【プロローグ】未来の僕へ
舞台は、とあるヨーロッパの町だ。
それはどこにでもある、特にこれといった特徴のない町だ。
だが、一つだけ誇れるものがある。町の中心部の広場にある噴水だ。
仕組みや構造は都市と比べてなんてことのないこの噴水だが、まわりの装飾だけは素晴らしかった。
澄んだ水際だけにいる妖精の類、ニンフ。
その美しいニンフたちの彫像が噴水の周りをぐるりと囲んでいたのだ。
柔らかい曲線と、滑らかな石の肌。
豊かな長い髪の毛をなびかせて、それぞれがドラマティックな姿勢をしている。
そうやって彼女らはいつも広場の誰かを誘惑しているのだ。
そのニンフたちはどんな批評家が見ても優れた彫刻であった。
この彫刻の作者は隣町のとある男性だったが、今はもう亡くなっているらしい。しかも、もとはただの農夫で彫刻に関する知識も技術も持ち合わせてなかったというから驚きだ。彼がこれを完成させた時、彼を知る人はあまりの完成度に腰を抜かせたらしい。
しかし、ただの農夫であった彼になぜこの彫刻を依頼されたのか、その経緯は未だに分かっていない。
一体誰が、なぜ農夫である彼にこれを依頼し、何のために彫らせたのか。それはもう誰も知ることができない。
そして、その作者はこの作品を一つだけ完成させると、孤独なまま死んでしまった。
だから、この彫刻にはいろいろな噂がある。
「闇の魔法使いの依頼によってつくられた呪いの彫刻」
はたまた「光の魔法を帯びた伝説の芸術作品」
「生きたニンフが石に閉じ込められている」…とも。
だから、町の人々はこの噴水にはなにか不思議な力があると信じている。
こんなにミステリアスなことを皆放っておくわけがない。
この話を種に、逸話を作り、噂し、多くの人に流布させた。
それを聞いた人々は『不思議な噴水』を一目見ようと集まる。
そして人は人を呼び、噴水は次第に町のシンボルとなっていた。
町の人々は人を集めるその噴水を放っておかない。
この噴水に訪れた人にお金を寄付するように促すのだ。
「この噴水にお金を落とせば、きっと願い事が叶いますよ」、と。
だから今でも、その町を訪れた観光客たちは噴水にコインを落とすのだ。
今日もコインは噴水に投げ込まれ、とぷんっと音を立てて水に入る。
水面を揺らし、コインはその身を右へ左へひらひらと揺れ動きながら、噴水の底にたどり着く。
底にはたくさんのコインが、水中のゆらめく光を反射して静かに輝いていた。
時は、1919年。
自宅に煙突があるのなら、きっと君は煙突掃除屋のことをよく知っているだろう。
彼らは誇りを持ち、その過酷な環境に身を置きながらも、仕事への情熱は人一倍だと聞いている。
彼らは自らについた煤を払いながら、この仕事が世界一素晴らしいとあの有名な歌を歌うらしい。
だけど残念ながら、僕は煙突掃除屋ではない。もし期待させたのなら悪かった。
僕は彼らがあの有名な物語にでて一躍有名な仕事人となったから、つい嫉妬してしまっているんだ。
けれど、勘違いはしないでくれ。僕は彼らに憧れているわけではない。
確かに、僕はただの町の掃除屋だ。だが、煙突掃除屋よりも素敵な仕事をしていると自負している。
煙突とは違う君の家には絶対ないとある美しいものを、より美しくしているからだ。
僕が掃除するもの、それは町で有名な「美人」さんたちだ。
「やあ、ニンフさんたち。今日も美しいね」
僕の名前は、アルト。年は18になる。
こんなことを言ったら不思議に思われるかもしれないが、僕は至って普通だ。
と、いうのも僕はよく「変」と言われるからだ。
他には「変人」とか「変わり者」とか、まあそういう種類の言葉でよく表現される。
理由はなぜだかわかっている。僕はこの噴水にあるニンフたちの彫像に、話しかけながら掃除をしているからだ。
「メリー、今日も一段と美しいね。その豊かな髪についたコケを取ってあげよう」
水をたっぷりと含んだ雑巾を持ち、柔らかい手つきで丁寧にふき取る。
こうやって、彫像に声をかけながら掃除をしているんだ。
これは僕にとっては当たり前のことさ。
ニンフ一人一人の名前は僕が勝手につけた。
もちろんこの彫像たちは誰のものってわけでもないし、僕だけが独り占めできるものじゃないということもわかっている。
だけど、こうして毎日ニンフたちの掃除をしていると声をかけずにいられない。
声をかけるのであるならば、名前があったほうが便利だ。
だから、彫像に名前をつけたってなにも不思議じゃない。
全部で5人のニンフ。
それぞれに名前を付けて、毎日声をかけながら磨いてあげるこの生活を、僕は本当に気に入っている。
確かな誇りをもってこの仕事をしているんだ。
だが、仕事にはお金がつきものだ。
週払い制で20リラ。これが僕の給料なんだ。
正直暮らしていけるのがやっとな金額。そして、これは5年勤めててまったく上がることはなかった。
当初一緒に働いていた仲間はこの額に呆れて、とっくに全員辞めてしまっていた。
もちろん、僕以外全員ってことだ。
これは僕がそんな暮らしの中で、確かに体験した不思議なことだ。
僕は日記を書く習慣がないから、こうやって特別なことがあった時だけ手記を残すようにしている。
これが何の役に立つのかわからないけど、僕の心はこうして書いている間、楽になるんだ。
そしてこれは誰にも今後見せる予定がない。
だから、きっとこれを見るのは未来の僕だけなんだろう。
未来の僕、どうかそのままこの記述を見てほしい。
どうかこのことを一生忘れないように覚えておいて。
そして、時々思い出してほしいんだ。
確かにあのとき生きていた、あの美しい彼女のことを…