【ネット小説大賞応募作】フリージアの失墜
この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、
私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。
────────太宰治『きりぎりす』
拝啓、我が敬愛するF軍曹。
いいえ。いえ。敬愛などと、あなたみたいな嘘を吐くのはやめにしましょう。私はこう書くべきなのだ。「我が軽蔑するF軍曹」と。退役前に、このような不躾なお手紙をお送りすること、お許しください。どうしても、どうしても、あなたとお別れする前に、あなたに二度とお目にかからなくなる前に、申し上げておきたいことがあって、お手紙を差し上げました。あなたはこの手紙を私の知らない奥方とお読みになられるでしょうか。それとも、行きずりの汚らわしい、厚かましい、あなたにぴったりの娼婦とでも駄酒の肴にお読みになるでしょうか。どっちでもいい。もはやどうでもいい。どうぞ最後まで読んでください。後生ですから。読み終わった後なら、私の首を刎ねてもいい。あなたに殺されるのだったら本望だ。とにかく、読んでください。
私は、あなたをお慕い申しておりました。私はあなたの背中を、大明神のご本尊のように思っておりました。私は戦地に送られる前は、しがない成金の、妾の子でした。私に目を掛けてくれるものなど、おりませんでした。私の母を名乗る女は、「お国の役に立ちなさい」といって戦地へゆく列車に乗る私を駅で見送ってはくれましたが、その顔には「武勲を沢山上げて偉くなれ、さもなくば死ね」と書いてありました。彼女も、何の役にも立たない面倒なだけの子供など要らなかったのでしょう。私も、彼女のことはどうとも思っておりませんでした。とは言いましても、あなたもご存じの通り私はあちこちをたらい回しにされたものです。女みたいな性根の女みたいな顔の女みたいな体の成金の四男坊。どこに使い道がありましょう。弾かれて弾かれて、やっかいものを押し付けるようにあなたのもとへ流れ着いたのです。ぶすくれた顔で上官のあなたにご挨拶した私の頭を、あなたは日に焼けた大きな手でがしがしと撫でて「おう、育てがいのありそうなやつだ。生意気そうな、良い目をしている。」と笑ったのを、私は今でも覚えております。私にそんなことを言った人は、後にも先にも初めてだったから。あなただけが、私がここにいることを認めてくださったから。あなたは私を随分厳しく扱いてくださいました。あなたの元で、私はめきめき強くなりました。射撃も、組手も、塹壕の掘り方も、食べられる草も、全て。ひとりで生きるのに必要な全てを、あなたは教えてくださいました。あなたの元に集う人間は、みな厄介払いされたものでした。あなたを蔑み憎む人間は、みな腹に一物抱えながらも群れていなければ生きられない、他人を見下さなければ気が済まない、弱く意地汚い俗物でした。それでもあなたは全然気にしないようにわははといつも太い声で笑っていました。あなたを侮辱されて怒る私の肩を叩いて、言いたい奴には言わせておけと、鷹揚に笑っておりました。体の部品の欠けた者たちに、戦地に身一つで乗り込んだ未亡人の女たち。皆、あなたのことを、未だ慕っておられるのでしょう。ですからこれは、私の自分勝手で身勝手な、申し上げたように不躾で独りよがりなお手紙なのです。 嗚呼、それにしても、あなたはどうしてそうなってしまったのでしょう。幾回季節が廻り私が浴場で女に間違えられなくなった頃、私はあなたが無二の友人のようにお傍に置いて下さる幸福に浴しておりました。ふたりで鉄砲を持ち出して、鹿を撃ちに行くこともありました。眠れぬ夜に、ふたりでこの国の行く先や戦の兵法について、夜通し語らうこともありました。この戦が終わったら、我らはいったい何処へゆくのだろうと笑いあうこともありました。