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ハネモノ

遠く旅立つその前に。


※モチーフに書きました↓

スピッツ「ハネモノ」

https://youtu.be/PWNNBagSiu4?si=d1BIYMPszdhxPGi2

私から感覚が消えたのはいつだろうか? 代わり映えのしない時間を永遠に幼な子と暮らす日々は、慌ただしくて退屈だ。大都会東京の南の外れ、澱んだ川辺に佇むマンションの一角。回る地球の動きからも取り残された、狭い繭のような空間こそが、今の私の全てだった。


私の人生はこれまで、平凡ながらも順調だった。大学卒業後、とある有名企業に縁あって就職し、そこで将来有望な同期の男性社員に見初められた。数年後には円満に寿退社し実家を出て、年相応に昇進した夫に付き添い大都会へ引っ越しもした。職場から少しばかり距離はあるが経済的にも環境的にも過ごしやすい土地で、めでたく第一子を授かった頃、これからも編み目のように規則正しく続いていくはずだった人生が、突然ハサミを入れられたように跡形もなく解け去った。

「事業展開のために海外へ派遣されることになった。広いアジアの南の外れ、何かと騒ぎの多い国に。残念だけれど身重の妻を、連れて行けるような場所ではないね。」

 仕事帰りの夫から衝撃的な言葉を聞いた蒸し暑い雨の日から、いつの間にか三年と少し経っていた。離れ離れになってから便りも少ないのは、多忙のせいか何なのか。心が通じるようでそうでもない、自分の生み出した不思議な頼りない存在と都会生活を過ごすうちに、私の感覚はコンクリートの上で溶けてしまった。


 食べさせ寝かせて泣かれてあやし、一体今は何時だろうか? しばらく放置されたままの財布と、規則正しく刻む幼な子の腹時計に嫌な予感がしつつ冷蔵庫を開ける。悪い予感こそ、当たるようにできている。空っぽの冷蔵庫にしばらく頭を抱えた後、幼な子と手をつなぎ、しぶしぶ買い物袋を掴んで外に出た。久しぶりに見上げた空は曇天だ。急いでスーパーマーケットへ向かう途中、横目で流し見た公園で遊ぶ子どもはいなかった。いつものことだ。母子二人でこの道を通るようになってから、幼な子と同じ年齢くらいの子どもは勿論、ひとっこ一人そこで見かけることはなかったのだから。荒れ放題な花壇の中に立つ安っぽい時計台は昼過ぎの時刻を示していたにも関わらず、スーパーマーケットへ行くまでにすれ違うヒトもいなかった。誰もいないのを良いことに私は大きく息を吸い込んだ。縮こまった身体に少しだけ、酸素が回り始めた、気がした。


 少ない物流の中、幼な子の必需品と保存の効く食料数点を買い込み、買い物袋の重みに耐えつつ歩く途中、灰色の空から銀色の糸のような雨が降り注ぎ始めた。激しく打ち付ける豪雨でなかったのは幸いか、それでも静かにしつこく続いたおかげで帰宅した時は私も幼な子も買い物袋もぐっしょりと濡れていた。無理にさした傘のせいか、お土産に右肩の痛みもついてきた。できれば消えたままでいて欲しかった感覚だが、無理な姿勢による負担にどうやら身体が耐えられなかったらしい。

「子どもがいるような年齢だもの。確実に老いを重ねているというわけか。」

 普段は良くも悪くも忘れている時間の流れを、こんな形で実感するとは何とも複雑だ。本来発熱した時のために冷蔵庫で保管していた冷却シートで、どうにか痛みをしのぐこととした。


 年を取るのはつくづく嫌なものだ。三十歳を超えたあたりから繰り返した言葉を近頃は更に頻繁に実感している。母親なら幼な子の成長という楽しみがあるだろうという意見もあるだろうが、それより何より右肩の痛みが全く引かないのだ。空模様が悪いにも関わらず無理な買い物をした自業自得ではあるが、それにしても症状が酷すぎる。最初は筋肉痛特有の鈍い痛みだけだったはずなのに、連日の自己対処の影響なのか局所的な痒みを伴う発疹まで出てきてしまった。本当に厄介だ。

おかげですっかり家事をするのが億劫になっていたが、いつもは止まっているように思える時間でさえこんな時は意地悪なもので、痛む右肩に買い物袋を提げてスーパーマーケットを何回か往復する頃には、二人しか住まないこの部屋にも相応に埃が積み重なっていた。

