森が祈った日 第3話 藤野さんの手
第1節 山へ向かう道の途中で
土曜日の朝、空は白く、風はまだ色を持たなかった。
カーテンの隙間から射す光は、眠る前の夢の色をしている。
靴ひもを結ぶ指が少し震えた。
緊張というより、何かを聞きに行く前の静かな合図だった。
玄関を出ると、コウタが待っていた。
リュックを背負い、帽子のつばを深く下げている。
「行くか」
「うん」
「父さん、先に出た。藤野さんの家、丘の下だって」
「山のほう?」
「そう。罠の置き場に近いほうが落ち着くらしい」
道は登り坂で、両側に低い石垣。
ところどころに柿の木が立っていて、枝先に実が一つ二つ、残っていた。
風がその実を揺らすたび、季節の声が鳴る。
わたしは、昨日投函した手紙のことを思い出していた。
――“罠を仕掛ける人の気持ち、少しでいいから知りたい”。
紙の上で書いた願いが、今日こうして現実に向かう。
道の途中、コウタが口を開いた。
「ユイ、緊張してる?」
「してる。……でも、怖くはない」
「なんで?」
「聞くことって、守ることだから」
「守る?」
「うん。誰かの言葉の居場所を、ちゃんと作ること」
コウタは少し考えてから、「……ユイらしいな」と笑った。
丘を下ると、小さな作業場が見えた。
トタン屋根と、木製の看板。
“藤野獣害対策工房”。
手書きの文字が風で少し揺れている。
中から金属を叩く音がした。
カン、カン、カン。
昨日の“解ける音”とは違う。
でも、どこか似ていた。
同じ“生きるための音”という響きがあった。
コウタの父が先に挨拶する。
「おーい、藤野さーん!」
作業台の向こうから、がっしりした体の男が振り返った。
帽子の下の目が、思ったより穏やかだった。
「おう、来たか。こっち座れ」
木箱を椅子代わりにして、わたしたちは並んで座った。
作業場の奥には、工具やワイヤーの束、古い地図が掛かっている。
金属の匂いに混ざって、木の油とコーヒーの香りがした。
その混ざり方が、不思議に落ち着く。
「昨日のクマの件、聞いたよ」
藤野さんの声は低く、静かだった。
「お前さんたちが見つけてくれたんだってな。助かったよ」
「助けたのは、風です」
「風?」
「風が、音を運んでくれたから」
藤野さんは、ふっと笑った。
「面白い子だな。……風のせいにできるのは、優しいことだ」
作業台の上には、罠の模型が置かれていた。
銀色の輪が二つ、金属の板に固定されている。
藤野さんが指先でそれを軽く弾くと、細い音が鳴った。
キィン——。
あの音だった。
でも、昨日より低い。
もっと“人の手”の音。
「これが罠ですか?」
「正確には“くくり罠”。足を絡めるだけのやつだ。殺すためじゃない」
「じゃあ、どうして置くの?」
「食われたから、だ」
藤野さんの声が少しだけ低くなった。
「畑のトウモロコシも、芋も。夜のうちに全部やられた。罠を置かないと、人間の暮らしが消える」
「……でも、クマも生きてる」
「そうだな」
「どっちが正しいんですか?」
「どっちも正しい。だからこそ、罠は罰じゃなくて、“線”なんだ」
「線?」
「越えると危ない、っていう合図の線。
クマにとっても、人にとっても。
でもその線が年々曖昧になってきてる。山が痩せて、森が浅くなった」
藤野さんの手が罠の金属に触れる。
指先は厚くて、所々に古い傷跡がある。
でも、動きはとても丁寧だった。
まるで壊れやすいものを触るように。
「この手、昔は獣を殺すために使ってた。
若いころ、猟で仲間を助けられなくてな。
それから“捕まえる”より“止める”に変えたんだ」
「止める……?」
「命を止めるんじゃなく、境界を止める。
越えすぎないように。人間も、動物も」
作業場の外で風が鳴った。
木々の葉が擦れる音が、低く響く。
その音が、藤野さんの声の奥でゆっくり混ざった。
「でもな、罠を作る手は、時々、自分の足も縛る。
“守るため”が、“怖いから”に変わる瞬間がある」
藤野さんは言って、金属の輪を握った。
その手の甲が小さく震えた。
「その線を見失うのが一番怖い」
わたしは息を吸い込んで、
