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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
森が祈った日

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106/110

森が祈った日 第2話 罠の音

第1節 朝のニュースと、紙の匂い

〔手紙〕

お母さんへ。

昨夜は風がやさしかったです。

歌の残りが、眠っているあいだ中ずっと胸の奥で鳴っていました。

朝になっても、まだ少しだけ響いています。

世界はときどき、わたしの声を聞いてくれるみたい。

でも、世界の声は、わたしにはむずかしいです。

今朝のニュースは、森のことを違う言葉で話していました。

言葉が変わると、出来事の温度も変わるのですね。

今日は、学校に行く前に、もう一通手紙を書いてポケットに入れておきます。

宛名は、空白のままで。


ユイより。


――


目覚ましの音が鳴る前に、わたしは目を開けた。

部屋の空気は夜の匂いを少しだけ残していて、窓辺ではカーテンの裾が浅く呼吸している。

胸の中の“歌の残り”は、まだ消えていない。

消えていないのに、静かだ。

静かなまま、形だけ体の奥に沈んでいる。


居間に降りると、テレビがついていた。

朝のニュース。天気予報と事件の見出しが交互に並び、音楽が明るすぎる。

その明るさの後ろに、昨夜の森の影が薄く映る。


「市内北部の丘陵地帯で、子グマが罠に——」


アナウンサーの声は涼しい。

“事故”という言葉で括られて、映像は地図と黄色いテロップに置き換えられていた。

“住民の安全確保のため”というテロップが足されるたび、わたしの胸の温度が少しずつ変わる。

あの場所の湿った土の匂いも、ワイヤーが鳴ったときの薄い痛みも、画面には映らない。

映らないものは、なかったことになるのだろうか。

なかったことには、できないのに。


パンの香りがトースターからこぼれてくる。

わたしは皿を並べ、コップを置く。

テレビの中では「注意喚起」が繰り返され、言葉は必要以上に丸く、温度は必要以上に冷たい。

昨夜の歌は、どこにもいない。


ポケットの中の便箋を指で触る。

角が体温で柔らかい。

紙に顔を寄せると、鉛筆の芯の匂いがした。

森の土の匂いと、少しだけ似ていた。


「♪ある日、——」


小さく鼻歌を出してみる。

歌は音としてではなく、呼吸として出したほうが長持ちする。

息の中に潜ませると、誰にも気づかれずに胸の内側を温めてくれる。

わたしはその温もりをもう一口だけ飲み込んで、玄関に向かった。


靴ひもを結ぶ。

二回目の「チーン」が鳴る前に家を出る。

朝の空気は昨日より澄んでいたが、目に見えない成分は少し違う。

ニュースの言葉が混ざっている。

“危険”と“安全”。

どちらも大切で、どちらもときどき鈍い。


角を曲がると、魚屋のおばちゃんがシャッターを上げている。

「おはよ、ユイちゃん」

「おはようございます」

「聞いたよ、昨日のこと。……大人たち、よく動いたね」

「わたしは、歌っただけ」

「歌っただけ、って言えるのは立派だよ」

おばちゃんの目がわずかに潤んで見えたのは、朝の光のせいかもしれない。

「新聞、いろいろ書くから、気にしすぎないようにな」

「はい」

「登校路、気をつけて。風の向きが変わったら、引き返すんだよ」

「風の向き?」

「そう。あんたの歌の向きと同じ方向に吹いてるうちは、きっと大丈夫」

よく分からない。

けれど、少し分かった気もした。

わたしはうなずいて、ポストの前に立つ。

投函口の黒が海みたいに深い。

便箋を半分だけ差し込み、やめた。

宛名が空白のままだったから。

空白は、時々、手元に置いておいたほうがいい。


通学路の先、森の方向は光が薄い。

風は弱い。

音は少ない。

歌は、まだ喉の奥で眠っている。


「おーい、ユイ」


振り向くと、コウタが走ってきた。

野球帽のつばを手で押さえ、肩の呼吸を荒くしている。

「昨日の、見たよ。ニュース」

「ニュースは、森の匂いを知らない」

「そうだな。……でも、知らないままで良いこともある」

「どんな」

「怖くなりすぎない」

「怖いままのほうが、優しくできることもある」

「おまえ、ほんとさ……」

呆れたみたいに笑いかけて、コウタは口を閉じた。

「それ、たぶん正しい」


少し歩く。

