キスで一服
「――番をください。」
深夜、時計の針がちょうど12時を指していた。
いつものようにタバコを買い、静かな足取りで喫煙所へと向かう。夜の街は冷たく、静寂があたりを支配していた。白く染まる吐息に、冬の匂いがかすかに混じる。
人気のない喫煙所――そこは、いつもなら俺だけの小さな避難所だった。
「タツさん、こんばんは。」
背後から、不意に声がした。柔らかく、それでいて芯のある声。驚きつつ振り返ると、一人の女性が立っていた。
艶やかな黒髪が肩に流れ、黒のロングコートに包まれた姿は、夜の闇に溶け込むようでいて、不思議と存在感がある。月明かりが彼女の横顔を淡く照らし、まるで絵画の一部のようだった。
彼女の指には、細身のタバコ。その仕草はどこか儚げで、目が離せなかった。
「……誰だ?」
知らず知らずのうちに、言葉がこぼれた。
彼女は一瞬だけ微笑むと、まるでそれすら予測していたかのように、俺の名を口にした。
「タツさん、ですよね?」
どうして俺の名前を知っている?
疑問が浮かぶが、彼女の持つ独特な雰囲気に飲み込まれ、それを問いただすこともできず、ただ立ち尽くしていた。
「ここ、あなたの特等席なんですよね。」
彼女はふわりと軽やかに隣のベンチへと腰を下ろす。その動作の一つひとつが滑らかで、どこか現実離れしていた。
夜の静寂を引き裂くように、心臓の鼓動が耳元で響く。
「私、最近この場所を見つけたんです。」
タバコを取り出しながら彼女が言う。指先に火が灯り、煙が白く空に溶けていく。
「静かで、落ち着ける場所ですね。」
その声は、この冷たい夜に寄り添うように優しく、それでいてどこか物悲しかった。
「タツさんも、ここで一人で考え事をしてるんでしょう?」
無意識のうちに、頷いていた。
その瞬間、彼女の瞳が俺を捉えた。深く、遠い世界を見つめているようなその目は、何かを隠しているようで――同時に、誰かにそれを伝えたがっているようにも見えた。
「だったら、少しだけ話をしてもいいですか?」
冷たい夜の空気に溶けるように、静かで穏やかな声だった。
火を灯したタバコから漂う煙が、二人の間にゆっくりと揺れる。
他愛もない話が始まる。しかし、その一言一言が妙に温かく、心地よかった。
普段なら、人と話すことに疲れるはずなのに。
彼女と話す時間は、なぜか特別に感じられた。
「仕事は何をしているんですか?」
ある夜、そんな問いを投げかけられた。
「俺? まぁ、普通のサラリーマンだよ。」
タバコの煙をゆっくりと吐き出しながら答える。ついでに、会社の些細な愚痴を少しだけこぼした。普段なら仕事の話なんて誰かにしたいとは思わないのに、彼女の前だとなぜか言葉が自然と出てくる。
「そうなんですね。仕事って、時々大変ですよね。」
彼女は責めるでもなく、ただ微笑んだ。その微笑みには、不思議な力があった。
疲れた心をじんわりと癒すような、そんな力が――。
会話はいつも他愛のないことばかりだった。
今日の天気、仕事の愚痴、ふと目にしたニュースの話題――特別なことを話しているわけではないのに、彼女とのやりとりは不思議と心地よく、温かかった。
喫煙所で顔を合わせるうちに、無口で人見知りな私も、少しずつ自分のことを話せるようになっていった。
それは、きっと彼女が作り出す優しい空気のせいだろう。
「そういえば、リカさんは何の仕事をしてるんですか?」
顔を合わせるようになって数週間が経った頃、思い切って尋ねてみた。
「私? ケーキ屋さんで働いてるの。」
彼女は少し照れくさそうに笑いながら答えた。
ケーキ屋――。
その言葉を聞いた瞬間、彼女の柔らかく、どこか甘い雰囲気に妙に納得した。
きっと彼女が作るケーキは、美味しいだけでなく、美しくて繊細なのだろう。
そう想像するだけで、彼女の存在がますます特別に思えてきた。
