森が祈った日 第1話『歌う朝』
第1節 ミルク色の空の手紙
〔手紙〕
お母さんへ。
今朝の空は、ミルクをこぼしたみたいな白でした。
匂いがないのに、胸の奥まで甘い。
こういう日は、たぶん世界がやさしいです。
でも、まだ少し怖いです。
だから、今日は歌を持って行きます。
声を出していないと、わたしの輪郭が消えそうで。
お母さんが笑ってくれたときの声の形を、少しだけ思い出しながら、歩きます。
ユイより。
――
ラジオ体操の音が、いつもより半拍遅れて聞こえた。
町全体がゆっくり息をしているようで、
わたしはその呼吸の間に自分を差し込む。
パンの香りが台所からこぼれてくる。
焼き上がりの音「チーン」は、まだ一回目。
二回目の“チーン”の前に靴ひもを結ぶのが、わたしの朝のルールだ。
鏡の前で髪を整える。
学校の決まりで肩より下は結ぶことになっているけれど、
今日は少しだけほどけたままにした。
なんとなく、風を通したくて。
制服の襟を直して、ポケットに便箋を入れる。
角が、体温でやわらかくなっている。
この“やわらかさ”が、たぶん生きている証拠だと思う。
「行ってきます」
玄関の扉を開けると、光が白くて少し冷たい。
鳥の声は、遠くにある。
鼻歌を一口だけ出す。
「♪ある日、森のなか——」
空気がわずかに震える。
声は小さいけれど、空の端がかすかに揺れた。
歌はおまじない。
怖くないようにするためじゃなく、
“まだ世界の中にいる”と確かめるためのもの。
――
道を歩くと、町の朝が少しずつ形になる。
パン屋の前を通り過ぎると、バターの匂い。
魚屋のシャッターがガラガラと上がる。
金属の音が、目を覚ますみたいに響く。
その音が、今日の空気の最初の「温度」になる。
「おはよ、ユイちゃん」
「おはようございます」
魚屋のおばちゃんは、相変わらず早起きだ。
「また歌ってるのね」
「はい。今日は“森のくまさん”です」
「へぇ。いい歌だね。でも森の中には気をつけな」
「はい」
「覚えやすい歌は、逃げやすい歌でもあるから」
「……逃げません」
口に出した瞬間、自分で驚いた。
おばちゃんが笑って、「偉いね」と言ってくれる。
その笑顔が、なんだか少し切ない。
“逃げない”って言葉を、
本当は自分に言ったんだと気づく。
ポストの前を通りかかる。
投函口の黒が、海みたいに見える。
紙を入れたら、たぶん戻れない。
今日はやめておこう。
空白の宛名のまま、ポケットの中であたためておく。
通学路の端、フェンスの向こうに小さな森がある。
毎日見ているのに、毎日違う表情をしている。
昨日は緑が深くて息苦しかったのに、今日は透きとおって見えた。
風が通るたびに、葉の影が地面を泳ぐ。
その影のひとつひとつが、まるで誰かの手紙の文字みたいだった。
わたしは、胸の奥で小さく呟く。
「今日も、聞こえますように」
――
角を曲がったところで、足音。
聞き慣れた声が後ろから近づく。
「おーい、ユイ」
振り向くと、同じクラスのコウタがいた。
野球帽を少し斜めにかぶって、肩に虫取り網を乗せている。
「また歌ってたろ。遠くから聞こえた」
「……聞こえてた?」
「うん。最初の“森のなか”のとこでわかった」
「ちょっと恥ずかしいな」
「別に。変じゃない。おまえの声、遠くまで届くし」
その言葉に、胸のどこかがちょっと跳ねた。
空気が一瞬だけ甘くなる。
けれど、口には出さない。
「ねぇ、今日の空、白くない?」
「白いけど。冬でもないのに」
「空が眠いんだと思う」
「何それ」
「寝ぼけてる空に歌をかけて起こすの」
コウタは笑った。
「詩人かよ」
「詩人じゃないよ」
「でも、そういうの、好き」
コウタの笑い方は、いつも一拍遅い。
その遅れが、なぜか落ち着く。
ポケットの中の便箋が、体温であたたまっていく。
宛名は空白。
けれど、もし今この瞬間、誰かに宛てるなら、
たぶん——この人、なんだろう。
「今日は、どこまで行くの?」
「森の入り口まで」
「危ないって言われてるだろ」
「知ってる。でも、歌うだけだから」