二人の靴底が、同じ速度で地面に返事する。

その返事の中に、昨夜の細い金属音は混じっていない。

代わりに、脳のどこかで映像が逆再生される。

紙の白、ワイヤーの輪、子ぐまの耳のわずかな動き。

“まだ生きている”の合図。


「獣医さんが診てくれてるって」

コウタが言う。

「誰が言ってたの」

「父さん。猟友会の人から電話来てた」

「そうなんだ」

胸の奥で何かがほどける。

けれど同時に、ほどけたところから別の緊張が滲む。

母ぐまの居場所は、どこだろう。

罠を仕掛けた人の心は、どこにいま、置かれているのだろう。

ニュースは何も言わない。

“安全”の文字は大きいのに、“痛み”の文字は画面の外にある。


学校の門が見える。

正門の掲示板には、地域の注意喚起が貼られていた。

“クマに注意”。

“見かけたら110番”。

“近づかない”。

当たり前の言葉たちが、昨日より硬い。


昇降口で靴を履き替える。

教室に入ると、いつも通りのざわめきがまず耳に入る。

でも、すぐにざわめきはわたしの居場所を空ける。

クラスメイトたちのまなざしが、いつもより一秒長い。

知っている。ニュースを見たのだ。

誰も悪くないのに、空気だけが少し居心地を変える。


「ユイ、昨日のさ……」

一番に話しかけてきたのは、席の前の女の子だった。

「うん」

「怖くなかった?」

「怖かった」

「泣いた?」

「泣かなかった」

「どうして?」

「泣く前に、歌ったから」

女の子は少しだけ笑って、少しだけ戸惑った。

わたしはそれ以上、言葉を足さなかった。

言葉が増えると、真実が薄くなる時がある。


ホームルームで先生が言った。

「昨日の件で、しばらく森の方には近づかないように。いいね」

「はい」

「安全が整うまで、学校も見回りの方を増やします」

黒板のチョークが、白い粉を舞い上げる。

その粉の粒が光をつかまえて、小さな星みたいにきらめいた。

星はすぐ床に落ちた。

踏まれて、混ざって、見えなくなる。

見えなくなっても、ある。


算数の時間、分数の線の上を鉛筆が走る。

線が、ワイヤーの細さと重なる。

手がわずかに止まり、また進む。

呼吸を整える。

歌は、心の中でだけ続いている。


昼休み、コウタがジュースを二本持ってきた。

「オレンジと、アップル」

「オレンジ」

「やっぱり」

わたしはベンチに腰掛ける。

体育館の裏。日陰は少し涼しい。

「なぁ、ユイ」

「うん」

「もしさ、また森に行くって言ったら、俺、止める」

「止めるの?」

「うん。止める。昨日は止めきれなかった」

「止められなかった、じゃなくて?」

「止めきれなかった」

言い直す言葉の選び方が、やさしい。

「……でも、たぶん行く」

「分かってる」

「どうして分かるの」

「おまえが“行かない理由”を持てるのは、たぶんもっと後だから」

「もっと後?」

「うん。今はまだ、“行く理由”のほうが強い」

「ほんとに?」

「たぶん」

コウタは缶を傾け、空を見た。

空は昨日より青い。

青は広くて、すぐに誰かの涙の色に変わる。

わたしはそれを知っているし、たぶん、コウタも知っている。


午後、社会の授業で先生が言った。

「“安全”という言葉は便利ですが、同時に“見えない誰かの痛み”を隠してしまうことがあります」

教室が静かになった。

先生はわたしのほうを見なかった。

それでも、わたしは見られた気がした。

板書の文字が揺れる。

わたしは深呼吸を一つだけして、前を見続けた。


放課後。

昇降口で靴を履き替えて外に出ると、風が頬を撫でた。

その風は、昨日より少しだけ温かい。

ポストに近づいて、朝の便箋を取り出す。

宛名は、まだ空白だ。

鉛筆で、一行だけ足す。


——今日、わたしは、あなたの声を信じます。


足した文字は、震えていない。

わたしは紙を折り、宛名をやっぱり空白のまま、投函口に差し込む。

黒い海の向こうへ、白い舟を押し出すみたいに。

手を離すと、紙がすっと消える。

消えるのは好きじゃない。

でも、届くためには、たぶん必要だ。


「ユイ」


振り向くと、コウタがいた。

「一緒に帰る?」

「うん」

並んで歩く。

今日の足音は、昨日より少し軽い。

軽いのに、地面にちゃんと届く。

二人の間に、言葉が少ないのが、良い。

少ないことが、今日の答えの形に思える。


家の角で別れる。

「また連絡する」

「うん。……ありがとう」

「何が」

「止めてくれて」

「止めてない」

「止めようとしてくれて」