……嗚呼、あなたは笑ってしまうほど、戦のあとを考えていなかった。あのときのあなたは、すっかり根っからの武人で、この戦と心中するつもりでおられた。だから私もぼんやりと、あなたとこの戦場で死ぬるつもりでいたのです。あなたと離れて俗世で生きるよりも、あなたと共に背中を合わせて戦って、敵の兵どもを地獄の道連れに、華々しく散りたいと。そう、一途に想っていたのです。でも、そうはなりませんでしたね。覚えてらっしゃいますか?ほら、あのA山で……あの男、「黒山羊」と遭遇した時の話です。思えばあれが、あなたを堕落させる一因だった。あの男は己の死と血でもって、あなたという存在を穢したのです。あの日は、ひどい雨だった。見通しも悪くて、道もぬかるんでいた。A山を越えてその向こうのI国に入ろうとしていた私達は、すっかり足止めを食って山に留まることになってしまった。それが、いけなかったのです。あなたもご存じの通り、「黒山羊」とは山に異様に精通していることから、また南方の出身らしく色黒で、髪も黒々しているのでそう仇名された、敵国のつわものです。その「黒山羊」が、私達の野営地めがけてごうと襲い掛かってくる光景は、今でも時々夢に見ます。彫りの深い顔つきをした美丈夫でしたが、その顔が戦の愉悦で鬼神のように歪む様の恐ろしいこと。慣れない山と雨の中で散々に神経を擦りへらしていた私達は、次々に奴に斬られ、斃されて、散り散りでした。私も、なんとか応戦しようとしたのです。でも、だめでした。私はあっという間に地面に引き倒されて、奴に馬乗りになられました。奴は私の首を押さえながら、「なあんだ、お前も女か。女の肉は切りごたえがなくてつまらん」とほざいたのです。屈辱を感じながら、私は死を覚悟しました。首を切り裂かれてどっとあふれる、熱く冷たい血の感触を夢想したのです。でも、そうはなりませんでした。急に目の前の男の頭が、後ろを向きました。それからどさりと雪を落とすような音がして、奴が私の身体の上から落ちました。「黒山羊」は、こめかみを鉄砲で撃ち抜かれて、あっけなく死んでおりました。何が起こったのかと見れば、あなたが必死の形相で青い煙の上る鉄砲を握っていたのです。 あなたは私と隊のわずかな生き残りと共に、「黒山羊」の首を手に帝都に凱旋しました。軍をさんざ苦しめた「黒山羊」を討取ったあなたは、ひとかどの軍人、救国の英雄と讃えられました。いままであなたを馬鹿にしていた他の隊の者たちも、掌返したようにあなたを尊敬の言葉で迎えました。私はそれが厭らしく感じて嫌だったのですが、あなたはとても嬉しそうでしたね。でも、最初はあなたが認められたことが嬉しかった。周りの態度が変わっても、きっとあなたはそのままだと。馬鹿ですね、私も。あなたは、変わってしまわれた。最初に変わったのは、恰好だった。あなたはすぐに汚れるんだからと砂埃のついたままの軍服を着ておられて。それなのにすぐに洗濯女に回して、ぴしっと綺麗な軍服を着てやけに背筋を伸ばして歩くようになりました。ひげも、剃ってしまいましたね。掌返しの奴らに、何か言われたのでしょうか。前はそんなこと、気になさる方じゃなかったのに。それから、あれほどお嫌いになっていた酒や煙草も嗜むようになりましたね。私がそれを言えば、付き合いで仕方がないんだと、酒臭い煙草臭い息で困ったように笑ってましたっけ。お嫌なら、断ればいいんです。酒も煙草も……それから女遊び。女遊びも嫌いだと、そう仰ればいいのです。あなたは卑怯者どもに、幻滅されるのがこわいのだ。だからあなたは何度も遊郭なんぞで安い女を抱いて、そして酒と煙草にまみれて帰ってくるのです。汚らわしい。そうして私が密かにぶすくれていると、あなたはそれを見透かして私を自室へ誘うのです。寂しかったのだろうと、残りの夜はお前にやろうとでも言うように。