森が祈った日 第5話 風の祈り
第1節 止まった風の朝
朝、風がなかった。
カーテンも、鈴も、息をひそめていた。
鳥の声さえ、空気の底で迷っているようだった。
テレビの青い光が壁を染める。
アナウンサーの声が、低く重く響く。
「速報です。本日未明、町の北の山林で一頭のクマが射殺されました。
住民への被害は確認されていません。
射殺したのは地元猟友会の……藤野誠一さん。」
箸の先が止まる。
母の手が、ゆっくり味噌汁の椀を置く。
音が、家中の空気を分けた。
“藤野さん”。
あの風の人が、撃った。
その言葉だけが、何度も頭の中を回る。
「猟師は、動物の命を奪った後、
必ずその場で合掌するのが慣例です」
ニュースの映像が流れた。
山の奥。
雪の残る地面。
ブルーシート。
その手前に、帽子を取った藤野さんが映っていた。
手を合わせていた。
けれど、その姿は、
“祈っている人”ではなく、
“風を探している人”に見えた。
わたしは、息を吸えなかった。
胸の奥で、何かが逆流する。
風が止まると、人はこんなにも不器用になるのか。
「……ユイ」
母の声が低く響いた。
「学校、休む?」
「行きます」
「顔色、悪いよ」
「行かないと。……あの人は、わたしたちに話を残したから」
母は頷き、手を伸ばした。
「ユイ、これ」
手のひらに小さな熊鈴。
前に藤野さんからもらったものと同じ形。
「それ、家の分。風の通り道にしておきなさい」
鈴が触れあい、小さく鳴った。
その音が、呼吸を思い出させてくれた。
シャリン――
風がいなくても、音は生まれる。
通学路。
空気が重い。
人々の顔がニュースをまとっている。
噂が風の代わりに流れていた。
「藤野さん、やっぱり……」
「結局、撃ったのね」
「罠の線を越えたんだって」
「優しかったのに」
言葉の断片が道に散る。
どれも正しい。
どれも、痛い。
学校の門の前で、コウタが立っていた。
顔色が悪い。
「……見た?」
「見た」
「父さんが朝、呼ばれた。現場の応援で」
「藤野さん、どうして?」
「……分からない。でも、逃げ場がなかったらしい。
母ぐまが人の前に出たんだ」
「母ぐま……?」
「子ぐまは、助かったって」
それだけで、息が戻った。
ほんの少し。
校庭の風はまだ動かない。
枝も葉も止まったまま。
時間だけが、音を失っていた。
放課後。
町の公民館に人が集まった。
“緊急住民会議”。
「射殺に対する賛否」。
その言葉が、壁に貼られた紙に書かれている。
テレビ局のカメラ。
記者の声。
住民のざわめき。
誰もが、風のない部屋に息を押し込めていた。
壇上に立つ藤野さんの妻。
小さなマイクを握りしめ、
声を震わせながら言った。
「……主人は、
クマを撃ったあと、
“ごめんな”って言って、
その場で泣いていました。
祈るように、泣いていました。
その姿を見た時、
あの人が守りたかったのは、
人でもクマでもなく、
“生きているという時間”だったんだと思いました。」
誰も、拍手をしなかった。
ただ、静かに息をした。
一人ひとりの息が重なって、
部屋の空気がわずかに動く。
風が戻ってきた。
ユイは、箱を持って壇上へ上がった。
質問箱。
いつも通り、白くて静かな箱。
蓋を開けて、中から一枚の紙を取り出す。
自分で書いたものだった。
「風は、撃たれても、止まりません。
風は、次の息で生まれます。
人が撃っても、
人が息をすれば、
世界はまだ呼吸を続けます。」
紙を読み終えると、
藤野さんの妻が泣きながらうなずいた。
「……ありがとう」
その声が、町中に広がった。
カメラのレンズがわずかに揺れた。
きっと、撮る人の手も震えていた。
震えもまた、呼吸の証。
夜。
町に、風が戻った。
葉が鳴り、カーテンが揺れる。
テレビの音量を下げると、
