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2/17

Supplement

見ててね、私頑張るよ。


※モチーフに書きました↓

かじる「グッバイハロー」

https://youtu.be/tOD9Ff5qkMM?si=_z-wxcfIJbR60VKG

結局この世界は見た目が一番。美味しい料理だってごっちゃ混ぜで汚い皿に乗っていたら誰も手をつけようとしないし、香りの良い花だって美しい姿を伴っていなければ誰も顔の近くに敢えて持って行こうと思わない。当たり前だ、当たり前。そんな火を見るよりも明らかな事実に傷ついた心を、私は今夜も大量のサプリメントと共に飲み込んだ。市販の安いアルコールの缶を片手に開けた窓からは、春の終わりのどこか浮かれた夜風が一人暮らしのワンルームへとなだれ込んできた。

「どうすれば綺麗になれるのかな? 」

 どこからも答えのない疑問を思わず口に出しつつ、明らかに肌へは悪影響なスナック菓子をつまみながら私はアルコールを摂取し続けた。


「ああ、あの先輩はこの会社のアイドルだからさ。何をしても許されるのだよ、お前とは違うの。」

 仕事も終わりに近づいた時間。既に処理し終わっていたデータについての資料作成が雑過ぎると上司から厳しく指摘されたことに対して、私がうなだれていた時その一件は起きた。

 そもそもデータの処理方法も資料作成についても、今年度仕事を引き継いだタイミングで教わったまま行っていたはずだったのだ。隣に座っていた同僚に思わず愚痴った時に投げられた言葉で更に私はへこんでしまった。

「結局上司はあの先輩の仕事内容に物足りなさを感じつつも、職場の可愛い子ちゃんをいじめて泣かせたと噂されたくなかったから、こっそり自分で今まで修正をかけていたわけだ。仕事を引き継いだお前が同じことをしたからと言って、経緯を考えれば指摘するのは正しいとしても理不尽に怒鳴る必要はなかったと思うけれどね。あーあー、下を向いちゃって。まあ事実だけれど今お前に言うセリフではなかったかもしれないな、ごめん。」

 慌てたように取り繕って缶コーヒーを差し出す同僚を、かえって憎らしく思った。


「はいはい、良いから早く帰りなさいよ。わかっているわよ、お家には君の帰りを待ちわびているヒトがいるのでしょう? そうでなくとも私なんぞを手伝ったところで会社のヒーローにはなれないよ。」

 結局やり直しになった資料作成をするべく行っていた残業。家庭環境どころかそもそも結婚しているのかさえ知らないが、やたら手出ししてこようとする同僚をどうにか追い払い、終電ギリギリの時間帯でどうにか切り上げた。そして自宅近くのコンビニエンスストアに寄り傷心状態のままサプリメントの海へと溺れるに至ったわけだ。

「私と同じ三十代の男性。口は悪いけれど気遣いはそれなりにできるほう? なのか? 」

 まあどうでもいいが、あながち私の言動は間違っていなかっただろう。同年代の人々は、よほど何らかの都合がなければ既に自分の帰るべき場所としての家を既に構えているか、今まさに愛の巣を作っているという時期なのだ。残念ながらその双方に当てはまらない自分に特別な事情があるかと言われれば全く心当たりはないのだが。一人の晩酌もそろそろお開きだ。心身共に明日へと備えるため、私は缶を踏みつぶしてゴミ袋に投げ入れ、ベッドの中に飛び込んだ。


 代り映えのしない湿っぽい毎日は続いた。あれやこれやと誰かの言葉に傷ついては日中を作り笑顔でどうにかやり過ごし、ただぼんやりと美しくなりたいと願いながら、数えきれない量の最早効能も分からないサプリメントをアルコールと共に飲み下し、夜になっても止むことのない雨音を聞きながら眠りについた。