「肩が痛い時に一番やりたくない仕事だけれど、仕方がないな。」

 冷たく爽やかな青空が広がる十月の初め、幼な子を眠りの世界へ導いた後私は重い腰を上げてハタキとホウキを手に取った。夫の帰国も目途の立たない今、母子二人以外はめったに足を踏み入れないこの空間ではあるが、それに甘んじて積もる埃に見て見ぬふりを続けていたらとにかく良くない。幼な子の目を覚まさぬように細心の注意を払いつつ掃除を進め、私は特に薄汚れて見える本棚に手を付けた。この本棚に限っては、一度手を付けると掃除の終わりが見えなさそうなので、こちらに引っ越して以来手を付けていなかった。しかし棚の奥からフワフワと綿毛が沸いて出る様子を先程目撃してしまい、流石に腹を括ることにした。叩いてもこすっても取れない年季の入った汚れが目立つ。どうやら本を一旦全部出して掃除をするしかなさそうだった。

――バササッ! 

 分かりきっていたことではあるが、分厚い本を取り出した後は憎らしいほどに輝く埃が細かく分散して宙を舞った。そしてこういった類の本に限ってまるで狭い空間から解放されたがっているかのように纏めて棚から出てくるのだ。こちらに物凄い勢いで雪崩れてきた三冊を、床に落とす前に慌てて胸で受け止めた。古びた絹の表紙が懐かしいそれらは私の卒業アルバムであった。

「実家に置いてきたとばかり思っていたわ。」

 手にするのは何年ぶりだろうか。思わず手に取ったのは紺色の表紙、高校の時のモノだった。適当に開いたページには、無造作に並べられたスナップ写真。そこで私はある少女といつも肩を組み、何の悩みもなさそうに笑っていた。

「……そういえば、彼女は元気にしているかな? 」

 何の気なしに見たそのページから、目を離せなくなってしまった。と言うのも、連絡を取り合わなくなって十年以上が過ぎようとしている彼女、私の友達だった彼女はとても魅力的で、今まで出会った誰よりも不思議な人物であったからだ。


「今度生まれ変わったら、わたしは蝶になるつもりなの。花々の間を潜り抜けて、妖しく羽ばたくアゲハ蝶にね。」

 自由気ままな放課後を二人でのんびり過ごす時、彼女は口癖のようにこう言った。流行りの喫茶店で折角だからと豪華なパフェを口にする私を前に、アイスティーをストローでゆっくりと味わう彼女はいつも儚く美しく、そしてとても痩せていた。

「陽の光と煌めく雨、朝の空気と少しの蜜。来世ではそれだけを糧に生きていくつもりよ。」

 そんな彼女は現世でも、めったにモノを咀嚼しようとはしなかった。枝のように細い手足で軽やかに校舎を舞い、鈴の音のような声で笑う彼女のことが、私はとても好きだった。

 

読書好きであった彼女は物知りであるにも関わらず、難しいことは極力考えずにその場限りな日々を過ごしているように見えた。哲学の奥深さや歴史的作品の楽しみ方など教室では学ぶことのできないことを私は彼女に色々教わったが、時が過ぎ周りが将来についての話でざわめきだすと途端に彼女は口をつぐんでしまった。

「だってさ、今こうして過ごしていることを十年前のわたしが知らないように、十年後どう過ごしているかなんて今のわたしがわかるはずがないじゃない。将来ってその後ずっとずっと続いていく人生のことを指すって知っていた? そもそも十年後まで元気でいられるかもわからないのに、そんな未来の話をするなんて馬鹿らしいと思わない? 」

 模擬試験のチラシを千切っては屋上から花吹雪のように投げ、彼女は私にだけそんな思いを吐露してくれた。そこまで深く考えずに、皆来年から通う大学を決めるだけの感覚だと思うよ。そんな答えを返した気がするが、今考えると彼女が当時言っていたことは、まさに正論だった。どんなに人生が上手くいくようにと骨身を削ったところで、逆らえない運命に流された結果、見知らぬ土地で誰にも頼れず、私はずいぶんと長い月日を過ごしている。少なくとも当時考えた将来の日々に、現在の私の姿は含まれていなかったはずだ。

 彼女が結局どうなったかを、私は知ることができなかった。ろくに食事も摂らない生活が災いしたのか、卒業まで半年となったある日彼女は突然来なくなった。その頃にはこちらも大学受験で忙しく、いつかどうにか連絡を取ろうと考えてはいたが先延ばしを繰り返すうちに、残念ながらそのまま疎遠になってしまったのだ。