コウタは笑って帽子のつばを上げ、わたしの目を見た。

一秒。

二秒。

それだけで、胸の奥の歌が少し大きくなる。


玄関に入ると、窓辺のカーテンがまた浅く呼吸していた。

机の上に新しい便箋を置き、椅子に座る。

鉛筆を持つ。

書く。


お母さんへ。

今日は、ニュースと、わたしの目と、どちらも信じることにしました。

ニュースは遠くから見る目、わたしは近くで聞く耳です。

どちらも、ほんとうに必要だと思います。

でも、近くの声が消えないうちに、また森へ手紙を置きに行きたい。

歌は、今日はまだ胸の中に置いておきます。

夜になったら、少しだけ出します。


書き終えて、紙の匂いをかぐ。

鉛筆の粉と、午後のひかりが混ざった匂い。

わたしはゆっくり息を吐いた。

胸の中の“歌の残り”が、また少しだけ沈んで、でも消えない。


明日、風が同じ方向に吹くなら、わたしはきっと森に行く。

行かない理由を持てるまで。

その途中で、誰かの声が届くまで。


――


第2節 噂の温度、理屈の温度

一限目が終わるころ、廊下の掲示板に紙が増えた。

白い紙に、太いゴシック体。

“安全のためのお願い”。

“森の方面へは立ち入らないこと”。

“登下校は複数人で”。

いつもより濃いインクで、言葉が紙の上に座っている。

座り心地が良すぎて、言葉がそこから動かない。


チャイムが鳴り、国語の先生が入ってくる。

先生は黒板に“比喩”と大きく書いて、振り返った。

「たとえは、真実を柔らかくする道具です」

そう言って笑ったあと、先生は廊下の掲示をちらりと見た。

「……たとえじゃなく、本当に柔らかくしてほしい言葉もあるけどね」

クラスの笑いが、板書の白に反射して広がった。

わたしは笑わなかった。

笑わなかったという事実が、笑うより目立つことを、身体が知っている。


プリントが配られ、机の上に白が重なる。

鉛筆の先で文字を追いながら、心の別の場所で昨夜の音をなぞる。

キィン——。

音はもう聞こえないのに、文字の線があの細さに似ている。

真っすぐで、冷たく、触れると簡単に切れそうな線。


二時間目が終わると、保健室の先生が教室に顔を出した。

「休み時間に、自治会の安全講話があるから、体育館に移動して」

ざわめきが立ち上がる。

席の斜め後ろから、低い声が落ちてきた。

「またかよ」

「仕方ないって」

「でもマジで怖えぞ」

“怖い”という言葉は、便利だ。

使えば使うほど、形だけが大きくなる。

中に入っている温度は、だんだん分からなくなる。


体育館の床はワックスで少し滑った。

折り畳み椅子が並び、前にはスクリーン。

自治会の腕章を付けた大人がマイクを持ち、話し始める。

「ええ、先日の件をうけまして——」

声はよく通る。

通りすぎる。

わたしの耳の手前で、少しだけ跳ねて、すぐ遠くにいく。

スクリーンには市役所の地図と、赤い斜線。

“注意区域”。

その赤は、あの場所の土の色と似ていない。

似ていないのに、決める。

「この範囲には入らないように。万一見かけた場合は——」

言葉が規則の箱にきれいに収まり、箱ごと運ばれていく。

箱の外に落ちる音は、誰にも拾われない。


途中で、猟友会の人が呼ばれて前に立った。

キャップのつばを軽く持ち上げ、会釈する。

「……ええ、罠はね、ほんとは人と獣の動線が重ならない場所に仕掛けるんです」

声は低く、ゆっくりしていた。

「でも、山が痩せると、彼らも下りてくる。人も上がる。そうすると、線がどこかで交わる」

交わる、という言葉で、わたしの背中がうすく寒くなる。

「交わりを避けるのが一番です。今日ここで言いたいのは、それだけ」

シンプルな言葉の方が、胸に残る。

“避ける”。

歌は避けない。

歌は、交わりに行く。

それでも、避けることが正しい瞬間がある。

瞬間ごとに、正しさは形を変える。

その形に合わせて息をするのが、大人なのかもしれない。


説明が終わり、質問の時間。

誰も手を挙げない。

静けさが体育館の梁に薄く張りつく。

先生が困ったように笑って、

「はい、では以上で——」と言いかけたとき、

前の方で、小さな手が上がった。

一年生の女の子だ。

「うちの、おじいちゃん、山で仕事してます。罠、こわいです。……でも、クマさん、もっとこわいの?」

空気が止まり、視線が女の子に集まる。

自治会の人は答えに迷って、猟友会の人を見る。

「……怖い、はね、矢印が決める言葉です」

猟友会の人が言った。