胸の奥で何かを感じた。
“恐怖”という言葉が、ここではまるで別の形をしている。
人間の中にも、罠がある。
心の深いところで、自分を守るための輪が。
締めつける音は聞こえないけれど、
たしかに鳴っている。
「……藤野さん」
「うん?」
「もし、クマがもう一度来たら、また置きますか?」
「置くよ。
でも、そのたびに“これはほんとに線か?”って、自分に聞く」
藤野さんは目を細めた。
「それが、罠の使い方だ。
外のために置いても、内に問いが残る。
だから、時々歌ってやらないと錆びる」
「歌?」
「道具ってのは、声をかけると長持ちするんだ」
「……それ、素敵ですね」
「罠も、クマも、人間も同じだ。声をかけると、ちょっとだけ優しくなる」
わたしは頷いた。
胸の奥の何かが、音にならないまま動いた。
昨日の夜に書いた“世界の声を信じます”という文字が、
少しだけ形を変えて心の中で読まれる。
“人の声も、信じてみます”。
作業場の外からコウタの父が呼ぶ声。
「そろそろ帰るぞー」
わたしたちは立ち上がり、藤野さんに頭を下げた。
「ありがとう」
「ありがとう、か。
……言われると、ちょっと楽になるな」
「罠も?」
「罠も」
藤野さんは笑って、手のひらで金属の輪を撫でた。
「こいつにも、少し休みをやらなきゃな」
外に出ると、午後の風が吹いていた。
山の向こうの空が、わずかに金色に傾く。
コウタが言った。
「どうだった?」
「罠、って線なんだって」
「線?」
「うん。守るための、でも時々、自分も縛る線」
「……深ぇな」
「風の音、違ってたね」
「違ってた」
「たぶん、あれは人の音」
「人の音?」
「うん。人の“生きようとする音”」
コウタは頷いた。
「おまえ、ほんと詩人だな」
「変人、のほうが好き」
「はいはい」
ふたりで笑った。
帰り道、風の向きが再び変わった。
木の葉が裏返る。
その揺れの奥で、かすかな金属音。
昨日とは違う高さで、短く響いた。
キィン——。
それは“罠の音”ではなく、“外れる音”だった。
第3節 壁になった夜、穴をあける歌
午後の遅い光が、町の屋根を薄く撫でていた。
丘の坂を下りきる前に、わたしたちは一度だけ立ち止まる。
胸の前の熊鈴を、指先でそっと揺らす。
シャリン、と、糸の先でガラスがふれるような音。
“ここにいるよ”――それ以上でも、それ以下でもない。
「ユイ」
「うん」
「さっき、藤野さん、写真の前でちょっと黙ったの、見た?」
「うん」
「父さんが言ってた。……“あの夜”のこと、多分まだ誰にも話し切れてない」
わたしはうなずいた。
手を洗う祈りの水音が、耳の奥で続いている。
その水の輪郭を壊さないように、歩幅を小さくする。
――
夕方、藤野宅に戻ると、縁側に二客ぶんの湯呑みが置かれていた。
「戻ったか」
藤野さんは工具を片づけ、手ぬぐいで掌を拭いていた。
「少し、話してもいいか。……“壁になった夜”のことだ」
隣にコウタの父が座り、わたしとコウタは畳に正座する。
熊鈴が、膝と膝のあいだでかすかに触れた。
藤野さんは、湯呑みの湯気を見つめたまま、ゆっくり始める。
「十七年前、冬のはじめさ。山に雪が薄く積もった晩。
畑が何夜も荒らされて、町が張りつめてた。
“線”を太くしろって声が、あっちこっちから上がった」
“線が太くなる”。
それは、境界が“壁”になる合図だと、わたしはもう知っている。
「若かったオレは、怖かった。
“守れなかったら”が怖くて、線を太く塗った。
罠も多く、強く、深く。
“会わないため”じゃなく、“絶対に来させないため”に」
湯気が少しだけ弱くなる。
藤野さんは湯呑みを置き、両手を膝に重ねた。
「その夜、仲間の祐介が、山道で足を取られた。
吹雪いて視界が悪いなか、オレらの“太すぎる線”に、自分で絡まった」
部屋の空気が、ほんのわずかに沈む。
コウタの父が小さく目を閉じ、奥さんが台所の音を止めた。
遠くで、風が庭木をひと撫でした。
「祐介は、強い男だった。
“獣の道”が見える人で、オレの三歩先で笑うようなやつだ。
見えるやつが、見えない夜ってのがある。