「歌でどうにかなるの?」
「どうにもならないけど、聞いてもらえるかもしれない」
「誰に?」
「まだ分かんない」
コウタは目を細めて、
「ユイって、たまに宇宙語しゃべるよな」
と呟いて笑った。
その笑い方が、やっぱり好きだと思った。
けれど、好きという単語を、わたしは知らないふりをした。
風が少し強くなる。
制服の裾が揺れ、木々の影が長く伸びる。
森の方角から、かすかな金属音がした。
キィン——。
二人とも、同時に振り向く。
音は、朝の空気を細く裂くようにして消えた。
コウタが眉を寄せる。
「何だ?」
「……分かんない」
「風かな」
「風は鳴かないよ」
「……だよな」
二人の間に、沈黙が落ちた。
それは怖さじゃなく、何かが始まる前の静けさだった。
――
森の入り口までは、あと数分。
だけど、世界の速度が少し遅くなった気がした。
音が遠く、光が白く、息が少し重い。
心臓の鼓動だけが、確かなリズムを刻んでいる。
その鼓動が、わたしを押していた。
わたしは歩き出す。
歌を持って。
まだ名前のない何かを探すために。
第2節 森の入り口で揺れるもの
〔森の入り口〕
森の手前に立つと、空気が少し違っていた。
匂いが変わる。土の匂いと、まだ名のない何かの匂い。
風が触れるたび、肌がざらりと逆立つ。
まるで、目に見えない指先でなぞられているようだった。
「なぁ、やっぱり戻らね?」
コウタの声は少し硬かった。
わたしは首を振る。
「大丈夫。少しだけだから」
「少しでも、危ないもんは危ないだろ」
「危ないって、どういうの?」
「……先生が言ってた。罠とか、動物とか」
「動物って、人間より正直だよ」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」
コウタは言葉を探すように眉を寄せた。
「おまえ、そうやって変な理屈こねるから……」
「変なのは、どっちかな」
「……はいはい。負けました」
わたしは笑った。コウタも笑った。
その笑いが、森の空気に溶けていく。
でも、風の向こうにはもう、誰も笑っていなかった。
――
森の入り口には、看板がある。
「これより先、立入禁止」
いつもの板が、今日だけ重く見えた。
釘の頭に朝の光が刺さって、
細い線のような影を作っていた。
「行かないでおこうか」
コウタの声が、ほんの少し弱くなった。
わたしは、看板の前に立ち、
右足のつま先で地面を軽く押す。
柔らかい。
昨日の雨で、土が呼吸している。
「怖いの?」
「……まぁ、少し」
「わたしも」
「じゃあ、帰ろ」
「でも、怖いのと、行きたいのは別だから」
「なんだよそれ」
「同じ場所に、二つの気持ちはいられないってこと」
コウタはため息をついた。
「……ユイのそういうとこ、やっぱり詩人」
「詩人じゃないよ。たぶん変人」
「それは否定しない」
笑い合う。
その笑い声の後ろで、森がゆっくり動いた気がした。
――
森の中に一歩入ると、光の粒が増えた。
木漏れ日が風に揺れて、葉の裏が金色に光る。
どこかで水の音がして、どこかで鳥が遠くへ飛ぶ。
だけど、近くには何も鳴っていない。
音が全部、遠くに追いやられている。
静けさが、逆にうるさい。
「……なぁ、聞こえる?」
「何を?」
「いや、聞こえないっていうか、聞こえなすぎる」
コウタが言う。
たしかに、風の音まで薄い。
木の葉が揺れても、音が鳴らない。
「変だね」
「うん。変だ」
二人は、同じ方向を見ていた。
けれど、違うものを見ていた。
コウタは“危険”を、
わたしは“呼びかけ”を。
足もとに、ひとひらの羽が落ちている。
灰色の小鳥の羽。濡れて、光って、
まるで空の涙の欠片みたい。
わたしはそれを拾おうとして、指を止めた。
触れたら、なにかが壊れてしまう気がした。
「なぁ、ユイ」
「ん?」
「もしさ、森で誰かが助けを求めてたら、どうする?」
「助ける」
「もし、それが人じゃなかったら?」
「……たぶん、助ける」
「でも危ないかもだろ」
「危ないものほど、助けを出さないでしょ」