「自分から相手に向かう矢印と、相手から自分に向かう矢印。どっちもある。どっちも本当」

体育館の高い窓から、薄い光が落ちた。

「だからね、怖いまま帰るんじゃなくて、どうやって“会わないか”を覚えて帰ってほしい。それが今日の話」

拍手が小さく起き、すぐ止んだ。

“会わない”。

ユイの歌は、“会ってしまったあと”のためのものだ。

会わないための準備と、会ってしまったあとの呼吸。

両方を持つことを、わたしの身体はまだ上手にできない。


講話が終わると、体育館の出口で紙が配られた。

“安全のしおり”。

イラストで、クマの見分け方、遭遇時の行動、通報先。

最後のページに小さく書いてある。

“あなたの安全が最優先です”。

文字は正しい。

正しさは時々、冷たい。

冷たさが、必要なときもある。


教室に戻る途中、階段の踊り場が少し詰まった。

噂が、手すりのあたりで渦になっている。

「見た?ニュースのやつ」

「写真ぼかしてあったけど、場所わかったかも」

「やば。近すぎ」

「てかユイ、いたんだって」

「マジ?」「勇者?」「いや無謀」

言葉の矢印が、何本かこちらを向く。

矢印の角度が、それぞれ違う。

丸みのある矢印は、少しだけやさしい。

尖った矢印は、当たらないふりをして通りすぎる。


廊下の端で、コウタが肘で壁をつついた。

わたしの目と合う。

何も言わない。

言わないことで、同じ側に立てることがある。

わたしは小さくうなずいた。

うなずきは、言葉より早く届く。


昼休み、図書室。

窓際の席は、午後の光で温かい。

“野生動物と共生”という本をめくる。

ページの紙が乾いていて、指の腹が軽く引っかかる。

そこに書いてあるのは、正しい言葉たち。

“生息域の縮小”“食害”“個体数管理”“学習性”。

言葉は網だ。

網の目が細かいほど、拾えるものが増える。

でも、こぼれるものもある。

「……ユイ」

コウタが向かいに座って、小声で言う。

「先生、さっき、職員室でさ」

彼は言葉を選ぶみたいに息を整えてから、続けた。

「『ユイさんには、スクールカウンセラー紹介しようか』って」

わたしは顔を上げた。

本の紙の白さが、一瞬だけ遠くなる。

「わたし、壊れてるように見える?」

「見えない。……けど、きっと学校の“手続き”なんだと思う」

手続き。

世界が、ものごとを安全に動かすための道筋。

道筋は必要だ。

必要だけれど、そこを通るたびに、どこか少しずつ削れる。

角が丸くなって、痛みが分かりにくくなる。

それが安心の形であることも、知っている。


「話すだけ、話してみたら?」

「話すこと、あるかな」

「あると思う。……歌のこと、とか」

「歌のこと?」

「うん。歌って“やばい時のスイッチ”なのか、“普段からの準備”なのか、とか」

わたしは少し笑った。

「どっちでもあると思う」

「だよな」

コウタも笑った。

図書室の空気は薄く甘く、紙の匂いと光の匂いが混じっていた。

たぶん“安全”という言葉の、本来の匂いも、ここに近い。


午後の授業の合間に、クラスの男子が近づいてきた。

「ユイ、ニュース出てたやつ、あれってあそこの沢の近く?」

「わかんない」

「だよな。でも、もしそうなら、前から罠あったっぽいよな」

「どうして?」

「父ちゃんが言ってた。畑荒らされてたって」

言いながら、彼はペン回しをして、すぐ落とした。

「悪いのどっちなんだろな」

「どっちも、悪くないと思う」

「じゃ、誰が悪いの」

言葉は、すぐに誰かの肩に乗りたがる。

肩は、重くなる。

「『悪い』って、必要?」

「必要じゃないの?」

「分けると、安心するから」

「安心、いるだろ」

「いる。でも、安心のために誰かが無名になるのは、嫌だな」

男子は首をひねって、

「ユイって、面倒だな」と笑った。

面倒、は少し褒め言葉に聞こえた。

面倒の中に、やさしさの種が混じることがある。


放課後、カウンセリング室に呼ばれた。

先生に連れられて、廊下の突き当たり。

ドアには小さな札。“相談室”。

中は想像より明るく、窓際に観葉植物が並んでいる。

応接の椅子は柔らかくて、座るとすこし沈む。

スクールカウンセラーの女性が、静かな目で笑った。

「ユイさんだね。座って。……昨日のこと、少し聞いてもいい?」

「はい」

「怖かった?」

「怖かったです」

「泣いた?」

「泣きませんでした」

「どうしてかな」

「歌ったから」

女性は少し驚いてから、うなずいた。

「歌は、あなたの中でどんな役割?」

「輪郭です」