 ドアの向こうで幼な子の声がする。どうやらとうの昔に眠りの世界からはご帰還なすったらしい。私は思い出のページに別れを告げ、急いで現実の世界へと戻ってきた。

「ああ、やだやだ。年を取ると昔のことばかりを思い出すって本当ね。」

 いやいや、それは死ぬ前だっただろうか? くだらない独り言をブツブツつぶやきながら、私は取り敢えず適当に埃を払って本をまた棚に押し込んだ。歩き始めてしばらくの時が経ってはいたが、片付けられていない室内で放っておくには幼な子の足取りはまだ安定していなかった。

昼寝ですっかり体力を取り戻した幼な子が満足するまで遊びに付き合い、いつもと同じように丁寧に世話をして寝かせる頃にはこの狭い空間の窓からも長い夜が忍び込んできた。  

まだ太陽が西に沈んで間もない頃だったのか、それとも明日がすぐそこまで迫ってきている時刻だったのか。慣れない掃除と続く肩の痛みですっかり体力を消耗していた私は、幼な子の添い寝がてら自らも深い眠りの底へと沈んでしまったのだ。


 住むマンションのすぐ近く、川の対岸に広がる商店街。気づくとそんな風景を私は一人で歩いていた。辺りは暗くなりかけていたが、看板を下ろしていない店がまだ多いことからおそらく時刻は午後七時頃であろう。

行き交う自転車、井戸端会議中のおばさま方。いつも無人の公園は煌々と白熱灯に照らされ、眠る前の散歩に来た高齢者たちの憩いの場になっている。今は夢の中にいるのだ。私はそれほど時間をかけずにその事実に気づいてしまった。

 交通量の多い車道が一部封鎖されている。夢の世界だとわかっていながら事故でもあったのかと目を凝らすと、何やら白い無数のボンボン飾りを掲げた行列が、向こうからゆっくりと歩いてくるのが見えた。行列が近づくにつれ笛や太鼓の軽快な音まで聞こえてきた。感覚を失くした日々の背景にかかる音楽は、いつも幼な子好みの童謡であったせいか、聞き慣れない祭りの音楽さえも新鮮に感じ心が躍るようであった。

 行列が目の前にやって来た。白いボンボンに見えたのは季節外れの桜の造花だ。取り付けられた万灯の明るい光に照らされて仄かな薄桃色に輝くそれは、夜の闇の中でとても美しく見えた。

賑やかな行列が去った後に、夜の明るい光に引き寄せられてしまったのか一匹の白い羽虫が近づいてきた。咄嗟に避けようと道を空けるも、それはこちらに物怖じもせず私の懐へと飛び込んできたのだ。慌てて両手で受け止めたそれは、元来虫嫌いの私でも払いのけたくは思わないくらい可愛らしい外見をしていた。

 長い耳のように伸びた茶色の触覚、大きくて黒く丸い両目、身体全体にモコモコと覆いかぶさった毛に、飛ぶには不便そうな小さな羽。さてはて、君は何者だろう? ここで場面が急に切り替わった。


「しばらくぶりだね、元気にしていた? 」

 気が付くと私は高校時代の友達である、例の彼女と隣同士で川辺のベンチに腰かけていた。空からは柔らかい日差しが降り注ぎ、周りにはチューリップやヒマワリ、コスモスにシクラメンと四季折々の花が咲き誇っている。状況から考えてもわかる、私はまだ夢の続きにいた。

「そちらこそ。いつかの下校中に途中でさようならして、それ以来会っていなかったじゃない。急に学校からいなくなっちゃって。心配したのだからね。」

 少し拗ねるような口調でぼやいた私が面白かったのか、彼女は声を上げて笑う。その表情

は卒業アルバムで見た時のままであった、こちらは皺もいくらかできて年相応の外見になっているというのに。

「あはは、ごめんね! 急にいなくなられたら驚くし悲しいよね。しかもあの後わたし携帯電話を解約してしまったから、どうにも連絡する術がなかったよね。申し訳ない。それで、あれからどう? あの頃考えた将来、順風満帆? 」

