森が祈った日 第4話 ニュースの森
第1節 切り取られた朝
朝の光は薄く、テレビの青が部屋を支配していた。
アナウンサーの声は冷たく整い、言葉は速かった。
「続いて地域の“クマ問題”です。先日、子どもが現場で“歌いながら救助を試みた”件について——」
“歌いながら救助”。
わたしの胸の中で、何かが一拍ずれた。
救助という言葉は、たぶん正しい。
でも、あの夜のわたしは「助ける」より「待つ」をしていた。
声を張ったのではなく、呼吸を置いた。
その差は、テレビの中では小さすぎる。
映像は「危険区域」を示す赤い斜線に切り替わり、
次の瞬間、スマホ動画のアイコンが並ぶ。
「SNSで拡散」「生配信」「勇気ある行為」。
勇気。
きっと褒め言葉。
でも、勇気という言葉は、時々、誰かを盾にする。
台所から母の声。
「朝ごはん、冷めるよ」
「はい」
手を洗って席に着く。
味噌汁の湯気が、ニュースの青をやわらげる。
湯気は体温。
体温は、いつも遅れて届く。
テロップが変わる。
「住民の声」
「対策を」「危険を排除」「自然と共生」
正しい言葉たちが、早口で順番を争う。
どの言葉も、間に“息”がない。
息のない言葉は、鋭い。
わたしはスプーンで豆腐を割り、口に運んだ。
温度が、喉を通して、心の輪郭を思い出させる。
ポケットの中。
熊鈴が小さく触れ合う。
シャリン。
テレビの音に消されるほど小さいのに、
わたしにははっきり届く。
“ここにいる”。
それだけの音。
食後、机へ。
便箋をひと枚。
鉛筆で最初の行を書き始める。
お母さんへ。
きょう、わたしは“勇気”という言葉を、少し怖いと思いました。
勇気が前に出ると、声が後ろに下がることがあるからです。
わたしの歌は、勇気ではなく、呼吸の置き場所のつもりでした。
書いて、止める。
テレビの音量が下がる。
母がリモコンを置いて、静かに言った。
「今日、学校にテレビが来るらしいよ。取材の打診があったって先生」
胸の鈴が一度鳴って、止まった。
「……わたし、話すかな」
「話さなくてもいい。話すなら、息を入れながら話しなさい」
「息」
「うん。息が入ると、言葉は体温を思い出す」
校門の前は、いつもと違う匂いがした。
機材の金属と、ケーブルのゴム。
レポーターの笑顔はプロの光で、
わたしの目を素通りしたあと、カメラのレンズに貼りついた。
「失礼、少しだけ——」
肩にかかる声の明るさが重い。
わたしは一礼して、通り過ぎる。
背中で「勇敢な少女」という言葉が鳴り、
熊鈴が胸の骨で小さく応える。
“ちがうよ”。
でも言わない。
言わないことが、今朝は守る行為に思えた。
教室。
黒板には「意見交換会 本日16:00」とチョークの白。
生徒会の手書きポスターが掲示板に貼られ、
端に青い丸。
“線を道にする”会議の続き、学校版。
コウタが近づいてくる。
「来るか?」
「行く」
「テレビ、どうする?」
「“背中の距離”で見てもらう」
「具体的には?」
「質問を、箱に入れてもらう」
「箱?」
「宛名のない箱。——質問版」
コウタは笑った。
「出たよ、箱。……作っとく」
昼休み、図書室のプリンターが震えていた。
ユイとコウタで作ったA4の紙。
この取材は「箱」を通じて行います。
質問は匿名で投函してください。
“だいじょうぶ?”より“どんな息でしたか?”を。
撮影は、箱と手紙のアップのみ可。人の顔は撮りません。
図書室の先生が目を丸くし、それから笑った。
「いいルール。図書室の“静けさ”と相性がいいね」
「ありがとうございます」
静けさは、拡散の対義語じゃない。
静けさは、速度の調律だ。
それを“ニュースの森”へ持ち込めるか試したい。
午後。
体育館わきに小さなテーブル。
白い箱。
「質問箱」と青いペン。
カメラは距離を取り、マイクは伸びすぎない。
生徒会が見守る。
自治会の人が頷く。
藤野さんが、壁際に立つ。
背中の距離は、守られていた。
最初の紙が、箱に落ちた。
二枚、三枚。
重くない音。
その軽さが、呼吸のリズムになる。
コウタが合図をして、わたしは箱の前に座った。
封を開け、読む。
声にする前に、息を入れる。
“だいじょうぶ?”のつもりで書かれた文字も、
読み上げるときには“どんな息でしたか?”へ変える。
言い換えではない。
解像度の調整だ。
Q1. こわくなかったですか?