「ケーキ屋って、大変そうだけど楽しそうですね。」
「うん、大変だけどね。でも、お客さんが笑顔になる瞬間を見ると、疲れも吹き飛んじゃうかな。」
彼女はタバコを指先で軽く揺らしながら、静かにそう呟いた。
その横顔には、どこか遠くを見つめるような切なさがあった。
そんな彼女を見つめる私の心は、次第に「もっと知りたい」という想いで満たされていった。
彼女との時間は短い――けれど、それが愛おしい。
リカさんと過ごす喫煙所でのひとときは、私の日常の中で、唯一無二の特別な時間になっていた。
彼女はいつも、私が喫煙所に着いてしばらく待っていると、ふらりと現れる。
軽く言葉を交わし、穏やかに笑い、そして静かに去っていく。
彼女が帰った後の喫煙所には、かすかに甘い香りが残る。
タバコの煙に溶け込んだその香りを感じながら、私は自然と彼女のことを思い出していた。
その時間は、いつの間にか私の生活の一部になっていた。
ある夜――。
うるさく騒がしい大通りを抜け、静かな路地を通って、いつもの喫煙所へと向かう。
そこは街灯の光がぼんやりと降り注ぐ、ひっそりとした場所だ。
喫煙所が見える距離に差し掛かったとき、ひとりの女性がそこに立っているのが目に入った。
――リカさんだ。
その瞬間、胸が高鳴る。
なぜこんなにも彼女の存在に惹かれてしまうのか、自分でもわからなかった。
「こんばんは、タツさん。」
私の姿に気づいたリカさんが、いつもの柔らかな笑顔で声をかけてくる。
夜の冷たい空気の中で、その声だけが温かく、私を包み込んだ。
そしてまた、彼女とのかけがえのない時間が始まる――。
街灯に照らされた彼女の姿は、どこか幻想的で儚げだった。
柔らかな雰囲気はいつもと変わらないはずなのに、何かが違う。
何が違うのか、言葉では説明できない。
ただ、その姿を目にした瞬間、胸の奥にぽつんと小さな疑問が浮かび上がった。
俺は無意識に足を止め、しばらく彼女の姿を見つめる。
美しい――そんな単純な言葉では片付けられない。
街灯の下で浮かび上がる彼女の輪郭、月明かりに照らされた繊細な横顔。
その一瞬一瞬が、この場所だけが切り取られた別世界のように思えた。
だけど、その魅力的な姿を前にしながらも、頭の片隅にはどうしても拭えない疑問があった。
――なぜ彼女は、こんな場所に来るんだろう?
喫煙所なんて、煙たくて汚れた空間に過ぎない。
普通なら素通りされるような場所だ。
それなのに、彼女はいつもここに現れる。
しかも、俺の名前を知っていた。
どうして彼女は俺のことを知っているんだ?
考えれば考えるほど、その疑問は胸の中で膨らんでいく。
いつもなら聞けないことだった。
でも、この夜なら――いや、この瞬間の俺なら、きっと聞ける気がした。
俺は喉に引っかかる言葉を無理やり押し出すように、勇気を振り絞った。
「リカさん、今日は早いんですね。」
月明かりに照らされた彼女が、ふとこちらを向いた。
少し驚いたような瞳。
けれど、その奥には隠しきれない何かが潜んでいるように見えた。
俺はその目を見つめたまま、さらに問いかける。
「リカさん……どうして、いつもこんな場所に来るんですか?」
俺の問いに、喫煙所の静けさが重なる。
街灯の光とタバコの煙が漂う中、彼女の口から言葉が零れ落ちるのを、俺は息を飲んで待った。
「そんなの――君がいるからだよ。」
寒さで少し赤くなった頬をほんのり緩め、微笑みながら彼女はそう言った。
その笑顔は優しくて温かく、まるでこの夜そのものを包み込むようだった。
だけど、その言葉が俺の胸に染み込むことはなかった。
まるで上っ面だけの返答に聞こえたからだ。
自分のひねくれた性格に嫌気が差しながらも、気づけば俺は声を荒げていた。
「そんなの、おかしいだろ! 俺は君のことを知らなかった。なら、リカさんだって俺のことを知らないはずだ!