それを跳ねのけきれない私も私で馬鹿でしたが、あなたの御寵愛を受け入れながら、いつも私はあなたの舌を嚙みちぎってやりたいと考えておりました。 ああそれに、以前のあなたは愚痴なんて言わなかった。周りの人間が何をしててもどっしり構えて、いつも鷹揚に笑っておられる方だったから。それなのにあなたは遊郭へ行かない夜、あるいは遊郭から帰ってきたあとに、私に向かってぶつくさと、奴らへの愚痴を吐き出すのです。私は取り繕ったにこにこ顔でお聞きしましたが、本当は嫌で嫌でたまらなかった。「あいつは軍人じゃあない。ただの尻尾を振る犬っころだ。」なんて、まあ。ご自分の姿を鏡でよくご覧になってから物を言ってください。浅ましい。あなたは腐ってしまった。そんな風に腐ってゆくのだったら、あの時あの男に、「黒山羊」に私共々殺されてしまえば良かったんだ。いや、その前に、私が後ろから、銃でずどんとやって仕舞えばよかった。あなたと共に一日野山を駆け回って仕留めた、あの美しい牡鹿のように。あの日は酷い雨だったから、いくら鉄砲のへたくそな私でも出来たでしょう。可哀想なおひと。あなたも私と一緒で、あの日は死に損ねたのです。可哀想に。
あなたはいちど戦地で、大怪我をしたことがありましたね。実はあの時も私は、あなたを殺してしまおうと思ったのです。あれはひどい大風の日、ひどい土煙の立っていた日でした。敵も味方もごちゃごちゃ入り乱れて、目の前にいるのが味方の兵なのか敵畜生なのかも分からなかった。そんなざまだから、敵が敵を撃ち味方が味方を撃つなんて滑稽なことが戦場にばらばら起こっていて、まるで酔っぱらいの乱痴気騒ぎか子供の騎馬戦みたいでした。そして、あなたはその馬鹿みたいな戦場の片隅でひとり、味方の弾に当たって無様に倒れていたのです。私はまずはじめに、焦りました。軍服に染みる血を見て、あなたの中にぎゅっと詰まってその大柄な体を膨らませていたものがどんどんこのよく洗われた布に奪われていって、あなたはまるで針を刺された風船のようにぺたんこになってしまうのではないかと、私は背筋に氷水を流されるような恐怖を感じたのです。あなたの唇はわなないて、しきりに何かを伝えようとしていました。けれど恐ろしい風がごうごう呻って、あなたの微かな声をかき消してしまった。あなたがあの時何を言っていたのか──私には分からずじまいでした。でもその時、私は、好機だと思ったのです。戦場で兵士が死ぬなぞ、朝日が昇って沈むことと同じくらいに当たり前のことです。ここで私が何もせず、あなたがゆっくり死んでいく様を眺めていたとて、誰も咎めはしないでしょう。今の私達を見ているものは誰もいないのですから。そうだ、それがいい。あなたみたいに腐ってしまった人は、ここで死ぬのがいいのだ。ほらご覧、これは天罰だ。俗世に穢れた愚か者の行く末だ。私はここで、あなたの心臓が止まるまで地蔵のように座り込んでいてやろう、と……でもそうならなかったことは、あなた自身が一番よくご存じですね。私は結局、怖気づいたのです。私はあなただけを拠りどころにしてきたのです。どうしようもなく穢れたこの世での、唯一の拠り所に。あなたがいなくなってしまったら、私は何処へ行けばいいのでしょう?この世のどこにも、私の居場所はないのです。あなたの隣にしか、私は息を吸えるところが無いのです。 あとはご存じの通り、あなたを背負って戦場を駆け、衛生兵のところへ連れて行きました。幸いというべきか、あなたは間一髪助かりました。血まみれのまま蹲る私に、衛生兵が「あと数刻遅かったら死んでいましたよ。良かったですね」と優しく微笑みかけたとき、私はなんと返していいか分かりませんでした。数週後にあなたがその元気な姿を見せた時、私は変な笑いが止まらなくって、あなたの腰ぎんちゃく共に大層気味悪がられました。けれど何にも気になりませんでした。私のやってしまったことに比べれば、随分ささいなことじゃあありませんか。