遠くで鈴の音が聞こえた。
シャリン。
お母さんへ。
きょう、風が帰ってきました。
そして、人が泣くことの意味を見ました。
涙は、言葉の遅い形なんですね。
藤野さんが残した風が、
町の中を歩いています。
明日、母ぐまがどこへ行くのかは分からないけれど、
その風の中で、
わたしたちはまだ、呼吸をしています。
手紙を書き終える。
窓を開ける。
夜風が頬を撫でた。
空は深い群青で、
鈴がひとつ、やさしく鳴る。
その音のあとに、
遠くで、もうひとつの鈴が応える。
きっと、誰かが同じように、
風を信じている。
――
翌朝。
ニュースは短くなっていた。
「昨日射殺されたクマの子どもが、森に帰されました。
見守る人々の間を、穏やかな風が吹いていました。」
テレビのアナウンサーが、
ほんの少しだけ息を詰まらせて、
「……以上です」と言った。
その一瞬の沈黙が、
世界の祈りの形に思えた。
風が、カーテンを動かした。
鈴が鳴る。
シャリン。
その音が、
過去と未来をつなぐ“道”になっていく。
第2節 森が返した祈り
朝の集会が終わるころ、町の放送が流れた。
「本日午後、山林への立ち入りが解除されます。
ただし、現場にはまだ野生動物が残っているため注意してください。」
放送塔のスピーカーの声が、
曇り空の中でぼやけていた。
音が、風を探しているようだった。
学校を出て、わたしたちは坂を上がる。
コウタと、自治会の人と、数人の記者。
藤野さんの妻も一緒だった。
誰も多くを語らない。
足音だけが、
“まだ生きている”という合図になっていた。
山の手前で、
ブルーシートが外され、
地面の上には、花束がひとつ置かれていた。
白い菊と、黄色いタンポポ。
その横に、
藤野さんが使っていた古い熊鈴が吊るされていた。
錆びついた金属が、
風のない空気を拒むように沈黙していた。
「……鳴らしていい?」
ユイの声は細かった。
藤野さんの妻が頷いた。
「ええ。あの人も、そうしてほしいと思ってる」
鈴をそっと持ち上げ、
風が生まれるのを待つ。
息を吸い込み、吐き出す。
指先を軽く揺らすと、
金属がわずかに触れあった。
シャリン。
音が空気に溶ける。
静かな音。
でも、世界の隅まで届くような、
やわらかい強さを持っていた。
その瞬間、
空気が少し動いた。
木々が微かに震え、
雲の間から細い光が落ちてきた。
まるで、風が“返事”をしたようだった。
「見て」
コウタが指をさした。
山の奥、細い斜面の向こうに、
小さな影が動いた。
焦げ茶色の毛並み。
小さな体。
母ぐまではない。
あの“子ぐま”だった。
「生きてる……」
ユイの声が、風に混ざった。
その声に反応するように、
子ぐまが一瞬だけこちらを振り向いた。
その瞳の奥に、
藤野さんの祈りの残光が見えた気がした。
藤野さんの妻が泣いた。
「……あの人、約束を守ったのね。
“撃ったあとも、風に残す”って言ってたの」
「残したんだと思います」
ユイは言った。
「撃った場所が、
もう“終わりの場所”じゃなくなってる。
風の通り道になってる」
コウタがうなずく。
「藤野さんが、最後にやったのは、
罠を外すことだったんだな」
「たぶん」
「……人間の心の罠も」
ユイは頷いた。
風が頬を撫でた。
今度の風は、冷たくなかった。
山を降りる途中、
記者がマイクを下げたまま言った。
「今日の記事、どう書けばいいと思う?」
ユイは立ち止まり、考えた。
「“射殺”って書くと、
命が止まったみたいになる。
でも、藤野さんは風を残した。
だから、“風が生まれた”って書いてください」
記者は驚いた顔をして、
それから、ゆっくりうなずいた。
「“風が生まれた”か。
そんな記事、書いたことないな」
「世界の呼吸の記事ですよ」
記者は少し笑った。