A. こわかったです。こわいまま、息をしました。
Q2. 歌は助けましたか?
A. 助けたかは分かりません。歌は“待つ”の形を作りました。
Q3. 勇気、もらいました!
A. 勇気は受け取らないでください。受け取るなら、呼吸を。あなたの呼吸の速さで十分です。
レンズの先の誰かが、ほんの少しだけ肩を落とすのが見えた。
たぶん、息を思い出したのだ。
ニュースは“言い切る”が得意。
手紙は“言い切らない”が得意。
今日は手紙の勝ち方を試している。
質問は続く。
“なぜ森に行くのか”“なぜ山から降りてくるのか”。
藤野さんが、ときどき短く答える。
「土が痩せると、腹が鳴る。腹が鳴ると、線が薄くなる」
言葉が少ない人の語彙は、よく育つ。
その少なさが、ニュースに映る。
終わり際、箱の底に小さな封筒があった。
子どもの字。
「ユイちゃんへ」。
開けると、色鉛筆のクマが描かれ、
その下に一行。
「こんなふうにこわいとき、どうやって、すうの?」
わたしは熊鈴を握り、息を吸った。
答えは、手紙にする。
ここでは読まない。
「背中の距離」で、返すために。
終わって校庭に出ると、風が砂を低く撫でた。
カメラは引き上げ、レポーターが「お疲れさまでした」と頭を下げる。
目は笑って、息は整っていた。
体温が、遅れて届く。
遅れて届くものは、長く残る。
夕方。
ポストに向かう角で、魚屋のおばちゃん。
「見たよ、箱のニュース。
“質問の息”っての、いいねぇ」
「ありがとうございます」
「うちも貼っとくか、“息を入れて話す”って」
「お魚、やわらかくなるかも」
「ならん!」
二人で笑う。
笑いは、ニュースより早い。
ポストの口は、相変わらず海の色。
封筒を押し出す。
さっきの子へ、返事。
“すうのは、こわくない方の背中を探すこと”。
そう書いた。
背中は、いつも少し離れたところにある。
離れているから、長く残る。
――
夜。
窓を開けると、風が紙の端を持ち上げた。
今日の質問箱の抜粋を、ノートに写す。
ニュースの速さは、ここでいったん止める。
止めることが、明日に繋がる。
机の鈴が鳴る。
シャリン。
“ここにいる”。
今日もそれで、十分だと思った。
第2節 速すぎる森の中で
夜の部屋に、スマホの光。
明るすぎる。
コメントの流れが、川みたいに速い。
どの言葉も、息をしていない。
〈#森の勇気 #歌う少女 #奇跡の救出〉
――トレンド一位。
指先が、画面をスクロールする。
心臓が、少し早く動く。
ニュースの青とは違う。
こっちは、赤い。
熱がありすぎて、触ると火傷しそう。
コメントの中に、短い文があった。
「あんな危ないこと、真似されたらどうするの?」
「少女の歌で熊が逃げた? 嘘くさい」
「感動した! 歌って世界を変えて!」
矢印がいくつも飛んでいる。
方向がバラバラで、森の中みたい。
言葉が木にぶつかって、跳ね返って、また飛んでくる。
それを見ていると、胸が狭くなる。
“これがニュースの森”。
情報が枝のように伸び、
どれが本物の道かわからなくなる。
スマホの下で、熊鈴が触れる。
シャリン。
ほんの一音。
熱の森の中で、その音は冷たい風のようだった。
息を吸い込む。
お母さんの声が思い出される。
――息を入れて話しなさい。
画面を閉じる。
指先が少し軽くなった。
光のない部屋で、息の音だけが残る。
次の朝。
教室のドアを開けると、
コウタが窓際でスマホを見ていた。
顔に影がある。
「……見た?」
「うん。見た」
「“嘘くさい”って書いてあったやつ、俺、ちょっとムカついた」
「うん」
「でも、藤野さんが言ってたな。『怖い』って言葉の奥に、
本当は“分からない”が隠れてるって」
「“分からない”?」
「うん。分からないと、人は守るために攻撃する」
わたしはうなずいた。
コウタの手の中のスマホが、ゆっくり閉じられる。
「ユイ、これ」
画面にひとつのDM。
「“歌、聞きたいです”」
差出人は名もない。
でも、その一行が、不思議に柔らかかった。
「返す?」
「返す」
机の端にノートを開いて、
わたしは鉛筆で文字を書く。
歌は、あの時だけのものです。
でも、代わりに“息”を贈ります。