嗚呼。私は結局、臆病者でした。あなたと同じ、堕落者でした。あなたはこれからずっと酒を飲み、煙草を吸い、女を抱くのでしょう。けれど、私はもう何も言いません。お好きになさったら良いんだ。私はあなたのただの部下、それ以下でもそれ以上でもない。あなたが戦場を離れ、どこぞの女と子を作り、家庭を持つとほざいても、私は黙っている。笑顔で、あなたをやさしく送り出す。私はあなたを愛していた。けれど、それは何にもならない。何になることもない。あなたは勝手に、幸せになればいい。私も勝手に、不幸になっているから。
お幸せに、F軍曹。私が敬い、私が蔑み、私が愛し、私が憎んだ人。
もう二度と、お目にかかりません。さようなら。私はあなたの知らぬ土地、あなたの知らぬ時に死ぬでしょう。どうか私のような男のことなぞ、忘れてしまってください。
きっとそれが、お互いにとって一番幸せでしょうから。
敬具
【■■■■年■月■日 ■■■戦地にて戦死したH軍曹(二階級特進)の、退役したF軍曹へ宛てられた手紙より】
俺がその、フリージアの花が添えられた書簡と電報を受け取ったのは、もう戦地から遠く離れていたはずの故郷が随分と近づいてからだった。戦地の泥に汚れた部下からの書簡と、その訃報。俺はのどかに揺れる列車の中で、ただただ茫然としていた。今すぐにでも逆向きの列車に飛び乗って、戦地へとんぼ返りをしたくなる。思わず立ち上がりかけた俺を、隣の席に座った女が服の裾を掴み引き留めた。
「どこへお行きなさるの。お顔、真っ青ですよ」
ぴんと張った琴の弦のような声が、俺を正気に戻していく。形のいい眉を寄せ怪訝な顔で俺を見上げる彼女は紅という娘で、黒々と澄んだ瞳と新雪のような肌を持つ、美しい女だった。俺の故郷の、地主の娘。ああ、そうだ。俺はこの娘と祝言を上げるために戦地から退いたのだと、頭が熱を冷やす様に事実をひとつひとつ確認していく。彼女の指の長い柔らかな手が、俺の手を握った。温かな人肌の熱が、俺の混乱した心をなだめていく。
「どうなさったの。このお手紙に、何か悪いことでも?」
紅は俺が取り落とした手紙を拾い、その一字一句に目を通した。そして、フンと不満げに鼻を鳴らす。
「まあ、なんてイヤらしいお手紙。未練がましいにも程があります。こんな嫌な方、あなたは気になさらなくてもいいのよ」
そう言って紅は手紙を乱暴に折りたたんで自分の懐へしまおうとするので、俺はそれを半ば無理やり奪い取って、自分の懐へ入れた。厚く丈夫な紙で書かれたそれが、胸の前でがさがさと鳴る。紅は少し傷ついたような顔をして俯き、それから浮気を問い詰めるような厳しい顔で、俺に向き直った。
「ねえ、あなた。福畑幸一郎さん。わたくしは、そちらの方面で男のひとを信用しておりません。けれど、心がここにないのであれば、話は別です。死人のことを引きずられていては堪りません。正直に話してくださいまし、この手紙をよこした方のことを」
紅の黒い大きな瞳は、俺に首を横に振らせない苛烈な光を放っていた。俺は罪人のように項垂れて、重い口を開く。南方の異国なまりを持つ、車内販売の少年の場違いに快活な声が真横を通り過ぎていくのを聞きながら。
彼の名前は、灰宮信乃といった。彼が俺の部隊へ配属されてきた日のことは、ことの外よく覚えている。色は青白く、優美な、どこか高貴さを持った顔立ちで、声を聞くまで女だと思っていた。長く伸びた髪の隙間から世を疎むような澱んだ光を放つ、およそ戦地に似つかわしくない痩身の青年。噂によるとさる華族の妾の子で、跡取り争いに負け厄介払いのように戦地に送られてきたのだと言う。その人を寄せ付けない茨のような雰囲気は、山奥の田舎の貧乏百姓の子である俺がきっと到底理解できないような苦労の末に身に着けてしまったものなのだろうと、一目で彼がひどく不憫になった。彼の心を解きほぐし、いつかは明るく笑うところが見たい。俺は本当に、それだけの気持ちだった。