オレらは、線を太くしたぶん、目が細くなってた」
藤野さんの喉仏が、乾いた音で上下する。
「翌朝、祐介は助かった。命は残ったが、片脚の感覚が戻らなかった。
『俺は壁で転んだんだな』って笑って、町を出た」
“壁で転ぶ”。
その言葉が、胸の中で擦れ、熱を出す。
“守るため”が、“怖いから”に変わる瞬間――
線は壁になる。
壁は、見えないまま誰かをはじく。
「それから、オレは手を洗うたび、聞くようにした。
『これは線か? 壁か?』って。
答えは、風の向きのように日によって違う。
だから毎日、洗う」
手を洗う水の音が、見えない手紙の文字を濡らすように、わたしの中で広がる。
藤野さんは、ゆっくりこちらを見た。
「……なぁ、ユイ。
“歌”は、壁に穴をあけられるか?」
「穴」
「そうだ。小さくていい。風が通れば、壁は湿って、やがて線に戻る」
わたしは熊鈴をつまんで、そっと揺らす。
シャリン。
背中の距離の音。
「歌は、穴をあけます。
“だいじょうぶ”と言わないぶん、湿り気を運べるから」
藤野さんの口元が、わずかに緩む。
「そうか。……なら、今日は頼んでもいいか」
「……はい」
「山の手前まで行く。
“外す番”の印をつけた丸が、まだ壁の匂いを残してる。
穴をあけてくれ。…弱く、な」
――
日が傾き、山の入口は灰色に沈みかけていた。
黄色いテープの手前で立ち止まる。
藤野さんが両手を合わせ、短く息を吐く。
「ここから先はオレの仕事。
お前らは、“背中の距離”だ」
コウタの父が周囲を見回し、奥さんは持参の水筒を地面に置く。
「お茶、置いとくよ。帰るまで、温度が逃げないように」
その一言が、夜のはじまりをやわらげた。
わたしは熊鈴を胸の真ん中に下げなおし、肩幅一歩ぶん、藤野さんの背から離れる。
“近すぎない”場所。
そこからでも、声は届く。
届かせ方は、強さじゃなく、向き。
藤野さんが藪に入り、地面に低く膝をつく。
古いワイヤーの切れ端、足跡の浅い窪み、
地図の“外す番”の丸――
冬の名残の湿りに、金属の記憶がまだ薄く残る。
壁の匂い。
皮膚がほんの少しだけ乾く感覚。
「ユイ」
「はい」
「穴を」
うなずく。
歌は、出発の形を迷う。
胸の中で、言葉がいくつも立っては座る。
“がんばれ”も“だいじょうぶ”も、壁を硬くする。
だから、選ばない。
呼吸を、一度、二度。
“祈りを洗う”。
肺の内側が水で澄むのを待って、
すりガラスを指でなぞるみたいに、旋律の骨だけを置く。
「♪……」
音にならない音。
息と喉の境目にだけ咲く、小さな花。
熊鈴が、合図のように一度だけ鳴る。
シャリン。
その周りに、言葉のない歌が、薄くゆれる。
“ここにいるよ”。
“ここで待つよ”。
“あなたが自分で戻れるように、風だけ動かすよ”。
藪の奥で、乾いた枝がひとつ折れた。
藤野さんの肩が、わずかに緩む。
壁が湿る音――実際には聞こえないのに、胸の中で確かに鳴る。
わたしは歌を少しだけ細くし、長くする。
穴は、小さいほうが、空気に混ざる。
長いほうが、動線になる。
「……いい」
戻ってきた藤野さんが、低く言う。
掌には、古い輪の残骸。
錆は浅く、手のひらのしわに粉になって移った。
「線に戻った。……ありがとう」
「わたしは、ただ、息をしただけです」
「その息が要るんだ。
“守るための怖さ”は、息を短くする」
奥さんが湯気の立つ紙コップを差し出す。
「ほっとしな。誰の体温でもいいから、混ぜるんだよ」
藤野さんは笑って受け取り、湯気を一口。
「混ぜる、ね」
「そう。壁は、温度が二つ以上混ざると、すぐ線になる」
奥さんのことばは、相変わらず一撃でやわらかい。
暗くなる前に、入口から少し離れた空き地へ移動した。
そこに一本だけ立つ楓の下で、わたしたちは輪にならず、列にもならず、ばらばらに立った。
“近すぎない距離”。
それぞれの呼吸が、風の中で交わり、ほどける。
藤野さんが、ゆっくりと語り始める。
「祐介と最後に山へ入った夜、
オレは、歌を知らなかった。
知っていたのは、掛け声と怒鳴り声だけだ。
“おーい!”“こっちだ!”