この文章を読むとき、深呼吸してみてください。
返送ボタンを押す。
小さな“送信しました”の表示。
それだけで、胸の中の温度が下がった。
「……息って、伝わるのかな」
「伝わる。文字にも息が入る」
「どうやって?」
「空白で」
コウタは笑う。
「さすが、ユイ」
放課後。
昇降口の外で、取材に来ていた記者が待っていた。
昨日のカメラの人。
マイクは持っていない。
手には、白い封筒。
「こんにちは。これ、預かってもらえるかな」
「なんですか?」
「取材で使った映像の一部を、ニュースじゃなく“記録”として残したい。
君たちの“質問箱”の横に置かせてもらえないかな」
「記録?」
「ニュースは消えるけど、記録は残る。
違う呼吸で作りたいんだ」
その言葉に、少し驚いた。
“息”という言葉を、あの人の口から聞くとは思わなかった。
「いいと思います」
「ありがとう」
記者は軽く会釈して、去っていった。
歩く後ろ姿に、息のリズムがあった。
人は、変わる。
ゆっくりだけど、確かに。
夜。
母が夕食の味噌汁をよそう。
「今日も、ニュースで出てたよ」
「また?」
「でも、少し違った。
“少女が作った質問箱”って。
“勇気”より、“呼吸”をテーマにしてた」
「……それ、誰が変えたんだろう」
「きっと、誰かが息を入れたんだよ」
母の声が、鍋の湯気に混ざる。
その温度が、胸の奥をやわらかく撫でた。
「ねぇ、お母さん」
「なに?」
「ニュースって、どうして息が抜けるの?」
「“伝える”を急ぐから。
でも、書く人も撮る人も、本当は息をしてる。
息の音をマイクが拾わないだけ」
「じゃあ、どうしたら拾える?」
「自分の息を聞くことから」
その言葉が、
まるで“答えのような始まり”に聞こえた。
食後、机の上の便箋。
鉛筆の先を整えて、書き始める。
お母さんへ。
きょう、ニュースが少しだけやわらかくなっていました。
息の音が、どこかで入ったんだと思います。
風に似た、静かな変化です。
でも、まだ森はざわついています。
情報という葉が、いっせいに風で舞って、
どれが根なのか見えなくなる。
わたしは、根を探します。
息の速さではなく、
“音が届くまでの間”で、歩きます。
書いて封をする。
熊鈴を軽く鳴らす。
シャリン。
今夜の音は、少し長く残った。
呼吸の森の奥まで届いたような気がした。
――
ニュースが変わる速度は、風より遅い。
でも、風のほうが優しい。
優しさは、遅くていい。
遅いから、根に届く。
その夜、夢の中で、わたしは“速すぎる森”を歩いた。
画面の光が枝のように交差し、
コメントの文字が葉のように散っていく。
その真ん中で、わたしは深く息を吸い、歌をひとつ置いた。
“だいじょうぶ”と言わない歌。
音はすぐに消えたけれど、
森の奥で、小さな風が返ってきた。
風の言葉は、ただ一行。
「息をしてる人がいる」
その一行で、森は少し明るくなった。
第3節 届かない声の向こうで
昼休みのチャイムが鳴るころ、
スマホが震えた。
机の上の画面に、文字があふれていく。
〈#森の少女 嘘〉
〈#仕組まれた歌〉
〈#ステージ演出〉
“誤配”という言葉が頭をよぎる。
送ったものが、違う相手に届いてしまうこと。
たしかに、わたしの歌は届いた。
でも、それは本来の宛先じゃなかった。
“勇気”の形で消費され、
“話題”のために使われていた。
心臓の奥で、熊鈴が鳴る。
シャリン。
それは風の声ではなく、
“気をつけて”という合図に聞こえた。
「ユイ、見た?」
コウタが駆け寄る。
眉がわずかに寄っている。
「デマだ。歌が流れたタイミングが編集されてる。
まるでクマを挑発してるみたいに見える」
「……そんなふうに?」
「ニュースの編集じゃない。SNSで勝手に作られた“切り抜き”」
コウタの声が震えている。
「みんな、いいね押してる」
その“いいね”の軽さが、胸の奥で重くなる。
数字は、呼吸より速い。
呼吸を忘れた世界では、
正しさも優しさも、すぐに酸欠になる。
わたしは、教室を出た。
廊下の窓を開ける。
風が吹き込んで、髪を揺らす。
息を吸い、吐く。
空気はまだ冷たく、
その冷たさが“現実”の温度を思い出させる。
――