でも――君は、俺の名前を知っていた。」
自分でも驚くほど感情がこもった声だった。
リカさんの瞳が一瞬、驚いたように見開かれる。
けれど、その表情はすぐに、悟ったような穏やかさへと変わった。
彼女はタバコをくわえたまま、ふっと視線を空に向ける。
静かに吐き出された煙が夜空に向かってゆらゆらと漂い、星明かりに溶け込むように消えていく。
その様子は、まるでため息そのもののように見えた。
沈黙がやけに長く感じる。
その間に漂う空気は重く、それでいてどこか柔らかい。
彼女が口を開くその瞬間を、俺はただ待っていた――彼女の全てを知りたいという思いと共に。
「タツくん……今日はよく喋るねぇ。」
相変わらず穏やかで、どこかからかうような調子の声。
その余裕を含んだ態度に、俺の中の焦燥感がますます膨らんでいく。
このまま引き下がってしまったら、この夜の意味がなくなってしまう――。
そんな焦りが、俺の言葉を後押しする。
「話を逸らさないでください。」
思わず声が強くなる。
俺の気持ちが伝わったのか、リカさんの動きがぴたりと止まった。
タバコをくわえたままの横顔が、静かに月明かりに照らされている。
その美しい横顔には、微かに迷いのようなものが浮かんでいるように見えた。
夜の静寂が、二人の間に重く降り注ぐ。
彼女が口を開く気配はなく、その一言を待つ俺の心臓は、やけに大きく鼓動を打っていた。
「たつくんさぁ、3ヶ月前くらいかな。私のお店――ケーキ屋さんに来たんだよ。そこで、なんて言ったか覚えてる?」
彼女の柔らかい声に、俺は一瞬ポカンとしてしまった。
「……俺が、ケーキ屋に行った? いや、そんな記憶は……」
記憶をたどろうとする俺をよそに、リカさんは微笑みながら、さらに続ける。
「その時、君はこう言ったの。『俺、今日誕生日なんで、誕生日ケーキお願いします。名前のところにはタツって書いてください』――ってね。すごく真面目な顔で。」
誕生日……?
その一言で、ぼんやりしていた記憶の端に、ようやく何かが引っかかる。
そういえば――あの日。
誕生日に、会社近くのケーキ屋に立ち寄ったことがあった気がする。
特に予定もなく、なんとなく自分にケーキくらい買ってやろうと思って足を踏み入れたのだ。
「ああ……確かに、そんなことが……」
ようやく思い出しかけた俺の顔を見て、リカさんは楽しそうにクスッと笑った。
そして、少し間を空けてから、さらりと信じられない言葉を口にする。
「その後ね、たまたまこの喫煙所の前を通りかかったら――君がそこでホールケーキを一人で食べてたの。」
「え……俺が?」
驚きで声が裏返る。
「そう。喫煙所の片隅で、スーツ姿の君が、フォークでホールケーキを食べてるのを見たの。
あれ、すごく不思議で……でも、ちょっと素敵だった。」
彼女の言葉に、俺は恥ずかしさと困惑で思わず顔を手で覆った。
そんな俺の様子を見て、リカさんは楽しそうに肩を揺らして笑う。
「最初はね、ただ不思議な人だなぁって思っただけ。でも、その後何回かこの喫煙所の前を通ったら……君が毎回そこにいてさ。」
「毎回……?」
俺が聞き返すと、彼女は頷きながら夜空を見上げた。
「そう。君がここにいるたびに、なんとなく気になっちゃって。だから……勇気を出して話しかけたんだよ。あの日が、私たちが初めて言葉を交わした日だったの。」
その瞬間、俺は思い出した。
彼女が初めて話しかけてくれた日。
あの日も月が美しかった。
そして確かに、あの場所で、彼女は微笑みながら「こんばんは」って声をかけてくれた。
「……俺、そんなに変なやつだった?」
思わず漏れた言葉に、彼女は優しく首を横に振る。
「変っていうより、面白い人だよ。だって、そんなことする人、普通はいないでしょ? でも、それが君らしいっていうか……だから気になったの。」
リカさんの言葉が、静かに夜の空気を揺らす。
彼女の視線が柔らかく俺を捉え、その瞳の中には温かな光が宿っている。
俺はその瞳に吸い込まれるような気持ちになり、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