後に彼とあんな仲になるなどと、その時は夢にも思っていなかった。俺は、ほんとうに彼を厳しく指導した。どんなに嫌われても構わないという気持ちで。哀れな境遇の者だからと甘やかせば、戦地ではすぐに死んでしまう。彼は反抗もせずに、食らいつくようにその指導に付いてきた。まるで俺の教えるすべてを、ひとつも漏らすまいとするように。彼の瞳はぎらぎらと輝き、俺の顔を焼くようにじっとこちらを見つめていた。だから、俺も夢中になって俺の持てる全てを彼に教え込んだ。例え俺が明日死んでも、この哀れな青年が生きていけるように。……それが、彼にこんな妄信を抱かせてしまったのだろうか。俺は彼が手紙に書いたような、彼が思っていたような大人物ではない。俺だって嫌だったのだ、貧乏百姓の子というだけで見下され馬鹿にされ蔑まれるのは。彼の前でわははと太い声で笑ってみせ、鷹揚に振舞ってみせたのは、悔しいがゆえの強がりだ。戦地でも優美さを失わない彼の隣で、田舎者の卑屈さを出すのは気が引けた。俺は最初から、彼が言うところの“俗物”だったのだ。戦地で、俺の居場所は自分の部隊にしかなかった。きちんとした士官学校を出た将校たちが匙を投げた者たち。目の見えない者、耳の聞こえない者、口のきけない者、片腕片脚を失くしたもの、戦地に身一つで乗り込んだ未亡人たち。そして、世界を疎む目をした華族の四男坊。押し付けられた彼ら彼女らの面倒を見、訓練をしてやり、きちんとした部隊として指揮することで俺の自尊心はどうにか満たされていた。特に彼を優秀な部下として可愛がることは、疲弊した俺の心の大きな癒しだった。根っからの武人だなんて、とんでもない。俺はただ、何も考えたくなかっただけだ。この戦が終わったら?……貧乏百姓に戻るだけだなんて、あの美しい火のような目を前にして、どうして言える?俺は卑怯だから、適当に誤魔化した。俺は、最初から戦場で死ぬるつもりなんてなかった。地獄になんぞ行きたくはなかった。故郷の田舎。美しい緑の木々。小さな畑。そういったものの中で死にたいとは、終ぞ言えなかった。
車内販売の少年が、また真横を通り過ぎる。黒々とした髪に、褐色の肌。ありふれた、典型的な南方からの移民の特徴だが、俺は彼らを見るとどうしても脳裏に恐ろしい影が走り落ち着かなくなる。ああ、覚えているとも。忘れられる訳がない。今も奴は悪夢の中に首だけで現れ、彼の、あるいは俺の喉笛を食いちぎっていくのだから。
「黒山羊」は、本当に恐ろしかった。まさか自分が仕留められるなどとは全く思っていなかった。奴の鋭い刃が暗い山中でぴかりぴかりと光るたびに、血しぶきと誰かの悲鳴が上がるのだ。悪夢、悪夢としか言いようがない。灰宮が引き倒されたとき、俺は彼も死んでしまったと思った。彼の白い喉から赤い血しぶきがどっと上がる様を、俺も幻視した。彼を殺した次は、間違いなくこちらへ飛んでくるだろうということも。だから俺は無我夢中で、傍に取り落としていた自分の銃を構えて、狙いも何もなくがむしゃらに撃った。その弾道は、嗚呼。神か悪魔に導かれていたとしか思えない。俺が失禁しながら放ったその弾は、見事に「黒山羊」の脳を貫いて、灰宮の命を救ったのだ。
紅が少年から買った茶を受け取って、喉を潤す。口の中がからからに乾いていた。
「黒山羊」を仕留めた功績で、俺はもう田舎軍人などとは言われなかった。今まで俺を馬鹿にしていた奴らが、俺を褒めてくれるようになった。嬉しくないわけがない。褒められて認められて、嬉しくない人間がいるものか。彼もそうだから、俺にここまで執着したんだろうに。昇進や移籍の話もあったが、悩みに悩んで断った。俺の隊の数は半分まで減っていたが、やはりそこは俺の居場所だった。離れることは、恐ろしかった。しかし、他人からの評価というのは一切の皆無より多くを得たあとに失われるのが一番辛いものだ。俺はとにかく、もう二度と馬鹿にされたくはなかった。