放課後、町の掲示板の前に立つ。
「意見募集」のポスターは、
昨日よりも端が破れ、誰かの落書きが加わっていた。
「結局、危険を呼んだだけ」
「子どもがヒーローになる物語はいらない」
マーカーの線が荒い。
怒りというより、焦りの筆跡。
その下に、小さく書かれていた。
「でも、助かったんだろ?」
ひとりの手の中にも、いくつもの声がいる。
声が互いを押し合って、文字になる。
そのどれもが、間違いではない。
ただ、息の入る場所がなくなっているだけ。
藤野さんが、通りの向こうから歩いてきた。
手に新聞。
「……ユイちゃん、読んだか」
「まだ」
「『デマ動画、拡散止まらず』。
人間は、怖いより先に“知りたい”が動く。
その“知りたい”が、時々、壁をつくる」
藤野さんの目は、風よりも静かだった。
「言い返すか?」
「……言いません」
「どうして」
「沈黙のままでも、風は返してくれるから。
言葉の向きを、風が直してくれる」
「風に任せるのか」
「はい。でも、何も言わないわけじゃない。
“沈黙の形”で、置きに行きます」
「置きに?」
「箱に」
藤野さんがゆっくりうなずいた。
「それが、お前の“手紙のやり方”か」
「はい。
――息のない言葉には、息のある沈黙で返す」
――
夜。
学校の裏庭。
街灯の光が地面に輪を描いている。
その真ん中に、白い箱。
“質問箱”の、夜の姿。
誰もいない時間、
わたしはその箱の中に、紙を一枚入れた。
「わたしは嘘をついていません。
でも、誰かが嘘をついたのでもありません。
風の速さを間違えたんです。
風を急がせたのは、きっと人の“知りたい”でした。
だから、もう少し、遅くします。
息の速さで、伝え直します。」
紙が箱の底に落ちた。
小さな音。
シャリン。
熊鈴が、風に反応して揺れた。
誰もいない夜なのに、
風だけが、ちゃんと聞いていた。
ポケットの中でスマホが震える。
通知。
“#沈黙の返事”というタグ。
動画ではなく、白い画像。
文章も音もない。
ただ、タグの下に一言。
「呼吸を思い出した人がいる」
誰が書いたのかはわからない。
けれど、その一文が、
たくさんの“いいね”よりも温かかった。
風が、窓を鳴らす。
誰もいない廊下で、
鈴が静かに共鳴した。
――
深夜。
机に向かって、便箋を開く。
お母さんへ。
きょう、言葉が速くなりすぎて、
わたしの声が追いつけなくなりました。
だから、黙りました。
でも、黙ることは、何も言わないことじゃないと知りました。
沈黙の中にも、息があります。
その息が、いつか誰かの胸で
“だいじょうぶじゃないけど、生きてる”に変わりますように。
書き終えると、
指先が静かに震えた。
それは悲しみではなく、
“呼吸が戻るときの震え”だった。
風が窓を開け、
鈴がまたひとつ鳴った。
シャリン。
その音は、
誰にも届かないふりをしながら、
世界のどこかの壁を、やわらかく湿らせていた。
第4節 呼吸の速度で話す朝
朝の光が、白いカーテンの隙間からこぼれる。
スマホの通知が一度だけ鳴って止んだ。
画面には短いニュースの見出し。
「“沈黙の返事” SNSで静かな反響」
映像はなかった。
ただ、白い画面に黒い文字。
レポーターの声も抑えられていた。
「発信者は不明ですが、
昨日の“デマ”の後、このタグが一気に広がりました。
文字も写真もない投稿が、
“呼吸の速度”で共有されています。」
アナウンサーが息を吸う音が、マイクに拾われた。
いつもはカットされる“呼吸のノイズ”。
それが、そのまま残っていた。
テレビが、初めて“息をしている”気がした。
母が振り返る。
「……やっと、音が落ち着いたね」
「うん」
「“沈黙の返事”、あなたが?」
「わたしじゃない。
でも、たぶん、風です」
母は笑って、テーブルに味噌汁を置いた。
「風がニュースを運ぶなんて、いい時代ね」
スープの湯気が、
今日のニュースの一番やさしい部分に見えた。
熱すぎず、冷めすぎず。
呼吸の速さで冷めていく。
通学路。
ポストの前で足を止める。
宛名のない封筒を、もう一度ポケットから出す。
中には、昨夜の便箋。
「沈黙の中にも息があります」と書いた手紙。