「うーん、いや。平凡だけれどどちらかというと今は前途多難。」

 そっちはどう? と聞き返す前にいきなり腕をむんずと掴まれ、私たちは花の咲き誇る川辺を散歩することになった。彼女は相変わらず儚く美しく痩せていた。

「この季節感まぜこぜの花々は、君の好みか何か? 私は花の名前に詳しいわけではないけれど。君は植物図鑑まで読み込んでいたのかな? 」

「蝶を目指すものたるや、最低限の知識は知らなきゃいけないかもしれないけれど。正直あまり詳しくない。けれど綺麗だし、良いじゃない? 」

 まるで以前来たことがあるかのように、彼女はずんずんと進んでいく。そして少し高台となった場所にたどり着いた時、彼女はふと足を止めてこちらを振り返った。

「何だか昔のことを思い出したくなってさ。あなたにこうして会えたからかもしれないけれどね。今更だけれど高校時代私たちが過ごしたところまで、このまま訪ねていっても良い? 」

 ちょうどあの辺り、と彼女が指さす方向はそれなりに距離があるように思えた。

「大丈夫、ここは夢の中だし。今わたし実は飛べるのよ、ほんの少しだけね。」

 目を軽く閉じていて、という彼女の指示に従う。次の瞬間私たちは、舗装が不十分な地面の上に寝そべっていた。少し冷えたそこに手をつき上体を起こすと、数メートル先に三年間お世話になった高校の校舎があった。西へ西へと沈みゆく太陽、おそらく時刻は午後五時くらいだろう。行き交う人々の中には今でも実家のどこかで眠っているであろう、懐かしい制服を着ている学生もちらほら混ざっていた。地面の上に女性二人が寝転がっているという特異な状況にも関わらず、こちらに注目するヒトは誰もいなかった。これも夢の中だからだろう。

「一応着いたけれど君さぁ、こんな半端な場所で何を思い出せと。」

 隣で砂を払う彼女に問いかける。にんまりとした表情をこちらに向けた彼女は校舎とは逆の方向を指さした。

「まあとりあえず、二人で一緒に歩いた帰り道でも辿りますか。いざ何処に行きたいかと言われると、あまりセンスの良い場所が思い浮かばないものね。」

 溶岩から流れ出すマグマのような夕日が黄昏時の空を染める中、私たちはゆっくりと最寄りの駅まで歩き出した。


「それで、さっきの話の続きだけれど。前途多難って大丈夫? 」

 自分のことはあまり話そうとしないくせに、こちらのことは何でも興味ありげに聞き出そうとする。外見だけでなく性格まで彼女はあの頃のままだった。

「折角こうして出会えたことだし、何でも話してよ。悩み事でも、自慢事でも。あなたが欲しい反応ができるかどうかわからないけれどさ。そもそもあなたがあの後どういう人生をおくっているかさえ、わたしは知らないからね。」

 あちらが高校生の時のままで変わらないおかげで、こちらもすっかり油断し心を許してしまった。一度話し出すと私は口を止める術を持たなかった。思えば必要最低限以外の会話を幼な子以外とするのは久しぶりだったかもしれない。

「君が言っていた通り、未来の話なんて本当にわからないね。その先の自分の理想を考えて計画を練って行動したところで、どうにもならない時はどうにもならない。それが今の私の姿だよ、あーあ。気づいた時には年ばかり取っちゃって、本当にどうしようもないね。」

「そうだよね、そうだよね。十年後元気でいられる保証なんてやっぱりなかったし。ほら、年を取ると身体も悲鳴を上げてくるじゃない? 」

「そうそう、やりたいことも満足にできないのよ。私なんて最近肩を痛めてしまってさ。でも頼れるヒトはいないから一人で何でもこなさなきゃ。こんな時のためにも一人ぼっちになりたくなかったな。ああ子どもはいるけれど、まだお手伝いという年齢からは程遠くてね。」

「ワンマン子育て、お疲れ様。立派にお母さんをやっているあなたは偉い。尊敬しちゃうなあ。」

 純粋に褒めてくれる彼女の言葉がくすぐったく、そして素直に嬉しかった。近況報告がてら夫から感謝を述べた形ばかりのメッセージを貰うことは勿論あった。しかし今の自分が無意識に求めていた言葉が実際に鼓膜を揺らして初めて、幼な子以外知るヒトもいない自分の努力が認められたような気がして、疲労のあまり感情を失いつつあった心が芯から満たされていった。