まずは、恰好を整えた。今まで汚くても放っておいた軍服を、洗濯女にこまめに綺麗にして貰った。背筋も伸ばし、無精ひげも剃った。彼の言う「掌返しの奴ら」に何か言われたわけでもない。俺が、急にみっともなく感じて、整えたのだ。そんなつまらないことでまた幻滅されては堪らないから。酒や煙草は、確かに嫌々付き合っていた。どちらも、郷里の父母に体を壊すからやるんじゃないと口を酸っぱくして言われていたことだ。しかし、それをできねば男ではない、軍人ではないと言うのだ。なら、仕方ない。少し不快な味に耐えれば、俺は認め続けてもらえるのだから。
女遊びは、と恐る恐る口に出せば、育ちのいい紅は露骨にぎゅっと眉を顰めた。それでも、傾聴の姿勢は崩さない。律儀な女だ。不実の塊のような俺には相応しくないのではないかと思う。それでも、俺はこの女を娶らねばならなかった。
遊女買いは、前々からしてみたかった。ただ単に、その暇と金が無かったと言うだけだ。
戦地には、圧倒的に潤いが欠けていた。そこにいるのはむくつけき男軍人ばかり。たまに女がいるとしても、皆太い腕か、やつれた瞳か、埃塗れの肉体を持っていた。白く柔らかな肌、細くしなやかな四肢、華やかなよい香り、艶やかな衣装を持った天女のごとき美しさの女たちは、確かに遊郭へ行かねば手に入らないものだった。彼は安い女と罵るが、それでも俺には癒しだった。彼女らの前で虚勢を張る必要などない。彼女らと床に入るときだけは、俺は確かに何の飾りもない俺でいられた。 ではなぜ、と紅が口を挟む。なぜあなたは彼を抱いたのですか、と痛い問いを投げかけてくる。俺は頬の内側の肉を噛みながら、頷いた。全くその通りだ。俺は、図に乗っていたのかもしれない。遊郭から帰ってきた俺を見て不服そうに寂しそうに俺を見る彼が、途端に哀れになったのだ。以前から薄々、彼が俺に慕情を持っていることは気づいていた。彼が俺を見る熱の籠った視線の中が、敬愛だけではないことに気が付いていた。その時の俺は……ああ、今思うと、なんて傲慢だったのだろう。男で、軍人で、部下であるばかりに恋い慕っている俺に、……。俺に言い寄れない彼が、酷くかわいそうに思えた。だから、関係を持った。酷い話だ、俺はあいつを、憐憫だけで抱いたんだ。肉欲だけで愛人にするほうが、いくらかましだったかもしれない。どうかしていた。あの時の俺は彼のことを、対等な人間だと思っちゃいなかったのかもしれない。愚痴も、思い返せばつい気安くなって、彼に吐き出していた。それまでは、買った遊女に聞いてもらっていた愚痴を……ああ、俺は、あいつのことを、知らず知らず遊女と同列に扱っていたのか。ああ、それは、軽蔑されても、仕方がない。本当に、殺されてしまえばよかった。彼の言う通り、俺は死に損ねたのだ。はは、と乾いた笑いが漏れる。俺は、彼の手にかかる資格もない。
耳鳴りがして、体が怠くなる。車内販売の少年の声がうるさい。それでも俺は懺悔を終えなくてはならなかった。そうでないと、永遠に彼の亡霊に付きまとわれる気がして。
そう、あの大風の日も、俺は覚えている。何せ、死ぬような目に遭った日だ。けれど……その時の恐怖や体の痛みよりも、彼の青ざめた酷い顔がより強く記憶に焼き付いている。ああ、俺はここで死ぬんだとぼんやり思って……俺は何を言おうとしたんだったか。確か……そう、謝罪、謝罪と、感謝をしようと思ったんだ。掠れる声と薄れる意識の中で、必死に言おうとした。あまりにも彼が、泣きそうな顔をしていたから。せめてしっかり伝えてから死にたい、彼の中ではしっかりした大人物のままで死にたいと、あの時はそう思っていた、気がする。まあ実際は、彼のおかげでこの通り生きながらえてしまった訳だが。彼はただ静かに微笑んで、「ご無事で良かったです」と言ったきりだった。俺は何と答えただろう。彼が笑顔の裏に隠した、重く湿った情念も知らず。