どれも、壁を固める言葉だった」
熊鈴が、風で一度だけ鳴る。
シャリン――
「今日のように“弱い音”があれば、
祐介は、自分の足で戻れたのかもしれない。
……かもしれない、だ。
答えはない。
だからオレは、手を洗う」
そのとき、斜面の上で、細い影が動いた。
空の灰を背負った、二つの小さな耳。
息を呑む音が、列のこちら側でひとつ増える。
子ぐま――いや、わからない。
薄闇が生きものの輪郭を混ぜる。
藤野さんがすばやく手を挙げ、「動くな」の合図。
コウタの父が周囲を確認する。
わたしは、歌を止める。
音が強くなるほど、世界は縮む。
いまは、広げる瞬間だ。
影は、茂みのぎりぎりで止まり、匂いだけをこちらへ投げてきた。
湿った土、落ち葉、乳の匂い――
胸の奥が反射で痛む。
手紙の文字が、ひとつ分だけ、にじむ。
(会わない。会わないための準備。)
わたしは熊鈴を、胸の中だけで鳴らすふりをした。
音は出さない。
“鳴らさない”という選択が、音よりも遠くまで届くことがある。
影は、こちらを一瞬だけ見て、ゆっくり消えた。
風がそれを引率する。
壁は、いま、穴を通って、向こう側にほどけていく。
「……行ったな」
藤野さんの声は、祈りの終わりみたいに低い。
コウタが小さく息を吐いた。
「ユイ、歌わなかった」
「うん。今日は“鳴らさない歌”」
「鳴らさない歌?」
「うん。壁が湿るまで、待つ歌」
コウタは首を縦に振り、照れ隠しみたいに帽子のつばをいじった。
「むずかしいな」
「やさしさは、たいてい、むずかしい」
ふたりで笑う。
笑いは、壁の表面張力を壊す。
藤野さんが、掌を見つめる。
錆の粉が、指の腹にうっすら残っていた。
「……祐介に、手紙を書こうと思う」
「届きますか」
「さぁな。宛名のない箱に入れておく。
いつか風が読んでくれれば、それでいい」
わたしはうなずいた。
宛名のない箱――あの小さな白の空洞が、
今夜は確かに“返事の入口”になっていると思えた。
山から降りる道で、藤野さんが言う。
「ユイ。お前の歌は、武器じゃない。
“道具”でもない。
……“道”だ」
「道」
「人と人の間、
人と獣の間、
昔と今の間。
渡れる幅にしてくれる」
胸の熊鈴が、もう一度だけ鳴った。
シャリン。
道の起点に打たれた、小さな杭の音みたいだった。
――
夜。
机の上で、便箋が待っている。
手を洗う。
水の重みが、今日の語りの埃を落としていく。
タオルで拭く前の、濡れた指の冷たさ――
これは、“壁の温度”ではない。
線に戻った水の温度だ。
書く。
祐介さんへ。
わたしはあなたを知りません。
でも、あなたの“壁で転んだ”という言葉は、
今日、わたしの胸に穴をあけました。
穴から風が入り、湿り気が生まれました。
歌は、穴をひとつだけ開けるものだと、
きょう、学びました。
もし、あなたが今夜どこかで眠れるなら、
その眠りの端に、弱い鈴の音が触れますように。
ペン先が止まる。
便箋の上で、熊鈴をひと呼吸ぶんだけ揺らす。
細い音が、文字の間を通り抜ける。
わたしは封をしないまま、宛名のない箱へ持っていくことに決めた。
返事は、風でいい。
風の返事は遅いから、長く効く。
窓の外で、夜の風が一度だけ強くなった。
その強さは、“壁になる前の線”をなぞるだけに留まり、
すぐ、やさしさのほうへ折れた。
――次は、“結”。
壁を道に変える手順を、
手紙と歌と鈴で、具体の形にする番だ。
第4節 線の上を歩く手紙
朝、窓のカーテンの隙間から光が差した。