「輪郭?」

「はい。わたしの輪郭が薄くなると、世界の輪郭も薄くなるから。歌うと、両方の輪郭が、少しはっきりします」

「……とてもいいね」

女性はメモを取らなかった。

代わりに、鉛筆を机の上に置いて、両手でカップを包むみたいに指を組んだ。

「あなたは、“怖い”の扱い方を知ってる」

「知ってるふりかもしれません」

「ふりから始まることもある」

沈黙。

沈黙は、追い詰めることもあるけど、救うときもある。

この沈黙は後者に似ていた。

「ねえ、“助けたい”って気持ちは、あなたのどこから来ると思う?」

「……届かなかった手紙が、いっぱいあるから」

わたしは自分で言って、自分で驚いた。

女性は微笑んだ。

「じゃあ、ここに“返事が来る場所”を、ひとつ作っておこう」

「返事?」

「あなたが書きたいときにだけ書く、宛名のない箱。読まれることもあるし、読まれないこともある。でも、置ける」

女性は引き出しから小さな箱を出して、机の隅に置いた。

白くて、ポストより小さい。

「ここに来たい時だけ来てね。あなたのタイミングで」

わたしはうなずいた。

箱の白は、森の中で失くした紙の白を少し思い出させた。

白は、返事の前の色だ。


相談室を出ると、廊下にコウタがいた。

壁に背中を預け、天井の蛍光灯を見ている。

「待ってたの?」

「……いや、たまたま通りかかった」

「たまたまね」

「どうだった」

「箱、もらった」

「箱?」

「返事が来る場所の、仮の代わり」

「わかったような、わかんないような」

「わたしも」

二人で笑う。

笑い声が、小さく、廊下に浮いた。


昇降口に向かう途中、掲示板の前で足が止まる。

“安全のためのお願い”は、さっきと同じ位置にある。

文字は動かない。

でも、わたしの中の“怖い”の位置が、少し動いた。

昨日まで前にあったそれが、半歩だけ横へずれる。

横にずれた“怖い”は、景色の端で一緒に歩ける。

正面でにらみ合うより、ずっと呼吸がしやすい。


外に出ると、風が一段強くなった。

髪が頬に当たり、制服の裾が泳ぐ。

校門の陰に、猟友会の人の車が一台止まっている。

運転席の窓が少しだけ開いて、タバコの匂いが薄く流れた。

目が合う。

会釈。

向こうも、軽く会釈。

それだけで、矢印の角度が丸くなる。

“敵”と“味方”のどちらにも置かれない場所が、世の中には少しだけある。

その少しの場所のために、歌はある。

手紙も、ある。


コウタがポケットから小さなメモ帳を出した。

破った紙を、わたしに差し出す。

「何これ」

「俺の“箱”の代わり。……帰り、一緒に“見回り”する? 森の手前だけ」

「見回り?」

「安全のしおりに“複数人で動く”って書いてあっただろ。守りながら、ユイの歌の“向き”だけ確認する」

彼の言い方は、へたくそで、やさしかった。

「いいの?」

「うん。止めるけど、隣にいる」

「矛盾」

「両方やる」

わたしは笑って、紙を受け取った。

紙の端が、体温で少し柔らかくなる。

“箱”はひとつじゃなくていい。

宛名のない場所が、いくつあってもいい。

世界がそこに返事を書けるように。


門を出る。

風の向きは、今日も、わたしの歌の向きと同じだった。

まだ歌わない。

歌わないまま、呼吸を合わせる。

呼吸は歌の骨だ。

骨があれば、いつでも肉がつく。

いつでも、声になれる。


夕方の光が町に落ちる。

電柱の影が長くなり、郵便局の赤いポストが沈むような色になる。

ポストの口は海の色。

朝、投函した紙は、どの海へ出たのだろう。

もしかしたら、まだ岸にいるかもしれない。

岸にいる時間も、航海の一部だ。

出ないときは、出ない。

出るときは、出る。

その判断を、世界と半分こできたらいい。


角を曲がると、風の匂いが変わった。

森のほうから、湿った葉の匂いがほんの少しだけ。

コウタが横目でわたしを見る。

わたしはうなずく。

「手前まで」

「手前まで」

約束。

約束は、縛るためじゃなく、迷子になったときの目印にするためにある。

目印があると、戻れる。

戻れると、少しだけ遠くまで行ける。


ふたりの足音が、同じ速度で、同じ方向に落ちていく。

“会わないための準備”を胸に、“会ってしまったあとの呼吸”を喉の奥に置いたまま、夕方の道を歩いた。


第3節 風の向きと、音の居場所

夕方の光は、町の屋根の上でゆっくり色を変えていた。

オレンジと灰のあいだ。

遠くの空では、鳥が三羽だけ隊列をくずしながら飛んでいく。