紅は呆れたようにため息をつく。俺も、肺の中の澱を吐き出すようにため息をついた。
またもや通りかかった車内販売の少年から今度は酒を買って、一気に呷る。酒精が胸の中に溜まった重い気持ちを、少しずつ誤魔化していった。
「そのあと丁度、我が家からの縁談が送られてきたのでしたか」
紅が茶を飲みながら、素っ気なくそう言った。
「ああ、憎き「黒山羊」を討った英雄殿にぜひうちの娘を、と。戦地では送るにも貰うにも手紙が遅れがちだから、実際はもう少し前だったんだろうが」
結婚。それも資産家とはいえ同郷の娘との結婚。両親も、いつまで老いた身でふたり暮らしていけるか分からない。資産家の家に婿入りし、何不自由ない老後を過ごさせてやるのもまた親孝行だろう。戦が落ち着いてきたこともあり、俺の退役は惜しまれつつも許可された。
「それで?この手紙を見るに、キチンと灰宮軍曹に伝えなかったのでしょう。わたくしとの、婚姻のこと」
俺は脂汗を流しながら頷いた。言えるわけがない。散々情婦のように扱っておいて、結婚するから退役する、なんて。だから俺は、結婚のことを彼に伝えなかった。田舎の家族が心配だから退役するだなんて嘘をついて。彼は微笑んで「そうですか」と言ったきりだったが、あれが彼の全てを押し殺した無表情であり、怒りに満ちた般若の形相だったのだと、俺は終ぞ気づくことが無かったのだ。この戦地からの手紙が、届かなければ。
列車が耳障りな金属音を立てて、駅に止まる。がやがやとした呑気な人々の声と間延びした弁当売りの声が聞こえてきて、紅はゆっくりと席を立った。昼食を買ってきます、と言って上品な動作で和服の袖を翻し、客車を去っていく。俺は仕事がひと段落したような長い長い溜息をつき、酒を注文するために首を上げ、真っ先に褐色の肌が目に入った。いつの間にか音もなく傍にいた車内販売の少年にぎょっとしつつ口を開いた俺は、その形相にはっと息を飲んだ。戦場で悪夢で幾度も見て恐れた、その形相。殺意を持った、恐ろしい戦士の貌───
「兄さまの、仇イッ」
少年はぶるぶる震える手で、ぎらぎら光る刃を握っていた。気づいた他の客が止めにかかるが、もう遅い。少年の刃は俺の胸に、ずっぷりと刺さって真っ赤な血を噴き上げていた。ああ、なるほど、見てみれば顔立ちが「黒山羊」の顔にそっくりだ。大きな瞳にぎらぎらと激しい色を宿しているさまは、懐かしい灰宮にも重なって見えた。景色が遠くなる。怒号が遠くなる。肉体が冷えていく。鷹のような、紅の鋭い悲鳴を聞きながら、俺は意識を手放した。
次に俺が目を覚ましたのは、見知らぬ街の病院だった。
ベッドの周りには郷里の両親と紅とが集まり、皆一様に目を赤くしていた。俺と目が合った医者がおお、と感嘆の声をあげ、宙に浮いたままの俺の手を代わりに握った。
「あの状態から快復するとは、素晴らしい生命力だ。流石、「黒山羊」殺しの英雄ですな」
俺は思わず、ごまかすように笑う。紅に実行犯のあの少年は警察に捕まって、今は檻の中ですよと言われても、俺はちっとも嬉しくなかった。俺はまた、死に損なったのだ。
「これがね、あなたの命を救って下さったのですって」
退院後、紅はひどく不服そうにそれを見せてくれた。
穴が開き、俺の血でべっとり染まった、厚く丈夫な紙で書かれた手紙。間違えようもなく、灰宮の手紙だった。中を、開いてみる。当然ながらほとんど読めなくなっていた。
「……この手紙があの少年の刃を滑らせていなければ、あなたの命は無かったそうです。救われましたわね、この呪いのお手紙に」
紅の複雑そうな声に曖昧な返事を返しながら、俺は血の染みから逃れた末尾の言葉をなぞる。
「どうか私のような男のことなぞ、忘れてしまってください」
俺は思わず、苦笑いをする。
うそつきは、お前もだ。忘れさせる気も、無いくせに。俺は紙束を、俺の命を救った呪いの塊を、まるでわが子のように抱きしめた。