「それで、君はどうなの? さっきから私ばかり話しているけれど。君があの後どういう人生をおくっているか、私も知らないからね。」

 最寄りの駅が見えてくる頃になり、私ははっと気づいて彼女を見た。急に会話のバトンを渡してきた私を、彼女は首をかしげて見つめ、そして微笑んだ。

「それはそうね。でもこっちは話すこと特にないかも。」


駅の前に着く頃にはすっかり夕日は地平線の彼方へ沈み、街灯で照らされた明るく賑やかなロータリーにも夜の帳が下り始めていた。二人で一緒に歩いた帰り道のゴール地点だ。 

ここから先はお互い別々の方面の電車に乗っていた。それならまた引き返そうかと踵を返そうとする私を、彼女は制止しさりげなく背中を押してくる。一緒に改札を通過し、自分が乗っていた方面のホームへと階段を上り終えた瞬間に、電車の到着を告げる放送が入った。また別のところへ彼女は移動しようとしているのだろうか? しかしいくら頭の中の記憶をひっくり返しても、互いに家を行き来していたわけでもない彼女に、この方面で思い出の地があると思えなかった。

冷たい秋の夜の風を連れて、電車は勢いよくホームに進入する。ドアが開き、人の波が動いても彼女はそれに乗り込もうとしなかった。そして同様動けずにいる私の右肩をつかみ、一番近い車両のドアへと強い力で放り込んで手を挙げた。

「あの時考えた将来像からちょっとずれてはいるのかもしれないけれど、あなたは確かに頑張って生きている、そして確かに前に進んでいる。運命のいたずらでどうしようもなく道が変わることはあるけれど、もっと自信を持って深呼吸して、どんと構えて過ごして。それじゃあね。」

 発車の笛がなり、細い身体の全部を使って大きく手を振る彼女を残して電車はドアを閉めて走り始めた。何も考えずに眺めた窓の先には色彩を失った夜の単調な闇が続く。夢の中の電車の行き先など知る術もなかった。乗り始めてしばらくの間は不安な気持ちから、乗り合わせた他の客の様子を覗き、時折変化に乏しい外の景色を見たりしていた。しかし次の駅に到着するまでに、どうやら私は夢の世界から退場したらしかった。

 

 再び目を開けた時には、私はいつもの狭い空間のベッドの上で未だに目を覚まさない幼な子と共に横たわっていた。ずいぶんと長いこと眠っていたような気がするのは、あまりにも鮮明で場面展開の多かった夢のせいだろうか。寝過ごしたところで小言をぶつけられることもない生活だが、これ以上ベッドの上に居座る気分にもなれず、起き上がってテレビをつけ、紅茶を淹れた。秋雨前線について気象予報士が詳しく解説している画面の右上には、午前八時という無難な時刻が表示されていた。冷たく爽やかな青空が広がっていた前日とは打って変わって、開いたカーテンの向こう側に広がる街は靄に包まれて今にもひと雨降りそうな天気になっていた。

 幼な子が静かに眠っていることを良いことに、温かい紅茶を飲みながら先程まで見ていた妙な夢について、私はぼんやり考えていた。

 おそらく彼女の夢を見たのは、掃除中久しぶりに卒業アルバムを開いてたまたま彼女の写真を見たからだ。夢の中の彼女が高校生の時から変わっていなかったのも、見た写真が高校生の時のモノだったからだ。帰り道の風景が当時から変わらなかったのも同じような理屈だろう。彼女が自分については全く語りたがらなかったのも私が彼女の現在を全く知らないからで、彼女が私の欲しい言葉をくれたのは多分私がそれを求めていたからだ。ここまで分析できても変にはっきり覚えているせいでますます分からないことばかりだ。彼女と最初に出会った花の咲き誇る川辺は一体どこだ? 確かに昔から蝶になりたいとか何とか言ってはいたが、今少しだけ飛べるってどういうことだ? 

 そしてそもそも彼女と出会う前に遭遇した変な羽虫と、季節外れの桜を模したボンボン飾りをつけた行列も意味が分からない。今までに出会ったこともない。何かを暗示しているようで考えれば考えるほど混乱し、私は頭を抱えてしまった。

「それじゃあね。」

 ふと電車のドアが閉まる前に見た彼女を思い出した。単純に彼女の家は方面が違ったため一緒の電車に乗る、という経験は高校時代にもしたことがなかったが。

「何だか昔のことを思い出したくなってさ。」

 自分で高校時代の記憶に残る地を巡りたいなんて言っていたくせに、結局いつもの帰り道を辿っただけで、しかもタイミング良くこちら方面の電車が着く頃に駅に着き、中へ私を押し込む彼女は何だか急いでいるようにも見えた。