雲が低く、風はやわらかい。
昨日よりも静かで、昨日よりも呼吸が深い朝。
机の上には、乾いた便箋。
あの夜書いた“祐介さんへの手紙”が、封もされずにそこにあった。
触れると、紙の温度が少し上がる。
わたしは読み返さずに、鞄へそっと入れた。
学校へ向かう道で、すれ違う人たちが少しずつ立ち止まっていた。
掲示板の前に集まる人の輪。
近づくと、そこには新しい張り紙。
「獣害対策会議 町民参加の意見募集」
コウタが駆け寄ってきて、指で丸をつけた。
「な、これ、藤野さんの提案らしい」
「え」
「父さんが言ってた。『線の向こうを知らないまま罠を置くのは、もうやめよう』って」
わたしはポスターを見つめる。
青いマジックで書かれた“意見募集”の文字の端が、
風で少しだけめくれていた。
その動きが、まるで“呼吸してる”みたいだった。
「行こうか」
コウタの声が風に混ざる。
「学校、行く前に。……藤野さん、工房にいるかな」
「行こう」
――
工房の扉は開いていた。
中で藤野さんが、古いワイヤーを一本一本、ほどいていた。
罠を作る手じゃなく、“ほどく手”。
動きが昨日よりゆっくりで、柔らかい。
「来たか」
顔を上げた目が、少し赤い。
「掲示板、見た」
「見たか。……書いたのはオレだ。
町がどうするか、まだ決まってないけど、
“誰が何を怖がってるのか”を、ちゃんと話す場を作りたい」
「藤野さんの手で?」
「ああ。罠を置く手じゃなく、線を描き直す手でな」
藤野さんは、ほどいたワイヤーをまとめ、机の上の箱に入れた。
“罠の残骸”が、“道具の素材”に変わっていく瞬間。
奥から奥さんが顔を出す。
「おはよう、ユイちゃん。昨日の鈴、ちゃんと鳴った?」
「少しだけ」
「それで十分だよ」
笑顔が、光の中で柔らかく滲んだ。
「……ねぇ、藤野さん。わたし、手紙を書いたんです」
「手紙?」
「祐介さんへ」
「……そうか」
「宛名はないけど、箱に入れようと思って」
「持ってきたのか」
わたしは鞄から便箋を取り出した。
「預かってもいいか?」
「はい」
藤野さんは両手で受け取り、
封をしていないその紙を、掌のまんなかに乗せた。
指のしわに紙の繊維が少し絡む。
「……風が通りやすい紙だな」
「はい。壁を湿らせるための紙です」
藤野さんは笑った。
「じゃあ、外に出そう」
――
工房の裏、小さな畑の脇に、錆びたポストのような箱がある。
“宛名のない箱”。
昨日の夜も、そこに白い紙を落とした。
今日は、その横に藤野さんの大きな手が並ぶ。
わたしの紙と、藤野さんの紙。
ふたつが同時に落ちた。
「入った」
藤野さんの声は小さいけれど、
その小ささが、“これでいい”という響きだった。
風が通り抜ける。
箱の隙間から、紙の角がわずかに揺れた。
“風で読む”。
それが、この町の新しい読み方になるのかもしれない。
コウタが言う。
「……さっき父さんが言ってた。
“怖い”をどう言葉にするかを考える会を、
学校でもやるって」
「学校で?」
「うん。生徒会主催。
“どうしてクマが来るのか、
どうして人が山に入るのか”ってテーマで」
「……いいね」
「みんなに、ユイの手紙の話、してもいい?」
「いいけど、名前は出さないで」
「もちろん」
藤野さんが笑って、帽子をかぶった。
「オレも行くよ。
お前らが“風のほう”を見てくれるなら、
オレは“土のほう”を話す」
「土のほう」
「根っこの話だ。
怖さは、だいたい“根っこ”から来る」
――
午後、体育館のステージの上に、
黒いマイクが一本立っていた。