「いいね。久しぶりに、
息を吸って書けそうだ」
風が木々の間を抜けた。
鈴がふたたび鳴った。
その音が、
町へ、海へ、空へ、
遠くまで流れていった。
夜。
家の窓を開けると、
風がやさしく通り抜けた。
机の上の便箋がめくれる。
今日も、ユイは手紙を書く。
お母さんへ。
きょう、風が祈りを返してくれました。
鳴らした鈴の音に、森が応えてくれました。
撃たれた命が、
風になって町を通り抜けるとき、
みんなが少しだけ、
息を合わせることができました。
風は、“赦す”じゃなくて、“聴く”なんだと思います。
だから、わたしも、これからは
もっと“聴くように生きて”みます。
書き終えて、
鈴を胸の前で鳴らした。
シャリン。
その音が、
藤野さんの山へと続いていくように思えた。
ユイは目を閉じ、
風に顔を向けた。
森が、遠くで呼吸していた。
その呼吸が、
もう怖くなかった。
――
第3節 風からの手紙
翌朝、町の空はひどく静かだった。
昨夜の雨がすべての音を洗い流し、
道の上に小さな水たまりをいくつも残していた。
その一つひとつに、
曇った空が逆さまに映っている。
ポストの前で足を止める。
口の中で、昨日の鈴の音が残っている。
胸の中で、まだ鳴っている。
シャリン。
世界が呼吸するたび、
その音がどこかで微かに重なる。
投函口を覗くと、
白い封筒が一通、投函されていた。
宛名はなかった。
差出人の欄には、
たった一言――
「風より」
指が震えた。
手紙を取り出して、
封を切る。
紙の端が、湿気を吸って柔らかくなっていた。
読み始める。
ユイへ。
もしこの手紙が届くころ、
風が少し冷たくなっていたら、
それは秋のせいでもあり、
たぶん、オレのせいでもある。
オレはきのう、
一頭のクマを撃った。
けれどそれは、
命を奪うためじゃなく、
“線”を守るためだった。
それでも、
オレの中の“壁”が震えている。
だから、手を洗う。
おまえに教えたように、
水に訊く。
「これは線か、壁か」って。
返事はまだもらっていない。
風に、預けてある。
もしも風がそっちに着いたら、
代わりに答えを聞いてくれ。
“人は線を越えながら、生きる”
そう風が言ったら、
それを信じてほしい。
オレは、
クマを撃ったけれど、
クマの声を聞いた。
「まだ、生きてるか」って。
その声が風になって、
オレの背中を押した。
ユイ。
“聴く”という祈りを、
どうか続けてくれ。
藤野誠一
指先が震えた。
手紙の文字が、
風の音に変わって耳の奥へ入っていく。
藤野さんの声が、
呼吸と重なった。
「……風、聞こえたよ」
口の中で言葉がこぼれる。
風がカーテンを少しだけ揺らす。
それが、返事だった。
昼すぎ、町の広場。
住民が集まり、
小さな追悼の会が開かれた。
花と鈴と、手紙が並ぶ。
ニュースのカメラはなく、
代わりに町の子どもたちが折った風車が立っていた。
ユイはその真ん中に立ち、
熊鈴を手に持つ。
風車の羽が回るたび、
シャリン、と音が重なった。
「藤野さんから、手紙が届きました」
ユイの声が広場に響く。
「読ませてください」
手紙を読む。
人々は黙って聞いていた。
涙をぬぐう音も、
靴の軋む音も、
すべてが“生きている音”に変わっていく。
読み終えたあと、
ユイは封筒を風車の下に埋めた。
「ここに置いておきます。
風が読みたくなったら、持っていけるように」
藤野の妻が歩み寄り、
ユイの肩を抱いた。
「……あの人、きっと喜んでる。
風になって、あなたの鈴を鳴らしてる」
ユイはうなずく。
「はい。聞こえます」
そのとき、風が強くなった。
風車がいっせいに回り、
鈴が同時に鳴り出した。
町中が、ひとつの“風の楽器”になった。
誰もが息を合わせていた。
夜。
机の上に、ユイの手。