そのすきまに、細い風が通る。

わたしたちは、昨日と同じ道を歩いていた。

“手前まで”の約束を胸に入れたまま。


「なぁ、ほんとに見るだけだからな」

「うん」

「歌わない」

「歌わない」

「走らない」

「走らない」

「でも、もし——」

「歌う」

「おい」

コウタは苦笑して、帽子のつばを指で弾いた。

その音が、夕方の空気に小さく跳ねた。

笑いが出ると、足どりが軽くなる。

笑いは、世界の中でいちばん安全な音かもしれない。


住宅街を抜けると、坂道の先に森の影が見えた。

風の温度が変わる。

午後の匂いから、湿った葉の匂いへ。

昨日よりも少し遠くに感じるのは、警戒線が増えたせいだろう。

木の柵に黄色いテープ。

“立入禁止”。

黒い文字が風に揺れて、少し疲れた旗のように見えた。


「ここまで、だな」

コウタが立ち止まる。

わたしもうなずいた。

風の流れが膝のあたりを撫でる。

空気の密度が変わるたび、世界の重心がずれるような気がする。

地面の砂が、サラサラと靴底に絡む。

音が、戻ってきていた。

昨日まで聞こえなかった“細い音”が、少しずつ蘇っている。

鳥の声、枝の軋み、遠くの川のせせらぎ。

生きている音。


「……静かだな」

「昨日より、優しい静けさ」

「優しい静けさ?」

「うん。耳の奥が痛くならない」

「……そっか」

コウタはしばらく地面を見つめていた。

そのまつ毛の影が長く伸びて、草の影と混ざった。

「なぁ、ユイ。さ、昨日の子ぐま、助かったらどうなると思う?」

「森に帰る」

「また来るかも」

「来てもいい。もう罠がない森なら」

「でも、人はまた置くかもしれない」

「……たぶんね」

「じゃ、終わりがないじゃん」

「うん。終わりがないのは、悪いことじゃないよ」

「どうして」

「終わらないって、まだ続いてるってことだから」

わたしは風のほうを見た。

森の影の奥で、葉が揺れる。

それは、昨日の音の続きみたいに見えた。


しばらく立っていたら、向こうの道から猟友会の車が一台やってきた。

銀色の軽トラック。

運転席の窓が開いて、昼間学校の前にいた男が顔を出す。

「おう、君たち、危ないぞ。ここから先は立ち入り禁止」

「見回りです」

コウタが言った。

男は眉を上げて笑った。

「ずいぶん真面目な見回りだな。学校の子か?」

「はい」

「昨日の……ユイちゃん、だな?」

名前を呼ばれて、体が少しだけ硬くなる。

「はい」

「昨日はありがとうな。あの子ぐま、助かったよ」

「ほんとに?」

「うん。足はちょっと切れてたけど、命に別状なし。母ぐまも近くで見張ってたらしい」

胸の奥が、ゆっくり温かくなる。

風の向きが、少し変わった。

「それ、ニュースには出ないの?」

「出しても、見ない人が多いんだ」

「どうして?」

「怖い話のほうが、みんな知りたがるからな」

男は軽く笑って、手を挙げた。

「暗くなる前に帰れよ」

車が坂を下り、音だけが残った。

その音も、すぐ風に溶けた。


「助かったんだな」

コウタの声が、どこか遠くから聞こえるように感じた。

「うん」

「良かったな」

「うん」

短い会話の中に、世界の重さがひとつ分だけ減る。

でも、別の重さが静かに増える。

救われた命の重みと、まだ名前を知らない痛みの重さ。

それは、見えないまま、わたしの中で交差していた。


そのとき。

キィン——。

耳の奥で、かすかに音が鳴った。

昨日の音より、ずっと遠い。

でも、確かに“同じ高さ”。

わたしの呼吸が止まる。

コウタが顔を上げる。

「……聞こえた?」

「うん」

「また罠か?」

「違う。たぶん……風が何かを運んだだけ」

「風が?」

「うん。音は、風の中で迷子になることがあるんだよ」

「迷子?」

「でも、迷ってるあいだに、たくさんの耳を通る。だから、痛みが少しずつ分かち合われる」

「……分かち合えるのか、痛みって」

「歌と同じ。届かなくても、触れるくらいには」


風の流れが一瞬変わる。

足もとに落ちた木の実が、ころりと転がった。

転がった先で、草の影が少し動く。

わたしは一歩だけ前に出た。

コウタの手が、わたしの袖をつかむ。

「待て」

「大丈夫」

「約束」

「手前まで、でしょ。いま、まだ“手前”」

わたしは膝を折って、地面の影を見た。

そこにあったのは、昨日の紙の一片。

白い繊維が、雨に濡れて土に混ざり、もう半分以上溶けていた。

だけど、文字のかけらが残っている。

“いま、ここに、います。”