椅子が丸く並べられ、
町の人たちが少しずつ座っていく。
猟師、農家、先生、学生。
テレビ局のカメラも、記録用に小さく入った。
けれど、誰も顔を隠さなかった。
“怖い”を持ち寄ることが、やっと恥ずかしくなくなったのだ。
コウタが前に出て、声を整えた。
「はじめます。
きょうは、“線を道にする日”です」
会場のざわめきが、ひと息で静まる。
風が窓の外を通る。
カーテンが少しだけ膨らむ。
わたしは鈴を胸に下げたまま、ノートを開いた。
書いてきた言葉は多くない。
けれど、その少なさが、いまは支えになる。
「……ユイ」
コウタがマイクを渡してきた。
胸が一瞬だけ跳ねる。
“声を出す”と“歌う”は違う。
けれど、どちらも息の使い方だ。
息は、祈りのかたちをしている。
わたしは、深く吸い、ゆっくり吐いた。
「わたしは、先週、森で子ぐまを見ました。
怖かったけど、逃げませんでした。
その子を助けた藤野さんの手を見て、
“守るための怖さ”があることを知りました。
そして、罠を置く手にも祈りがあることを、
教えてもらいました」
藤野さんがうなずく。
「人もクマも、壁を作る前に線を引く。
線を見失うと、声が届かなくなる。
だから、話すことは、線を確かめることです」
体育館の空気がゆっくり動く。
誰も拍手しない。
拍手のかわりに、沈黙が広がる。
それは、やわらかい沈黙。
“聞く”という動詞の中にある静けさだった。
奥の席で、町の記者が小さくメモを取っていた。
「“線を道にする”会議、住民自発で開催」と書き、
丸をつける。
その丸が、まるで新しい“わっか”に見えた。
――
会議が終わるころ、夕陽が体育館の窓を赤く染めた。
片づけを手伝って外に出ると、
風が一段冷たくなっていた。
ポケットの中の熊鈴を、そっと揺らす。
シャリン。
音は薄く、でも長く残った。
空が、ゆっくりと夜に滲んでいく。
「ユイ」
振り向くと、藤野さんが立っていた。
「これ」
手に持っていたのは、あの“外した罠”の輪。
錆を落とし、細い鎖に通されている。
「首から下げられるようにしてみた。
もう“捕まえる”じゃなく、“つなぐ”輪だ」
「……ありがとうございます」
「いいや、こっちこそ。
お前が穴をあけてくれた」
「穴?」
「壁の真ん中にな。
風が通った。
……祐介も、きっと笑ってる」
風が、二人の間を通り抜けた。
どちらの髪も、同じ方向に揺れる。
風の向きが、いまは一つだ。
「藤野さん」
「ん?」
「これ、また歌ってもいいですか」
「いいとも。
でも、強くは歌うなよ。
壁が乾く」
「うん。弱く、鳴らします」
わたしは、輪を胸にあて、目を閉じた。
熊鈴と金属の輪が、ほんの一瞬だけ共鳴する。
シャリン。
風がその音を拾い、町の方へ運んでいく。
屋根の上、川のほう、森の奥。
全部を結ぶ、細い“道”の音。
――
夜。
机に向かって、最後の手紙を書く。
お母さんへ。
今日、町の人たちが“話すこと”を選びました。
怖さを分け合うことを、話し合いと呼ぶのだと知りました。
わたしは、強く鳴らさない鈴をつけています。
弱い音でも、世界は返事をくれました。
線は、道になりました。
そして道は、まだ続いています。
だから、歌います。
“だいじょうぶ”と言わない歌を。
――ユイ。
風が窓を開ける。
紙の端が、ふわりと浮く。
どこか遠くで熊鈴が鳴った気がした。
たぶん、あの山の、藤野さんの畑のほう。
音は弱いのに、確かだった。
“ここにいる”。
それだけが、世界の祈り。