「……なるほどな」
コウタは苦笑した。
その顔が、なんだかやさしかった。
――
風が止まった。
その瞬間、金属の音。
キィン——。
空気の奥が、裂けた。
森が、耳をすます。
鳥の鳴き声が遠くで止まる。
「今の……」
「うん」
わたしたちは顔を見合わせた。
空気が、うっすら冷たくなる。
コウタが一歩前に出て、草をかき分けた。
「罠、かも」
「罠?」
「イノシシとか、クマとかを捕るやつ」
「そんなもの、置くの?」
「……父さんの友達が猟師だから。聞いたことある」
「どんな音?」
「今の、みたいな」
わたしは喉の奥を鳴らした。
息が詰まる。
でも、恐怖より先に浮かんだのは、
“誰かが痛い思いをしてる”という想像だった。
「行こう」
「は?」
「見てみよう」
「いやいやいやいや!」
コウタの声が一気に跳ねた。
「危ないって。もしクマだったらどうすんの!」
「歌う」
「歌ってどうすんの!」
「わかんない。でも、きっと聞こえるから」
「誰に!」
「助けを出してる誰かに」
コウタは頭をかいた。
「おまえってほんと、怖いくらい真っすぐだな」
「曲がってたら、届かないから」
「……もう勝手にしろ」
それでも、彼は後ろを歩いてついてきた。
一歩ずつ、静かな土を踏む。
靴底の音が、心臓の音に似ている。
――
森の奥から、また音。
キィン——。
さっきより近い。
近すぎる。
わたしの胸の中で、何かがはっきりと形になる。
それは恐怖じゃなくて、
“放っておけない”という衝動だった。
「ユイ」
「ん」
「帰ろう。これ以上は危険だ」
「……ちょっとだけ」
「何が“ちょっと”だよ」
「ちょっとでも、行かないと眠れないと思う」
「なんで」
「声、聞こえた気がするから」
コウタの目が丸くなった。
「声?」
「うん。悲鳴じゃなくて……呼吸みたいな」
「気のせいだよ」
「うん。かもね」
それでも足は止まらない。
木の根が地面をうねる。
落ち葉が、足音を飲み込む。
森の奥に、ひとすじの光。
その光の先で、なにかが動いた。
――
第3節 逃げない代わりに、歌う
森の奥で、光が細くほどけていた。
そのほつれ目に、音が引っかかっている。
キィン——。
また、同じ高さで。
空気の糸を結び直すみたいに、痛い音。
わたしの喉が、勝手に乾く。
唇を舐めると、塩の味がした。
さっき拾いそこねた羽の色を思い出す。灰色。雨上がりの雲の端みたいな色。
ここにあるすべてが、まだ名前を持っていないのに、たしかに“いる”。
「……ユイ」
コウタの声が、背中のすぐ近くで小さくなる。
「ここで引き返したほうが——」
「分かってる」
「分かってるなら」
「分かってるけど、行きたい」
わたしの声も小さい。
世界を起こさないように、つま先立ちで話しているみたいだ。
前方、草の間に細い道がある。
獣道。
足幅の狭い、慎重な歩幅で刻まれた跡。
そこに、わたしたちの足音を重ねることが、正しいのか分からない。
でも、重ねずにいられない。
「歌うなよ、今は。いや、歌うなじゃない……小さく。めちゃくちゃ小さく」
「わたしの声、小さいよ」
「もっと」
「空気だけ?」
「そう、それ」
わたしは、肺の奥に小さな灯りをつけるみたいに息を吸った。
吐く息を、言葉の形にしないまま、前へ押す。
空気の輪郭が、ほんの少し丸くなる。
わたしの輪郭も、少しだけはっきりする。
足もとに、浅い爪痕が交差していた。
新しい。乾いていない。
血の匂いは、しない。
けれど、金属の匂いが、土の中から薄く立ちのぼっていた。
鉄が雨で冷えたみたいな匂い。
それが、喉を細くする。
「……罠、だ」
コウタが囁く。
「見える?」
「まだ。けど、匂いがする」
「匂い?」
「父さんの道具箱の匂いに似てる」
わたしはうなずいた。
金属と、湿った土と、落ちた木の実の甘い腐り。
いくつもの匂いが、同じ場所へ向かって流れている。
キィン——。
さっきより、近い。
わたしの鼓動と、音の間に、ほとんど差がない。
音が来るたび、胸の中の何かが反射で震える。