便箋を開く。
鉛筆の先を整え、
ゆっくり書く。
藤野さんへ。
手紙、届きました。
わたしの中にも“壁”があります。
でも、風が通ったら、
それは“道”になりました。
きょう、町の人たちと一緒に鈴を鳴らしました。
鈴の音が風車と重なって、
まるで風の中にあなたがいるみたいでした。
“聴くという祈り”
わたし、続けます。
だから、もう安心してください。
――ユイより。
封筒を閉じ、
窓を開ける。
風が入り、
手紙を軽く持ち上げた。
紙が宙でひらひらと舞い、
そのまま夜の外へと流れていった。
シャリン。
鈴の音が一度だけ鳴った。
風がそれを抱きしめるように消えていく。
風の中で、
ユイは静かに目を閉じた。
その呼吸が、
どこか遠くの誰かの眠りと繋がっている気がした。
――
第4節 見えない糸の丘で
夕暮れ。
風の丘アパートメントの屋上に上がると、
西の空が薄紫に沈みかけていた。
町の向こうに見える山は、
もう春の色を少し取り戻している。
フェンス越しに、コウタが手を振った。
「来たな」
「来たよ」
「風、強くない?」
「ううん。やさしい風」
二人の間に、
封をしていない便箋がひらひらと舞った。
「それ、今日の?」
「うん。最後の手紙」
ユイは便箋を胸に抱いて、
屋上の中央に立った。
風が、髪をほどく。
頬に触れる風は、
遠くの誰かの呼吸に似ていた。
「……ねぇ、コウタ」
「ん?」
「手紙ってさ、結局、“息の記録”なんだと思う」
「息?」
「うん。生きることを、“息”のまま残すもの。
書いてるときの呼吸まで、
紙が覚えてるんだよ」
コウタは空を見上げた。
「じゃあ、風は“みんなの手紙”だな」
「そう。
見えないけど、読める。」
――
その夜、ユイは屋上で便箋を広げた。
小さなランプの光の中で、
風の音が紙の上を渡っていく。
世界へ。
いま、わたしたちは風の中で生きています。
それぞれの町で、
それぞれの呼吸をして。
ときどき、風は速くなりすぎて、
誰かを傷つけることもあります。
でも、風は、
わたしたちが息をするたびに、
やさしさの形を思い出します。
だから、止めないでください。
風を責めないでください。
風は、あなたの中にもあります。
もし孤独を感じたら、
ひと呼吸だけ、世界に向かって息をしてみてください。
それが、風の返事になります。
書き終えて、
紙を折らずに風に渡す。
ランプの光を掠めて、
便箋がゆっくり夜空へ昇っていく。
コウタが横で、
自分の帽子を押さえながら言った。
「……行ったな」
「うん。風に預けた」
「届くかな」
「風は、どこへでも行ける」
ユイは笑った。
それは、悲しみでもなく、
喜びでもなく、
“静けさの笑顔”だった。
――
翌朝。
ユイは郵便受けを開けた。
中には、一通の古い手紙。
差出人は書かれていない。
でも、筆跡を見て、すぐに分かった。
“お母さん”の字だった。
ユイへ。
風の話をしていたころ、
あなたがどんな世界を見ているのか、
ずっと想像していました。
人は、言葉を信じられなくなったとき、
風を信じる。
風は裏切らないから。
どうか、この手紙を読むとき、
窓を開けてください。
その風は、わたしからの返事です。
ユイは封筒を握りしめ、
ゆっくりと窓を開けた。
朝の風が部屋に流れ込む。
鈴が鳴る。
シャリン。
その音は、
藤野の山から、町の広場、
ニュースのスタジオ、
そして世界のどこかへと続いていく。
ユイは目を閉じた。
風の中で、
誰かの笑い声と、
誰かの泣き声が交ざって聞こえる。
それが、人の世界の音だった。
便箋を机の上に置く。
その隣に、
これまで書いたすべての手紙を並べる。
母へ、藤野へ、世界へ――
どの紙も、風の色をしていた。
「見えない糸」
ユイは小さくつぶやいた。