 やっと日が差した雨上がりの空が、コンクリートにできあがった水たまりに光を散乱させる季節が来た。雲間の切れ目から現れた強い太陽を合図に、地平線の向こうから湧き出るように入道雲が顔を出す。冒険どころか休暇もない、平凡な社会人の夏が来た。


「この度はどうもお騒がせ致しました。この度相戸は一身上の都合にて退職させて頂きます。就職してからいつの間にか約十年、長い間大変お世話になりました。」

 ボーナスを支給されてからすぐ、あの先輩が職場から急にいなくなった。

「ああ、相戸ちゃん。我が社の永遠のアイドル、谷間の姫百合よ。ついにいなくなってしまうのか。」

「アイドル、アイドルって言い続けていつの間にか結構年月が経っていたね。果たして仕事面で長年の経験が生かされていたかは疑問だけれど、いなくなると何だか寂しいな。」

「貰えるモノはしっかり貰って辞めるところも、お調子者の彼女らしいのかもね。学生時代から付き合っていたヒトとの間に子どもができたらしいよ。おめでたい事情で良かったけれど、急だったから喪失感が大きいな。」 

 何かと特別扱いで鼻持ちならない部分もあったが、明るい彼女の気配が消えた職場は確かに二回りくらい照明が暗くなったように感じた。ただし今年度が始まった瞬間にいきなり彼女から引き継いだ仕事量の多さを考えると、退職について言い出すのは突然かもしれなかったが、彼女の人生についての計画は随分と前々から練りに練られていたのであろう。

 本当に生きるのが上手い先輩だ。こうして彼女も同世代の普通と言われる人々へと仲間入りを果たしていった。


 週末に海水浴へと連れていかれた社員たちが真っ黒な顔をした出勤してくる季節になる頃には、私も大分引き継いだ仕事ができるようになってきていた。できるようになったら初めのうちは少しばかり皮肉を込めつつも努力を認めてくれたヒトもいたが、いつの間にかできて当たり前、更なる努力を求められるようになった。自分としてはようやく慣れてきたところでプラスアルファをこなすのにはもう少し時間が欲しかったが、結果を求められる職場でそんな甘いことは言っていられなかった。

「ぷはー。今日も頑張った。えらいぞ。私、お疲れ様。」

 期待には応えたいといつも以上に仕事に力を入れた結果、いつの間に長い夏の日もとっぷりと暮れてしまったことに気付かず、とんでもなく帰りが遅くなってしまった。立ち寄ったコンビニエンスストアでは夏らしく素麺とビールを買い、少しだけ涼しさを帯びた夜風を、窓を全開にして呼び入れる。栄養のことを考えたら食事バランスガイドの円錐が猛スピードで転がってきそうなほど罪深い献立だが、足りないモノはサプリメントで補ってしまえばよい。こちらも夏らしく、日焼けによる色素沈着予防効果のあるモノを加えて最近取り入れて始めたところだった。

「おお、この子はこの前妊娠したのか。あの子も子どもが生まれているなあ。あの先輩はその後人生順調かな? 」

 例の如く大量のサプリメントをビールと共に流し込み、素麺を頬張りながらスマートフォンを弄っていると、いきなりピコンと間の抜けた音が響いた。この時間には珍しく一件のメッセージを受信したのだ。

「今日もお仕事お疲れ様。相戸さんが退職してから更に忙しくて大変そうだね。だから本当に時間と体力があったらということで良いのだけれど、息抜きがてら来週花火大会へ一緒に行きませんか? 」

 隣の席の同僚からだった。急な誘いを不気味に感じなかったと言えば嘘になるが特に断る理由もなかった。一緒に行く予定であった他の家人と予定が合わなかったのだろうか、おそらく深い意味はないだろう。