その震えが、怖さの形をしている。
けれど、同時に、優しさの形にも見える。
怖いから優しいのか、優しいから怖いのか、区別がつかない。
草をかき分ける。
視界が、少し開く。
陽の粒が散って、地面に小さな星座を描いている。
その星座の中心で、かすかに黒い影が動いた。
息だけで、声が漏れる。
「……いる」
小さな、背中。
丸い、肩甲骨のゆるい起伏。
毛並みはまだ柔らかく、雨が乾ききっていないみたいにところどころ濃い。
前肢の片方が、草の根っこに絡まっている——そう見えた。
目を凝らす。
草じゃない。
細いワイヤー。
輪。
輪の中で、細い脚が、膝の下あたりできつく締め付けられている。
小さな体が動くたび、ワイヤーが鳴く。
キィン。
そのたびに、世界の端が細く裂ける。
子ぐま。
言葉が、頭の奥で音を立てる。
名づけることをためらっていたわたしの中で、ひとつの呼び名が形になってしまう。
その瞬間、胸の奥が痛む。
言葉は、ときどき、現実より鋭い。
「ユイ、下がれ」
コウタの手が、わたしの袖をつまむ。
その指先が汗で冷たい。
「母ぐまが、いるかもしれない」
遠くの、目に見えない森の層で、低い気配が一度だけ揺れた。
風は動いてないのに、木々の高いところだけがわずかに震える。
わたしの肩も同じリズムで震えた。
子ぐまの目が、こちらを見た。
見た、と思った。
見た、としか思えないほど、視線はまっすぐだった。
声は出さない。
代わりに、体の奥で小さな震えが続く。
恐怖の震えではなく、痛みの震え。
わたしは、胸の中で同じリズムを見つけてしまう。
合わせてはいけないのに、合ってしまう。
「ユイ、やめよ。大人呼ぼ。先生でも誰でも」
「時間、かかる」
「でも——」
「今、ここに、いるの」
わたしの声が細くなる。
細いけれど、切れなかった。
「いなくなるまでに、何度、鳴るの?」
キィン——
金属が、それに答える。
コウタが顔をしかめる。
「おまえ、いつもそうだ。……オレ、そういうの、嫌いじゃないけど、今は嫌い」
「ありがとう」
「褒めてねぇよ」
「知ってる」
わたしは、息を整える。
しゃがもうとして、やめた。
姿勢を低くすると、視界が狭くなり、耳に入り過ぎる。
立ったまま、ゆっくり一歩近づく。
子ぐまは逃げない。逃げられない。
わたしの足音に合わせて、目の周りの筋肉がわずかに強張る。
その強張りが、痛みの小さな歯車を回す。
「歌うの、やめて」
コウタが言う。
「今は」
「歌う」
「危ない」
「歌わないほうが、危ない」
「どうして」
「沈黙は、追い詰めるから」
病室で知った事実が、舌の裏でざらりと動く。
沈黙は、世界から色を抜き取る。
声は、色を一滴だけ戻す。
わたしは、ほんとうに小さな声で、旋律を作る。
「♪ある日、森のなか——」
音は震えている。
わたしの指先と同じ震えかたで。
でも、音は消えない。
消えないことに驚いて、もう一音、置く。
「♪くまさんに、出会った——」
子ぐまの耳が、動いた。
ほんの、指先一枚ぶん。
世界が、その動きに合わせて、少し柔らかくなる。
柔らかくなったぶんだけ、痛みが深く見える。
見えるのはつらい。
つらいけれど、見えないよりはいい。
「コウタ、携帯ある?」
「電波悪い」
「かけてみて。誰かに。位置、分かる?」
「分かんねえ。地図アプリ弱い」
「じゃあ……ポストまで走って、魚屋のおばちゃん呼べる?」
「なんで魚屋」
「一番、朝が早い」
コウタは一瞬だけ笑った。
次の瞬間、真顔になる。
「一人にして大丈夫かよ」
「大丈夫じゃない。でも、やる」
「ユイ」
「お願い」
コウタは唇を噛んで、うなずいた。
「すぐ戻る。……歌、でかくすんなよ」
「小さく、広く」
「なんだよそれ」
「空気で歌うの」
「分かんねえ」
「わたしも」
コウタは一歩、二歩、後ろへ下がる。
走り出す前に、振り返って言う。
「ユイ、逃げろって言ったら逃げろ」
「うん」
「約束」
「約束」
彼の足音が、森の浅いところへ遠ざかっていく。
わたしは、一人になる。