差し出す指先が、ほんの少し震えた。
けれど、その震えが“生きている”の証のようで、
少しだけ誇らしかった。
投函口が開く。
金属の小さな音。
封筒が中に吸い込まれ、
風の中に溶けていった。
シャリン。
胸の鈴が鳴る。
ポストの奥から返事をもらったように感じた。
コウタが自転車で追いついてくる。
「おはよう!」
「おはよう」
「なぁ、見た? “沈黙の返事”のニュース」
「見た」
「藤野さん、あれ見て泣いたらしいぞ。
『壁がやっと湿った』って」
「湿った?」
「うん。“線に戻った”って意味だろ」
コウタの笑顔は、
風のなかに差し込む朝陽みたいに明るかった。
「そういえば」
「なに?」
「町の掲示板、見たか?」
「まだ」
「新しい張り紙があった。
“罠撤去、住民と相談しながら実施”。
藤野さんの字だと思う」
「……そっか」
線が、道になった。
昨日までは、分けるためにあった線が、
今日は繋ぐための道になっている。
「ユイ」
「うん」
「お前の“沈黙”、効いたな」
「わたしのじゃないよ」
「誰の?」
「たぶん、みんなの。
“聞く”っていう沈黙が、風を作ったんだと思う」
「なるほどな」
コウタは帽子を取って、空を仰いだ。
「風、いい匂いだ」
「ニュースよりも?」
「ずっと」
二人で笑った。
笑いの音が風に溶けて、
小さな街の呼吸になった。
放課後。
学校の図書室。
“質問箱”の前に立つと、
中に新しい紙が数枚入っていた。
そのうちの一枚を開く。
「ニュースを見て、息をしてみました。
苦しかったけど、気持ちよかったです。」
もう一枚。
「お母さんと一緒に、静かにご飯を食べました。
テレビの音、少し小さくしたよ。」
どの文字も、乱れていた。
けれど、その乱れ方に、
“人の呼吸”があった。
整っていない字ほど、あたたかい。
ユイは、便箋を一枚抜き取る。
鉛筆を走らせる。
お母さんへ。
今日、ニュースが呼吸をしました。
テレビから、アナウンサーの息の音が聞こえました。
その瞬間、世界が少し静かになりました。
人は、速さでつながるよりも、
同じ呼吸の長さでつながるほうが安心します。
“沈黙の返事”は、わたしの声じゃありません。
みんなの胸の中で鳴る、風の音です。
わたしはそれを、鈴で受け取ります。
書き終えた手紙を、箱の中に入れる。
“質問”の代わりに、“返事”を入れる日があってもいい。
風が通り、紙が揺れた。
そのとき、背後から声がした。
「ユイ」
藤野さんだった。
作業着の袖に泥がついている。
「道、一本、外した」
「外した?」
「あの山の、古い罠の跡だ。
お前の“沈黙”が乾く前に、風が吹いた気がした」
「風が」
「うん。
オレたちが言葉を減らすと、
山が少し、息をしやすくなるんだな」
藤野さんの笑顔は、
“線の向こう側”ではなく、同じ道の上にあった。
「これ、やる」
手渡されたのは、
錆びた罠の輪を曲げて作られた小さなペンダント。
「“線の欠片”。
壁の破片が、道の飾りになる」
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。
風が持ってけって言った」
ユイはペンダントを胸に下げ、
熊鈴と並べて揺らした。
シャリン。
二つの音が重なって、
ひとつの“呼吸”になった。
夜。
家の窓を開ける。
遠くでテレビの音が聞こえる。
ニュースキャスターが、息を整える音も聞こえる。
その息の音に合わせて、
わたしは、手紙を読み上げる。
世界へ。
わたしたちは、いま、
速すぎる森をゆっくり歩いています。
その森には、ニュースの葉と、
沈黙の風が混ざっています。
もし、あなたが迷ったときは、
息をしてみてください。
息をしたその瞬間、
風が返事をしてくれるはずです。
紙を閉じる。
窓の外で、風がやさしく吹いた。
鈴が鳴り、ペンダントが光った。
「……おやすみ、風」
声に出した瞬間、
部屋の中の空気が少し温かくなった。
呼吸が、世界と繋がる音。
ニュースの森は、いまもざわめいているけれど、
その中に、ちゃんと“間”が生まれた。
息を入れられる“間”が。
わたしは目を閉じた。
風の音が、
胸の中の鈴と、同じリズムで鳴っていた。