「そちらこそいつもお疲れ様。ご連絡ありがとう、行けたら行くね。」

 来週の週末に予定はなかった。体力優先とはぼやきつつ、行く気満々で大会会場近くの美容院を予約した。


「うわ、久々にお目にかかるなあ。」

 花火大会に合わせて実家から送って貰った浴衣の包みを開きつつ、私は思わずつぶやいた。大学生の頃は田舎に帰る友達に誘われたりして色々な地方の花火大会を楽しんだものだ。いつも同じ柄ではつまらないからと数種類揃えていたが、今の私にどれが似合うか皆目分からないという母の判断の元、全種類が大きな段ボールに詰められ一人暮らしの狭いワンルームへ届けられた。

「赤い布地に線香花火……いやいやこれは小学生の時に着ていたモノじゃないか。黒地に紫の蝶々……ラメも入っているこれは最早若気の至りの産物だな。藍地の絞り……汗だくになるかもしれない今回には少しもったいないかな。」

 当日の浴衣は白地に朱の唐草模様に決定した。服装を決めるのにこんなに心をときめかせるなんて、まるで初デートに行く小さな女の子みたいだなと少し恥ずかしくなった。ほんの僅かな胸の高鳴りがどうやら良い影響をもたらしたようで、その週の仕事はいつも以上に力が入り、なおかついつもよりも要領良く行うことができた。


「お待たせ、いつもお疲れ様。この度は誘ってくれてありがとう。」

 花火大会当日の夕方、出勤時とは一風違うおめかし用のメイクを顔に施し、美容院でお気に入りの浴衣をしっかり着付けラフな日本髪を結ってもらった私は、同僚の姿を見て手を振った。予想以上に気合いの入った私を見て少し引いたのか、同僚は目を丸くしなぜかしばらく呆然としていた。

「どうしたの? 早く行きましょうよ。それとも何? 慣れない浴衣姿がそこまで滑稽だったかしら? 急いで間に合わせたのだから大目に見てよ。さあ、行きましょう。」

 既に足が痛くなりそうな草履を引き摺りつつ、私は同僚を誘導した。

「いやいや、いつもと雰囲気が違ったから。恥ずかしながら見惚れてしまったよ。職場にもそのメイクと髪型で来れば良いのに。いつものクッキリカッチリした出で立ちより数倍貴方に似合っているよ。」

 同僚の様子がなんだか変だ。具合は悪くなさそうなのに顔が赤く染まっている。それにこっちの呼び方まで変えてきて、ここまで来ると何だか本格的に不気味だ。貴方なんて単語、私に対して使ったことなどなかったじゃないか。それに今回の目的は久々の花火大会を楽しむことで同僚の機嫌を取ることではない。河原に並んだ夜店でいやに煌めいて見えた深紅のりんご飴を本能のままに一人分手に入れ、ヒトがひしめき合う中やっと見つけた石段に並んで腰かけ始まりを待った。あっちもあっちで気づかぬうちにブルーハワイのかき氷を購入していたようだ。互いが好きなモノを会話少なにひたすら頬張る私たちは、ただの職場の仲間、のはずだ。辺りが徐々に薄暗くなっていく中、口をひたすら動かし自由に過ごしていると突然、熱帯夜特有のぼやっとだらしのない空気を大きな爆発音が引き裂いた。打上花火が始まったのだ。


 大きなモノから小さなモノ。伝統的な菊花の形から現代風な絵文字の形のモノ。数えきれないほどの色とりどりの光の欠片は、決して花火を初めて見る子どもではない私にとっても目を離すことができないほど魅力的であった。隣の同僚も同様であったはずだ。

「……ねえ、大会を締めくくる花火の色、賭けてみませんか? 」

 ようやく会話らしい会話をしたのは、次の花火で最後だと河原のマイクから大きなボリュームで放送が入った時だった。

「ええ良いわよ。そうしたら、私は黄色……やっぱり青。」

「わかった青ね。それじゃあ俺は緑。で、何を賭ける? よし、同時に言おう。」

 ふざけたように私たちは目を合わせて、タイミングを揃えた。

「私にキスをしてください、なんてね。」

「俺の恋人になってください! 」

 耳に入ったセリフにお互い目を見張った瞬間、夜空に長い尾を携えた火の玉が勢い良く飛び上がった。初めは黄色く小ぶりな花を咲かせ、それを縁取るように青い輪のような模様が合わさり、一瞬それらが全て消え去った後で夜空に打ち上げられた火花全てを集めたかのように見事な緑色の大輪が開いた。その壮大さに河原は人々の歓声で包まれた。