 決して見たのは悪夢ではないはずだったが、私はあまり良くない予感がした。あの電車のドアで離れ離れになった私と彼女は、もう二度と会うことができなくなったのではないか。

「まあでも、あの卒業アルバムを見なければ。一生彼女に会えなかったとして私はそれに気づかなかったとは思うけれどね。」

 昔のことを思い出したりして、近々私は幼な子を残してあの世に旅立ちでもするのか。そんな最悪なパターンもイメージしてみたが、最近の不調と言えば身体の重さと感覚の鈍さくらいで、どちらも命に直結する疾患と関わりはあまりなさそうだ。年齢の影響だろう。

 

幼な子が眠っているうちにと普段はめったにしない読書などしているうちに、気づけば時刻は正午を回っていた。突然かかってきた電話の音で、ようやく幼な子は目を覚まし私を呼んだ。

「はい、もしもし。」

 私は片手で幼な子をあやしつつ、もう片方の手で受話器を取った。相手は存在も知らなかった高校の同窓会の会長で、用件は例の彼女の病死についてだった。

「先月の末くらいのことで、親族でお通夜も葬儀も済ませたそうよ。このご時世だから仕方がないけれど何だか寂しいものですよね。持病が悪化して、ここ数年は闘病生活だったそうよ。」

 当たって欲しくない悪い予感こそ、当たるようにできている。必死に考えないようにしていたパターンで、やっぱり私たちは二度と会えなくなってしまったのだ。


 気持ちの整理がつかないままに、私は買い物袋を持たずに外へ出た。こんな時にも一人にはしておけない幼な子は、連れて行かねばならなかった。

「何でいきなりいなくなっちゃったのよ、何で携帯まで解約しちゃったのよ。」

 どこにもぶつけられない怒りを押し殺し、私はただマスクの下で唇を噛んだ。夫が遠い国へ旅立ってから世界的に流行してしまった感染症の影響で、今日もどこを歩けどすれ違うヒトはまばらで、公園は相変わらず無人であった。

「このご時世だからって何よ。最後のお別れが他人からの電話連絡って何よ。持病って一体何よ。私も何で今まで一回も連絡を取らなかったのよ。」

 これからも平凡で順調で、安定した幸せな生活を夫と子どもと暮らしたいという将来の計画を大きく狂わせた感染症。いつの間にか母子のみでの生活に慣れあくまでニュース の中での出来事となっていたが、今回の件でソイツがまたも私の感情をかき乱した。

長い間連絡を取っていなかったといえ、高校時代という短い期間であってもお互いのみが知る大切な時間を共有した友人の旅立ちは、代わり映えのしない毎日に大きな影を作り出した。モノトーンの毎日に大きく残されたこの黒いシミは、時間が経っても褪せることなく私の中に一生残っていくのだろう。

「あの時考えた将来像からちょっとずれてはいるのかもしれないけれど、あなたは確かに頑張って生きている、そして確かに前に進んでいる。運命のいたずらでどうしようもなく道が変わることはあるけれど、もっと自信を持って深呼吸して、どんと構えて過ごして。」

 夢の中で聞いた、彼女の声がよみがえった。こうしてマスクの下から控えめに酸素を取り入れて、そのエネルギーで足を進めるだけで、気づかぬ間に地球は回り、私は人生を歩き続けている。

 涙で霞む道をぐんぐん進むと、幼な子がふいに声を上げた。袖口で目をこすって隣を見ると季節を間違えたクロアゲハが横を寄り添うようにゆっくり軽やかに舞っていた。

「君らしいや、聞こえているのでしょう? 言う通りにどんと構えて過ごしてやるから、適当に笑って見守っていてよね。」

 クロアゲハはしばらく飛ばされるように空中を漂い、やがて通りがかった大きな寺の掲示板で羽を休めた。どうやらその寺のお会式に伴って行われる万灯行列が、今年は中止になるらしい。

「ああ、傘を忘れてしまったわ。お散歩は終わりだよ。綺麗な蝶々さんにさようならをして、帰ったら一緒に温かいお茶でも飲んで、絵本を読んで過ごそうか。」

 予報通りに、灰色の空から銀色の糸のような雨が降り注ぎ始めた。そういえば、いつの間にか右肩の痛みは消えていた。

【モノコン2023 文藝×monogatary.comコラボ賞】邂逅

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