そしてその瞬間、この夜の静寂が、どこか特別なものに思えてくる。
「ねぇ、たつくん。」
リカさんは小さな声で囁いた。
「こんな私でも……君にとって少しは、特別に思えるかな?」
問いかけられたその言葉に、俺は少しだけ息を呑む。
月明かりの下、彼女の瞳が夜の静寂の中で輝いている。
俺は彼女を真っ直ぐに見つめながら、静かに頷いた。
「……もちろんですよ、リカさん。」
「じゃぁ、また今度。ありがとう。なんかスッキリしたわ。」
そう言いながら、彼女は立ち上がり、喫煙所の隙間から見える大通りへと消えていった。
「今日は2本はいけるな…。」
最悪な独り言を呟きながら、俺も帰路に着いた。
また、何日かが過ぎ、相変わらずの他愛のない会話を繰り広げていた。
ある日、いつも通り夜中まで仕事があり、疲れた顔で会社を出た。やけに眩しい街並みが目に飛び込んでくる―――
「あぁ、今日、クリスマスか。」
俺はぼんやりとしながら、コンビニでサンタ帽を被った店員にいつものタバコを頼む。そのままフラフラとイルミネーションに照らされながら、いつもの喫煙所へ向かう。
一本目―――
二本目――――
三本目―――――
こない―――
いつもならすぐ来るはずのリンさんが、今日に限って来ない。ふと、喫煙所の隙間から外を見やる。大通りには、手を繋ぐカップルが行き交っていた。
最悪な妄想が頭をよぎる。
「…こんな時間に、何してんだろう…。」
余計な考えが渦巻く。それでも現実は変わらない。リンさんは来ないし、外のカップルたちが妙に目障りだった。
何本目だろう―――
タバコの火が消えかけた頃、俺は吸い殻を投げ捨て、足を速めて走り出した。記憶を頼りに、あのケーキ屋へと向かう。
イルミネーションの下、無数のカップルたちをかき分けるように駆け抜け、息を切らせながら店の前に立った。
だけど、そこに彼女はいなかった。
――確定した。
リンさんは今、彼氏と一緒にいるんだ。
俺と彼女が話したのは、あの喫煙所での短い時間だけ。それなのに、心のどこかで期待していた。でも――
頭の中が真っ白になった。
考えられない。感じられない。体だけが空っぽのまま動いている。
そんな状態で、俺はクリスマスケーキを買った。
手にした箱がやけに重い。
イルミネーションの光が目に刺さるように痛い。
その輝きが、逆に胸を締め付ける。まるで自分が取り残されたような感覚が広がり、心の中が空っぽになった。
俺は何も考えず、喫煙所へと戻った。
その時――
「たつくん!」
クリスマスケーキのフォークを口に運ぶ手が止まる。驚いて振り返ると、息を切らしたリンさんが立っていた。
ヒールの音を鳴らしながら、彼女は勢いよく駆け寄ってくる。その足音が、まるで鼓動のように響いた。
目の前に立った瞬間、俺は言葉を失う。反応する間もなく、彼女の唇が俺のものに重なった。
衝撃に声を上げそうになるのを必死で堪えながら、自然とリンさんの背中に手を回す。
世界が静まり返ったような気がした。
リンさんのキスは、どこか切なくて懐かしい、タバコの香りがした。
それは彼女がいつも吸っているタバコの味。甘くて、少し辛くて、でもどこか温かい。それが彼女そのもののように感じられた。
口と口が離れる。
俺はただ、顔を赤らめながら彼女を見つめることしかできなかった。
「さっき…厨房の小窓から君が暗い顔で出ていくの、見えた。」
彼女の声は優しく、それでいてどこか切ない響きを持っていた。
クリスマスの夜。街の空気が不思議と澄んでいる。
俺たちは何も言わず、静かにケーキを食べた。
外の灯りが店内に反射し、柔らかな光に包まれるような気がした。
甘いケーキの味が、じんわりと心に染み込んでいく。
次の日、俺はいつものようにコンビニに立ち寄った。
だけど、今日は何かが違う気がして、手に取るものも変わる。
「――番ください。」
何気ない言葉。でも、今日の俺には少し特別だった。
喫煙所の隅で、一服する。
タバコの煙を吸い込むと、ふわりとリンさんの味がした。
煙と一緒に、彼女の温もりが胸に広がる。
そして、それが少しだけ苦しくなるのを感じた。