「青は小さかったね。」

「俺ら、どっちも正解だったな。」

 次の瞬間、前髪に覆われているはずの額に何か柔らかいモノが押し付けられた。空から撤退しようとする火花の僅かな光に、得意げな同僚の表情が映し出された。


「いやー、それにしても花火は美しいな。何歳になっても感動するね。」

 食べ終えたりんご飴の串を年甲斐もなく振り回しながら、帰り道にとにかく私は喋り続けた。照れ隠しをしようと思ったことも否定できない。

「さてと、花火大会も終わったし。これからどうする? ご飯にでも行く? 」

 私とはまるで反対に今まで黙りこくっていた同僚が、不意に口を開いた。

「それより、俺たちの関係は今後どうするの? まさかふざけてあんな賭けに乗ったわけではないよね? 」

「え、むしろ君は本気だったの? 」

 そうだ、花火は最終的には緑色へ変化した。同僚の予想も当たっていたのだ。

「何だか勘違いされているみたいだからこの際伝えておくけれど、俺は今家に帰りを待ちわびてくれているヒトはいません。貴方と過ごした花火大会を後ろめたく思わなくてはいけないヒトもいません。もし貴方もそうであるなら、俺の方の望みも叶えてよ。」

 こちらを見つめてくる同僚の目は穏やかで、裏に何かを企んでいるようには見えなかった。

「……お付き合い、してみますか。」

 つい先ほどまで思い思いに過ごしていた私たちは、恋人同士として手を繋ぎながら、蛍が飛び交う夏の終わりの駅まで続く道を、ゆっくりと歩いた。


 恋人となってからの彼は、とにかく私に甘かった。世間で言う職場恋愛に当たることもあり、そして特に禁止されていたわけではないがどこか照れ臭く思う面もあり、平日昼間から積極的に彼と接触を図ろうとはしなかった。それでも彼は、無意識なのかもしれないがあからさまに私をサポートするようになり、二人の仲が噂の種となるのにそこまで時間を要さなかった。