一人と、一匹。
それから、どこかにいるはずの、もう一つの影。
低い、かすかな唸りが、風の裏側で擦れた。
見えない。
でも、ある。
母ぐま。
見えないまま、分かるというのは、怖い。
怖いけれど、知ることは、逃げるより前にある。
「こんにちは」
わたしは、子ぐまに向かって言う。
「こわくないよ。ここにいるよ。……ごめんね、遅くなって」
子ぐまは、まばたきもしない。
まばたきをしない生きものを前にすると、人間のほうが瞬きの回数を数えてしまう。
わたしは、あえて目を細める。
輪郭をぼかす。
人間の形が、必要以上に強く見えないように。
ワイヤーの輪は、茎の影に隠れている。
指を伸ばせば届きそうな距離。
でも、触れない。
触れた瞬間、世界が別の形で鳴ってしまう。
子ぐまの痛みも、森の緊張も、わたしの恐怖も、一度に跳ねる。
その跳ね方は、きっと誰も望まない。
「♪ある日——」
わたしは、旋律を、さらに薄くする。
歌というより、言葉の骨。
骨だけの歌。
それでも、空気はわずかにあたたまる。
わたしの頬の内側に、その温度が戻ってくる。
遠くで、カラスが一声。
黒い印を空につけるみたいな鳴き方。
遅れて、木の高いところがざわめく。
風は、まだ静かなまま。
ざわめきは、気配のほうに属している。
「お母さんに、手紙を書いてきたんだ」
言いながら、ポケットに手を入れる。
便箋の角。薄い紙の厚み。
紙を出す。
白さが、森の緑の上でほどける。
「宛名がないの。宛名がないほうが、世界はやさしいって、思って」
紙に、二行だけ足す。
——いま、ここに、います。
——こわくないよ。
鉛筆の芯が少し震える。
震えの分だけ、字が丸くなる。
丸くなった字は、幼い。
幼い字は、たぶんやさしい。
子ぐまが、鼻先をわずかに動かす。
紙の匂いがするのか、わたしの匂いがするのか。
判別できないまま、わたしは紙を半分に折る。
折り目を指でなぞる。
その線が、地図の道みたいに見えた。
歩ける道。
誰かが、無事に通れる道。
低い気配が、もう一度だけ揺れた。
母ぐま。
距離は近いのに、遠い。
遠いのに、近い。
境界は、紙一枚ぶん。
紙一枚ぶんの薄さで、世界が分かれている。
「わたしは、ここに置くだけ」
紙を、草と草の間に滑らせる。
地面の湿り気が、端からじわりと染みる。
紙は、わたしの側から、世界の側へ移動する。
そのとき、ワイヤーがもう一度鳴った。
キィン——。
子ぐまの体が、びくりと跳ねる。
わたしの心臓も、短く跳ねる。
同時に、喉が勝手に音をつくる。
「♪——」
歌が、わたしより先に出る。
恐怖より早く、音が出る。
それがわたしの体の癖。
もしかしたら、恋の出方も、同じかもしれない。
好き、より先に、目が行く。
名前、より先に、息が合う。
そして、言葉より先に、沈黙が寄り添う。
「ユイ!」
遠くから、コウタの声。
近づく足音が、ふたつ。
ひとつはコウタ。
もうひとつは、分からない。
魚屋のおばちゃんか、通りがかりの大人か。
その音が、森の緊張に波紋を作る。
波紋は、良いほうにも、悪いほうにも広がりうる。
わたしは、掌をそっと上に向けて見せる。
「大丈夫。大丈夫だよ」
子ぐまに。
見えないどこかに。
そして、わたし自身に。
その瞬間、風がひとすじ、通り抜けた。
葉の裏が一斉に白く反転する。
白い裏面が、合図みたいにひらめいて、すぐに元へ戻る。
森が、息を吐いた。
わたしも、同じタイミングで息を吐く。
低い影が、視界の端をかすめる。
母ぐま。
大きな体が、音もなく、別の陰へ滑る。
わたしの居場所を確認して、線を引く。
ここからそこまで、越えるな。
その線の薄さに、皮膚がひりつく。
「ユイ——」
コウタが、膝に手をついて息を荒くしている。
その後ろに、魚屋のおばちゃん。
エプロンの紐をほどきながら、
「現場を動かしちゃだめ。落ち着きな」と小声で言った。
「町内会、すぐ呼ぶから。猟友会にも連絡する」
コウタがうなずく。
「ユイ、離れろ」
「……まだ」
「いいから」
「まだ、歌う」