昨日、自分で書いた文字。

土の色と混ざって、かすかに浮き上がっていた。


「ユイ、それ——」

「わたしの手紙」

「残ってたんだ」

「うん。……返事、かな」

「返事?」

「うん。ほら」

紙の上を、風が撫でていった。

湿った表面が、光を一瞬だけ反射する。

その輝きは、まるで“はい”と答える仕草みたいだった。


胸の奥があたたかくなる。

昨日と同じように、喉が勝手に震える。

歌いたい衝動がくる。

でも、今日は歌わない。

歌わない代わりに、風に合わせて息を吐く。

呼吸だけの歌。

歌の骨だけが、静かに空気を震わせる。


「ユイ」

「ん」

「こわくないのか」

「こわい。でも、世界の音を信じたい」

「世界の音?」

「うん。ひとが作る言葉より、少し不器用で、でも正直な音」

「……わかるような、わかんないような」

「わたしも」

二人で笑う。

その笑いの中に、小さな風の音が混じった。


日が沈む。

森の影が深くなり、柵の黄色が灰に変わっていく。

遠くで、カラスが鳴く。

低い鳴き声が、空のどこかでほどけた。

コウタがポケットから何かを取り出した。

白い紙。昼間わたしに渡した、あの小さなメモの残り。

「これ、返す」

「なんで?」

「見回り終了の証拠」

「早い」

「暗くなる前に帰るって、俺の家のルールだ」

「じゃあ、わたしのルールは、“風が止むまで”。」

「またそれか」

「うん。またそれ」

コウタは肩をすくめ、笑いながら紙をわたしに押し戻した。

「じゃ、風が止むまで、しゃべるか」

「うん」

ふたりの声が、薄く重なって消える。

言葉の輪郭が、風の中で溶けていく。

溶けてもいい。

溶けることで、世界に混ざれる。

混ざれることは、たぶん生きることの一部だ。


風が、最後にもう一度吹いた。

森のほうから。

その音は、昨日の金属音とは違った。

柔らかい。

“罠の音”ではなく、“解ける音”。

痛みがゆるむ音だった。


――


帰り道、坂を降りる途中でコウタが言った。

「なぁ、あの子ぐま、また森に帰るって聞いたらどう思う?」

「良かったって思う」

「また罠にかかったら?」

「そのときも、歌うと思う」

「……おまえ、ほんとブレねぇな」

「ブレてるよ。風の向きで、いつも少しずつ」

「それ、ブレとは言わない」

「じゃあ、呼吸」

「うん。それなら分かる」

ふたりの影が並ぶ。

影は、風の向きと一緒に伸びたり縮んだりする。

形を変えるたびに、昨日と違う世界が生まれる。

その世界は、たぶん毎日どこかで歌っている。

わたしたちがまだ知らない旋律で。


第4節 夜の手紙、風の余韻

夕方の光が沈みきる前に、家に着いた。

玄関の鍵を回す音が、思ったよりやわらかい。

そのやわらかさに、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。


廊下を抜けて、自室の窓を開ける。

夜になる直前の風。

匂いは薄いけれど、土の粒が舌の奥に触れる感じがする。

昨日も今日も、この風はわたしの中の歌の骨を支えてくれた。

骨だけでも立っていられる夜がある。

肉付けは、眠りに任せればいい。


机の上に便箋を置く。

鉛筆を握り、紙の端を指でなぞる。

白の温度が整うのを待ってから、書く。


お母さんへ。

きょう、風はわたしの言葉の向きを覚えていてくれました。

朝はニュースの声が大きくて、胸の中の歌が小さくなったけれど、

夕方、森の手前で“解ける音”を聞きました。

罠の音じゃない、やわらぐ音。

あの子は、生きます。

まだ痛いけれど、生きるほうを選びました。

わたしも、です。


ペン先が止まる。

“わたしも、です”の余白が長い。

余白は、怖さの置き場所にもなる。

でも今夜は、やさしさの置き場所にしたい。


窓の外から、カラスが一声だけ。

遅い便りの印みたいな声。

わたしは便箋の下段に、もう一文足す。


世界の声を、今夜も信じてみます。


紙を乾かすあいだ、ベッドに腰掛ける。

ポケットから、昼間コウタに返された小さな白紙を取り出す。

彼の“箱”の代わり。

半分に折り、さらに半分に折る。

四角はしだいに指の腹に馴染んで、体温で丸くなる。

丸くなった角を頬に当てると、紙が呼吸するみたいに微かに膨らんだ。


そうだ。

今日、相談室でもらった“宛名のない箱”。

そこへ一度だけ何かを置きに行こう。

返事が来る・来ないは問題じゃない。

箱がここにある、という事実が、今夜のわたしには必要だ。


――


夜の校舎は、想像より明るかった。

外灯の白と、廊下の非常灯の緑。

相談室の戸は閉まっていたが、扉の脇に小さな棚があって、白い箱が静かに座っている。

「こんばんは」

誰にも聞こえないほどの声で挨拶して、わたしはポケットから折りたたみの紙を出した。

文字は書かない。

“箱は宛名を知らない”ほうがいい夜もある。


箱の口へ紙を落とす。

紙は軽い音も立てずに沈み、

代わりにわたしの肩の線が、ほんの少しだけ下がった。

重さは消えない。

ただ、持ち方が変わる。

それだけで呼吸ができる夜がある。


廊下を戻る途中、階段の踊り場で足が止まる。

掲示板の「安全のためのお願い」は昼と同じ場所にあるのに、

夜の文字は昼より薄く見えた。

薄いのに、よく届く。

光の粒が少ないほど、文字の輪郭がはっきりする。

“会わないこと”。

“複数で動くこと”。

“通報すること”。

どれも正しい。

その正しさと一緒に、わたしは“会ってしまったときの呼吸”を胸にしまう。

両方を持って、帰る。


校門を出ると、風の匂いがわずかに変わった。

木の樹液の甘さに、鉄の薄い匂いが混ざる。

嗅ぎ分けられるほど濃くはない。

でも、思い出すには十分だった。


坂を降りて角を曲がると、郵便局の前のポストが夜の色をしていた。

朝、出した手紙は、もうどこかの巡回箱の中を揺られているだろう。