 仕事帰りには時折、彼は私の住むワンルームへ泊まりに来た。調味料と擬態して台所に大量に並ぶサプリメントのケースたちを見て、彼は目を丸くした。

「貴方はどこか身体が悪いのですか? 俺と同い年だよね、大丈夫? 」

 たまたま風呂上りであった私は、そんな彼を見て思わず笑った。

「ああそれね、サプリメントだよ。厳密に言うと薬になるのかな? でも病院で処方とかされたモノではないよ。単に自己満足。飲むと綺麗になるような気がしてね。」

 彼は少し嫌な顔をしてつぶやいた。

「サプリメントなんて飲まなくても、貴方はそのままで十分素敵なのに。」

 冷静に考えたら分かったはずだ、心にもない言葉だと。愛嬌でどうにかなるほどの容姿ではないと、以前あの先輩と比較して教えてくれたのはまさしく彼であったというのに。   

 それでも私はその言葉を真面目に受け取り、浮足立ってサプリメントのケースをまとめて洗面台の下に隠し、長年の相棒であったはずのそれらの存在をいつしか忘れてしまった。


 職場で個人的な色恋沙汰について陰口を叩かれるのは決して良い気分ではなかったが、彼の協力で無理な仕事量をこなさなくて良くなったのは私にとって大きな収穫であった。

「今まで膨大なタスクを短い時間に詰め込んでいたから、今はかえって時間が余ってしまってね。」

 一旦スッキリしたように思えた台所に、今度は参考書が増え始めた。眉を顰めた彼に、私は慌てて言い訳をした。仕事終わりや休日の空いた時間を使って、私は資格の勉強を始めていた。情報技術やマーケティング関連のモノから、息抜きに憧れの国の言語など気になる事柄を見つけ次第噛り付き、そのいくつかは実際に資格の取得まで結びついた。自分の学びが深まると同時に、一見あまり関連のなさそうな職場の仕事でさえも色々な側面が見えてきて前より楽しく感じられたのには驚いた。時間の余裕と共に精神的にもゆとりができて、私は思い出した。そういえば学生時代から、勉強をすることは嫌いではなかったのだ。社会人になってから使うキャンパスノートとシャープペンシルに新鮮さを覚えつつ、暇さえあれば虫のように参考書の中に埋まるのがそのうち習慣となっていった。


 彼と付き合って間もない頃は、休日は勿論平日であっても時間を惜しむように二人きりの時間を過ごしていた。しかし涼しい風と共に秋が過ぎ、年末年始の行事が落ち着く頃になると年度末が見えて繁忙期に差し掛かったことも起因し、時間のある週に一回何処かへ一緒に外食へ行くのがやっとになりつつあった。それもお互いに用事のある時、例えば私の資格試験が週末に被ってしまった時などは無理せず、それぞれ自由に過ごしていた。私にとっては彼との間に、そのくらいの距離がある方が気楽だった。彼の方はそれに対してどのような思いを抱いていたのか、私は特に尋ねてみようとも思わなかった。


 お互い何の予定もない凍て晴れの休日の午後、私たちは久しぶりにデート目的に二人きりで歩いた。なだらかな坂道に続く商店街からは、カカオ豆の甘くてほのかに苦い香りが嫌というほど漂いしつこくまとわりついてきた。季節柄明るい色彩でファンシーに装飾された街角は、ただ歩くだけでも程良い気分転換となるはずだった。

「最近どう? こうして貴方と二人きりで会うのは久しぶりだけれど。」

 最近どう? は、彼の会話のきっかけに頻繁に使用された。どうもこうも同じ職場で隣同士働いているヒトに聞くべき質問でないのは確かだ。そして付き合ってしばらくした時点で気づいてしまったのだが、彼と私は今では同じ職場にいるが、それまで居た環境はまるで異なっていたのだ。好きな映画や趣味といったところに留まらない、礼儀作法や身に着けた常識といったところまで価値観がまるで合わない二人。勿論彼は悪いヒトではないのだが、話をかみ合わせようとするにもそろそろ限界が来ているようであった。

 

 質問に返さず黙って歩くのも気まずいため、私は丁度参考書を読み始めた分野の話を始めた。相槌も何も返ってこないのに僅かな不安はあったが、沈黙を保つよりはよっぽどましだろうと。洋菓子店が立ち並ぶ通りを抜けた辺りで、突然彼は立ち止まった。

「もういいよ、そういうの。」

 話を止めて改めて見た彼の表情は、花火大会とは違った意味で赤く、小刻みに震えていた。

「大して誇れることもないお前を、折角見初めてやったのに。少し良くしてやっただけで図に乗りやがって。得体の知れない薬だ、資格試験だって。今流行りの自分磨きでもしているつもりか? そのままのお前で十分だと言っているのにどうして俺の言葉を無視するのか。ああ、お前の目標はあの先輩か。少しでもちやほやされたいのか、俺の女のくせに生意気な。いいか、いくら努力したところでお前はあの先輩の立場になることは絶対にないし、そんなに俺の言うことを聞かないなら今ここで振ってやっても良いのだからな。」

 聞き終わるや否や、私は彼の頬を張り飛ばしたいのをこらえて踵を返した。

「今すぐ振ってよ、別れましょう。私は君のモノになんてなりたくない。」

 ハイヒールのブーツは全速力で走るのには向いていなかった。後ろで同僚が何やら喚いていたが、耳にも入れたくなかったのでそのまま通りすがりのタクシーを捕まえて実家の方向へと避難した。