おばちゃんが、わたしの目を見る。
年上の目が、柔らかくなる。
「小さくね」
「はい」
わたしは、目を閉じる。
見ないほうが、世界がよく聞こえる時がある。
歌う。
声というより、息のかたち。
かすかな旋律が、森の縁でほどける。
ほどけた音だけが、子ぐまの震えを少しやわらげる。
ほんの少し。
でも、少しは、世界を変える。
それで十分だと思える瞬間が、たしかにある。
コウタが、わたしの横で黙って立つ。
何も言わない。
言わないことで、そばにいる。
その沈黙は、わたしを追い詰めない沈黙だった。
わたしは、目を開けずに、笑う。
笑いは、声にならずに、頬の内側でほどける。
それでも、届く先があるように思えた。
ワイヤーは、まだ外れない。
外さない。
今は、外せない。
代わりに、紙がそこにいる。
白い、やわらかい、世界の側の紙。
風が、紙の端を一度だけ持ち上げ、そっと、戻した。
だれかが触れたみたいに。
音のないところで、遠くのサイレンがかすかに揺れた。
人の世界が、こちらへ向かっている。
鋭い音は、救いのかたちをしているけれど、ときどき別のものにもなりうる。
それでも、今は、必要だ。
今は、わたしより、強い手が必要だ。
わたしは、歌をやめる。
やめても、空気はすぐには冷えない。
歌の温度が、森の細い管の中を、もう少しだけ巡っている。
わたしの体の中にも、同じ温度が残る。
心臓の鼓動が、その温度に合わせてゆっくりになる。
「ユイ」
コウタが、低く呼ぶ。
「……こわかった」
「うん」
「でも、歌ってた」
「うん」
「なんで歌えるんだよ」
「歌わないと、もっとこわいから」
彼は、顔を横に向けて笑った。
「やっぱ、おまえ、変だ」
「知ってる」
「……変なの、好きだわ」
その言葉は、すぐにはわたしに届かず、
空気の中で一度だけ浮いてから、そっと肩に落ちた。
落ちた場所が、少しあたたかくなる。
それは、怖さと同居できる種類の温かさだった。
子ぐまの耳が、また、ほんの少し動く。
小さな合図。
生きてる。
ただそれだけの事実が、今日の世界を支える柱になる。
森の上で光が斜めに変わり、影が長く伸びた。
わたしは、その影の端に立っている。
逃げない代わりに、歌った場所。
怖さと優しさが同じ形をしていた場所。
恋が、まだ名前を持たない場所。
サイレンが近づく。
人の声が増える。
世界が、手続きを始める。
わたしは、紙のほうを見て、小さくうなずいた。
ここまでが、わたしの番。
この先は、世界の番。
——そして、風が、そっと返事をする。
第4節 風が返した手紙
サイレンが近づいてくる。
森の奥の静けさをやぶる音。
けれど、なぜだろう。
さっきまで怖かったその音が、今はすこしだけ心地いい。
人の世界が、やっとここに追いついてきたような気がした。
コウタが汗を拭いながら、肩で息をしている。
「……なぁ、ユイ」
「うん」
「さっき、ほんとに歌ってたんだな。……あれ、怖くなかったのか」
「怖かったよ。でも、歌うのやめたら、世界が止まっちゃう気がして」
「止まる?」
「うん。わたしが黙ると、全部の音が黙っちゃいそうで」
コウタは言葉を失って、ただ息を整えた。
その肩の動きが、森の呼吸とぴったり重なる。
木々の間から、懐中電灯の光がいくつも現れる。
人の声が近づき、枝を折る音がする。
魚屋のおばちゃんの後ろには、町内会の人と、猟友会の男たち。
作業着のポケットには、工具や金属の匂いが詰まっていた。
「おい、子ぐまか……かわいそうにな」
「こっちに工具、持ってこい!」
男たちが早口で言葉を交わす。
その中に、静かな動きがひとつ。
おばちゃんがしゃがんで、ユイの肩にそっと手を置いた。
「ありがとうね。あなたが見つけなきゃ、この子、もっと苦しかった」
「わたし、何もしてないよ」
「してる。歌ったろ?」
「うん」
「それで、十分」
その言葉が、胸の奥で小さく灯る。
“十分”という響きが、どこか温かかった。
男たちがワイヤーを切る音がした。
金属が短く鳴いて、森の空気がひと呼吸ぶんゆるむ。
