドアの向こう、外来のガラス壁に陽が集まっていた。ポストは花屋の看板の陰に、小さく口を開けて立っている。私は封筒を胸に抱え、足を止めた。投函口の金属に、私の顔が歪んで映る。髪の代わりに軽いウィッグが、今日だけ少しだけふわっと見えた。


「代わりに入れてあげようか?」


「ううん。自分で入れてみたい」


 腕を伸ばすと、点滴管がたわんで、透明な液が小さく揺れた。封筒が口の中へ吸い込まれる瞬間、ほんの少し指先に紙のざらつきが残って、それが消えると、胸の奥が空になる。私は小さく息を吐いた。


「宛先、どなたでも、って書いたの?」


「うん。おかしいかな」


「おかしくないよ。誰かには、きっと届くから」


 璃子さんはそう言って笑ったけれど、目の奥が少しだけ赤かった。私は見ないふりをした。帰り道、ガラスの向こうに街が広がっている。バス停の列、コーヒーを持った人、傘の骨を直している女の子。私が知らないリズムで世界が進んでいる。羨ましいという言葉よりも先に、ただ、きれいだ、と思った。


 病室に戻ると、窓のカーテンを少し開けた。春の風が白い布を押して、枕元にひと呼吸ぶんの影を落とす。私はベッドの端で、さっきの手紙を思い出す。何を書いたか、もう全部は覚えていない。けれど、最後に「匂い」と書いたのは覚えている。空気の匂い。廊下の匂い。璃子さんのハンドクリームの匂い。私は今日、それを少し分けてもらった。


 夜、点滴の滴が音符みたいに並んで、その合間に心電図の電子音がすべり込む。眠れない。封筒の口の暗闇を思い出す。私の言葉は、いまどの辺りを漂っているのだろう。誰にも届かないかもしれない、と想像すると悲しくて、でも、投げ入れた私の手が確かに震えたことを、私はもう忘れないだろうと思った。


 翌日、午前の回診が終わるころ、看護師ステーションから璃子さんが走ってきた。白い封筒を一枚、胸に抱えている。


「瞳ちゃん、手紙。返信だって」


 胸が跳ねた。私はベッドサイドに座り直し、震える指で封を切る。紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。


『はじめまして。外の世界から、手紙ありがとう。僕は朝倉蓮といいます。病院の近くの高校に通っていて、ボランティアで手紙の返信を書く係をしています。今日は風が強いですね。校庭の砂が舞って、窓がざらざらします。そっちは、どんな匂いがしていますか。』


 読み終えると、胸の内側が急に暖かくなった。内容は短くて、当たり前のことしか書いていないのに、紙には確かに、誰かの息が触れていた。私は指先で文字の跡をなぞる。インクの盛り上がりが、微かに引っかかる。


「どう?」


と璃子さん。


「風の匂いがする」


 声に出した途端、涙のつぼがひっくり返りそうになって、私は慌てて笑顔を作った。笑顔は、うまく作れたと思う。多分。


 午後、私はナースコールを押して、便箋と封筒を頼んだ。まだ息が弾む。手首の脈を測るみたいに、私の中の言葉の速さを測る。少しだけ速い。少しだけ、生きている。

 机の上に、白い紙を置く。ペン先を紙に落とすと、たちまち音が消えた。病室の雑音が遠くなる。私は一行目に、ゆっくりと書く。


『お返事、ありがとうございます。匂いの話、好きです。こっちは消毒液と、誰かの花の匂いがします。窓を開けると、春の風が薄く入ってきます。知ってますか、風って、時々甘いんです。』


 書きながら、私は気づく。昨日までの私は、息をするのが少し面倒だった。でも今は、紙の向こう側に誰かの肺があって、そこへ届くまでの道のりを想像している。遠いけれど、遠すぎない距離。届かないかもしれないけれど、届くと信じられる距離。封筒の角がまた、私の体温でやわらかくなっていく。


 夕方、外は風が強くなったらしい。ガラスを指で触ると冷たくて、指先が目を覚ます。私は封筒を胸に抱え、呼吸を整える。ポストは今日も花屋の陰で、静かに口を開けているはずだ。行けるだろうか。行けなかったとしても、明日がある。明後日も、もしかしたらある。そう思うと、胸が少し軽くなる。


 ナースコールのボタンに、ウィッグの毛が一本、絡まっていた。私はそれをそっとつまんで、指に巻きつけてみる。光が当たって、細い線が金色に見えた。小さなものでも、ここに残る。私がここで息をして、紙を折って、封を閉じたということ。——たぶん、それだけでもう、十分に「生きた証」だ。



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