「でも、ちゃんと、つながってる」
風が頷いた。
鈴が答えた。
その瞬間、
朝の光が部屋いっぱいに広がる。
窓の外、丘の上で、
風車がいっせいに回り出した。
紙片が舞い、
空が、やさしい音で満たされる。
風は、手紙の続き。
手紙は、祈りのはじまり。
ユイはペンを置いた。
世界はまだ、静かに息をしている。
風の中で、
誰かが、
“だいじょうぶじゃないけど、生きている”と、
確かに言った気がした。
エピローグ 風の丘から
春の風が、アパートの廊下を通り抜けていく。
植木鉢のミントが香って、
白いカーテンが呼吸をしている。
ユイは机の上に、
少し古びた便箋を並べた。
封をしていない手紙が、五通。
罠の朝に書いたもの。
線を道に変えた日のもの。
沈黙を手放した夜のもの。
ニュースの風が動いた朝のもの。
撃たれたクマに祈った夜のもの。
どの紙にも、
指先の跡と、消えかけたインクが残っている。
それが彼女の生きた時間の証だった。
コウタがノックして入ってくる。
「ここ、まだ風通し良すぎるな」
「うん。閉められないの。
風がいないと、手紙が息できなくて」
二人で笑った。
笑いながら、ユイは窓の外を見た。
丘の上には新しい風車が立っている。
町の子どもたちが作ったものだ。
カラフルな羽がくるくる回り、
鈴の音がそれぞれ違う調子で鳴る。
遠くで、藤野の山も見えた。
雪が解けて、緑が戻っていた。
「ねぇ、ユイ」
「なに?」
「結局、“風の見える場所”ってどこなんだろうな」
「人の間」
「間?」
「うん。沈黙と沈黙の間にある空気。
それが風の正体だと思う」
コウタはしばらく黙ってから言った。
「……じゃあ、手紙は?」
「風の翻訳」
「翻訳?」
「そう。
風が“言葉にならない”気持ちを、
人が読める形にしたもの」
コウタは笑って頷いた。
「つまり、ユイは“風の通訳”か」
「そうかも」
机の上の便箋に、
新しい紙を一枚加える。
タイトルは書かない。
日付だけ。
二〇三五年 三月十二日。
ペンを取る。
文字が風に少し揺れながら、
ゆっくり紙に刻まれていく。
誰かへ。
あなたがいま、
ひとりで風を感じているなら、
その風の中に、
わたしの息も混ざっています。
あなたが、
“書きたい”と思った瞬間、
世界のどこかで、
新しい風が生まれます。
だから、
どうか、書き続けてください。
それが、
わたしたちの呼吸です。
書き終えて、
ユイは封筒を持ち上げた。
宛名のない白い封筒。
“手紙シリーズ”の最初の形と同じ。
風が入る。
紙がゆっくり舞い上がり、
窓の外へ流れていく。
そのまま、青い空の向こうへ。
シャリン。
鈴の音が重なった。
丘の上で風車が回り、
町の子どもたちが笑う声が遠くで聞こえる。
「行ったね」
コウタがつぶやく。
「うん。
風は、行った先でまた誰かを見つけるよ」
ユイは、窓を閉めなかった。
代わりに、カーテンをそっと結んだ。
風が、彼女の髪をやさしく撫でる。
――
夜。
机の上に灯りを落として、
ユイは静かに目を閉じる。
風がそっと、ページをめくった。
最初の手紙。
“お母さんへ”から始まるあの文字。
そこから五つの季節を超えて、
今、この瞬間も世界のどこかで読まれている。
風の丘は、眠らない。
誰かが息をしているかぎり、
手紙は生まれ続ける。
手紙は、祈りのかたち。
風は、その祈りの記憶。
窓の外、
風の音が海へと続いていく。
まるで、見えない糸が世界を縫っているように。
――
翌朝。
ポストの中には一通の手紙。
宛名はなかった。
ただ、差出人の欄にこう書かれていた。
「風の丘より」
ユイは微笑み、
封を開けた。
中には、一行だけ。
「ありがとう。
息をしてくれて。」
その文字は、
やわらかい風に変わって、
ユイの髪を撫でた。
――終