子ぐまの体がわずかに動いて、前肢を引いた。
「動くな、ゆっくりだ」
誰かが低く言って、
その声が土に吸われていった。
わたしはその場で膝を抱えた。
冷たい地面が、手のひらにやさしくまとわりつく。
恐怖はもうない。
あるのは、静けさ。
その静けさが、少しずつわたしの中に染みていく。
コウタが隣に座った。
彼の膝と、わたしの膝が少し触れる。
「なぁ」
「なに?」
「おまえ、ほんとに変わってる」
「またそれ?」
「でもな、今日、見てて思った。……変なの、いいかも」
「いいかも?」
「たぶん」
コウタの声が、遠くの光と同じくらい柔らかく揺れた。
わたしは、返事をしなかった。
返事をしないほうが、言葉よりも長く残る気がしたから。
――
子ぐまは、小さな箱に入れられた。
布で包まれ、車の後部座席に運ばれていく。
「獣医さんに見せる」
「母ぐま、見当たらねぇな」
「たぶん、もう山の上だ」
大人たちの会話が風に流れる。
わたしは、さっき紙を置いた場所を見つめた。
そこには、もう紙の姿はなかった。
代わりに、細い白い線のような跡が残っていた。
紙の繊維が、地面に吸われた痕。
それは、まるで“受け取られた”証みたいだった。
「ユイ、帰ろ」
コウタが声をかける。
「うん。……でも、もう少しだけ」
「何するの」
「挨拶」
わたしは、森の奥を見て言った。
「ありがとうって言わないと」
風がゆるく動いた。
葉の裏が、また白く返る。
その一瞬だけ、森の緑が光った。
わたしの髪が頬に触れる。
声にはならなかったけど、心の中でつぶやく。
――ありがとう。
森が応えるように、
遠くで、一本の枝がやわらかく揺れた。
――
家に帰る道は、いつもより静かだった。
ポストの前を通ると、投函口が黒く光って見える。
そこに一瞬、森の影が映り込んだ気がして、足を止めた。
「明日、出そうかな」
小さく呟いて、ポケットの中の便箋を探す。
もう一枚だけ残っていた。
空白のままの、手紙。
ふと見ると、コウタが隣で歩いている。
「なに、明日って」
「手紙」
「また森に?」
「今度はポストに」
「誰に出すんだよ」
「……まだ決めてない」
コウタが笑う。
「じゃ、届いた人はラッキーだな」
「なんで?」
「おまえの字、やわらかいから」
「……それ、褒めてる?」
「うん」
わたしは少しうつむいた。
風が髪を揺らす。
その揺れが、笑い声に似ていた。
――
家に着くと、玄関の前に夕陽が落ちていた。
光の色が少し赤く、冷たい。
それでも、ドアノブの金属はあたたかい。
触れると、朝の歌の続きを思い出した。
「♪ある日——」
小さな声で、そこだけを口に出す。
それ以上の言葉は、胸の奥にしまう。
お母さんの笑い声と、森の音と、コウタの息の音が、
全部同じ場所で混ざっていた。
靴を脱いで、廊下を歩く。
窓の外の風が、カーテンをわずかに動かす。
その動きが、“生きてる”の合図に見えた。
机の上に便箋を置いて、
鉛筆を手に取る。
迷って、やめて、また握る。
書く。
お母さんへ。
今日ね、森で小さな生きものを見つけたの。
こわかったけど、逃げなかった。
歌ったら、風が返事をしてくれたよ。
世界は、ちゃんと聞いてくれるんだね。
だから、わたしも書くね。
声が届かないときは、手紙で。
ペンの先が震える。
その震えごと、やさしさになる。
書き終えると、息をついた。
指先に残ったインクの匂いが、森の土と似ていた。
窓を開けると、夜の風が入ってきた。
髪が頬を撫でて、紙がひらりと揺れる。
その動きが、まるで誰かが読んでいるようだった。
「おやすみ」
小さな声で言う。
風がまた吹く。
その中に、朝の歌の続きを聞いた気がした。
――ある日、森のなか。
おじょうさんは、逃げなかった。
逃げる代わりに、歌った。
その歌は、風になって、
だれかの胸の中で、まだ鳴っている。
わたしは、机の上の紙をそっと撫でて、
静かに目を閉じた。
夜がゆっくりと降りてくる。
風の匂いが、眠りの中まで続いていた。