宛名は空白。

空白のままでも、運ばれていく。

世界はときどき、空白に宛名を足してくれる。

わたしたちより、うまく。


「……やぁ」


声に振り向くと、ポストの陰からコウタが出てきた。

帽子はかぶっていない。

夜の髪は、昼よりもやわらかく見える。

「どうしたの」

「回覧板、届けた帰り。……ユイこそ」

「箱、に行ってた」

「例の」

「うん」

「入れたの?」

「うん。白紙」

「白紙?」

「宛名のない夜には、宛名のない紙が似合う」

コウタは、少しだけ笑って頷いた。

「たしかに。……なぁ」

「なに」

「ニュース、追加で出てた。昼にはなかったやつ」

「どんな」

「『安全確保のため、周辺で罠の撤去を拡大』だって」

「撤去」

胸の奥が、短く跳ねてから、静かになった。

「拡大ってことは、今までより多かったの?」

「みたい」

ふたりの間の空気が、少し重くなる。

重いのに、逃げなかった。

重さは、受け取る練習をしないと、いつまでも怖いから。


「……ねぇ、コウタ」

「うん」

「罠を置く人の気持ち、すこしでいいから知りたい」

「父さんの友達、今度、話してくれないかな」

「聞いてみる。すぐにはムリでも、いつかは」

「うん」

コウタは真面目な顔をして、それから照れたみたいに目を逸らした。

「ユイってさ、やっぱ変だよ」

「何回目」

「でも、変なの、やっぱ好き」

「……知ってる」

わたしの言葉は、風の中でいったん浮かび、

彼の笑いと一緒に、ポストの赤へ吸い込まれていった。


「送ってく」

「うん」


並んで歩く。

夜の道路は、昼よりも細い。

世界が静かだと、ふたり分の歩幅も静かになる。

靴底の音が、同じリズムで、同じ速度で地面に落ちる。

話さなくても、いくつかのことが伝わる。

沈黙が、追い詰めない側にいる夜は、いい夜だ。


家の前で立ち止まる。

「じゃ、また」

「また」

帰ろうとして、コウタがふと振り返った。

「なぁ、ユイ」

「うん」

「今日の“解ける音”、俺にも聞こえた気がする」

「ほんと?」

「うん。気のせいかもしれないけど」

「気のせいでも、わたしたちのほうが嬉しい」

「だな」

コウタの足音が遠ざかる。

風が、ひと呼吸ぶんだけ遅れて、わたしの頬を撫でた。


――


お風呂の湯気が上がるあいだに、机へ戻る。

便箋は乾き、文字の黒は落ち着いた。

封筒に入れて、宛名の欄を空白のまま、ポケットにしまう。

明日の朝、投函する。

世界へ渡す手紙は、夜に書いて、朝に出すのがいちばんいい。

夜の匂いが少し混ざった文字は、朝の風でちょうどよく薄まるから。


ベッドに横になる。

天井の白が、暗闇に慣れた目に柔らかい。

耳の奥に、昨日の“罠の音”と、今日の“解ける音”を並べて置く。

ふたつの音は、別々の方向から来て、胸の中で少し重なる。

重なったところが、温かくなる。

音にも体温があるって、初めて思った。


眠りに落ちる寸前、遠くで車のエンジンが鳴った。

すぐに、止む。

その“止む”のやさしさに包まれて、目を閉じた。


――


朝。

窓を開けると、空はうっすらと青い牛乳の色。

カーテンが浅く呼吸して、鼻歌が勝手にのどの奥にできる。

「♪ある日、——」

言いかけて、やめた。

今日は、歌じゃなくて、手紙から始める日だと思った。


パンの香り。

二回目の“チーン”の前に靴ひもを結ぶ。

玄関の戸を開けると、風が軽い。

ポストへ向かう角で、魚屋のおばちゃんがシャッターを上げていた。

「おはよ、ユイちゃん」

「おはようございます」

「新聞、読んだよ。撤去、進むってね」

「はい」

「全部は無理でも、少しは変わる。少し変わると、人はやさしくなれる」

「少しで、いいんですね」

「少しが重なると、だいぶ、になるんだよ」

おばちゃんはウインクして、朝の氷をケースへ運んだ。


投函口の黒い海へ封筒を押し出す。

紙は小さく消えて、代わりに胸の中で何かがうすく灯った。

灯りは小さい。

でも、呼吸と同じくらい確かだ。


通学路の先、森の入口の黄色いテープはまだ揺れている。

風の向きは、今日も、わたしの声の向きと同じ。

歌いたくなる。

でも、今日は、歌わない。

歌わないで歩く日も、歌の一部。


交差点で信号が変わり、横断歩道の白が朝の光で眩しい。

渡り切ったところで、軽トラが一台、静かに通り過ぎた。

運転席の男の横顔は見えなかったが、助手席には工具箱。

赤いペンキで小さく名前が書いてある。

「藤野」。

父の友だちの名字。

コウタの言っていた人、かもしれない。

トラックは何も言わず、町の角を曲がって消えた。

消えたあとに、金属の薄い匂いが一瞬だけ残る。

怖くはない。

ただ、次の物語への宛先の匂いがした。


――


学校の正門で、コウタが手を振った。

「おはよ」

「おはよう」

「放課後、父さんに聞けた。週末、藤野さんに会えるかも」

「……ありがとう」

胸の中で、音がひとつだけ高くなった。

“罠を置く側の言葉”。

その言葉を、わたしの耳で一度受けたい。

“悪い/良い”の矢印じゃなく、

“生き延びさせたい/守りたい”の向きとして。

矢印は向きを持つ。

向きが交わるところに、悲しみも優しさも生まれる。

わたしは、そこへ歌と手紙を持って行く。


チャイムが鳴る。

朝の教室に人の声が満ちる。

騒がしいのに、ひとり分の静けさが確保されている。

わたしの席へ歩きながら、胸の中でだけ、小さく言った。


「世界、聞こえる?」


返事は、風でよかった。

窓の隙間から薄い空気が入り、ノートの端を一度だけめくった。

その仕草が、十分な返事になった。


——次は、罠を置いた手の話を、聞きに行く。

それが、わたしの“会ってしまったあとの呼吸”の続き。

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