 やはり職場恋愛は慎重に行うべきだった。元恋人といつまでも同じ職場にいるのは自分としてもあまり良い気分はしなかったし、転職も検討できるほどには相応の資格を取得しつつあったので、早速辞表を手に週明け出勤すると運悪くばったり顔を合わせてしまったのだ。隣の席にいるのだから避けようがないことではあるのだが、あろうことか同僚は周りの状況も考えず私に殴りかかってきたのだ。頭に当たる寸前に咄嗟に避けた。行き場を失った彼の拳は打上花火より大きな鈍い音を立ててデスクにぶつかり、あっという間にフロア内の全ての視線がこちらに向かって矢のごとく飛んできた。前からも後ろからも透明な鏃がこれでもかと突き刺さり、痛くて居たたまれなくてやるせない。一方で同僚は思い切りぶつけた手を痛がる様子もなく、もはや正気を失ったような金切り声で聞き取れぬ言葉を発していた。そこまで理性を失わせるような別れ方をした覚えはなかったが、宙を漂う淀んだ虚ろな目に、私は恐怖を隠し切れなかった。

 さすがの上司も慌てて仲裁に入り、その流れで仕方なく全ての事情を話さざるをえなかったが、他人の色恋沙汰はそんなに面白いモノなのか周囲には部署を超えて沢山のヒトが集まってきた。興奮し取り押さえられる同僚とギラギラ目を輝かせる周囲の面々は一歩引いて見ると昼間の職場に実にふさわしくない、滑稽な光景であった。まあ、騒ぎになってくれた勢いで、幸運にも私は辞表を予想以上にスムーズに上司に手渡すことができた。


 年度末と仕事の引継ぎが重なり実際に退職するまで時間は要したが、新年度を少し過ぎた段階で無事に新しい職場が決まった。その時点で更に少し広めの新しい住居も見つけた。既に元同僚に所在を知られているワンルームに住み続けるのは危ないが、いつまでも実家で世話になり続けるわけにもいかなかったからだ。

 引っ越すにあたり荷物を整理中、洗面台の下で懐かしいモノを見つけた。サプリメントのケースの山だ、幸いまだどれも消費期限は切れていなかった。

「サプリメントなんて飲まなくても、貴方はそのままで十分素敵なのに。」

「そのままのお前で十分だと言っているのに。」

 恋人同士としての甘美な言葉と別れる寸前の辛辣な言葉。両方同時に思い出して脳が内側から痺れるようだった。

「あれ、でも私どうして嫌われる方を選んだのかしら? 」

 例えどちらの言葉も完全なお世辞だったとして、自発的な行動は何もせずただ言いなりの日々を送っていたら私と元同僚はお別れしなくても済んだだろうし、何も考えずに過ごす毎日は私にとって刺激はなくとも気楽で安定したものになっただろう。でもそれを敢えて手放したのだ。

「ああ、そのままの私でいたくなかったのは、きっと私自身だったのか。」

 当たり前だ、当たり前。傍から見れば明らかな事実で靄が晴れた心に、私はとても感動した。慣れない梱包に手惑いながら茶色いガムテープを片手に開けた窓からは、萌え出ずる緑の爽やかさをまとった風が段ボールだらけのワンルームへとなだれ込んできた。心も身体も慌ただしかったここでの日々も、きっと次の私へとコマを進めるために必要なエンジンの一部だったのかもしれない。

「これからも綺麗になっていこう。」

 洗面台から取り出した袋を、私は段ボールには詰めずに愛用のハンドバッグに投げ入れた。しばらく放っていたけれど、また今日から私の相棒だ。サプリメント アイ・ラブ・ユー。また新しい場所で、何かが私を待っている。

お題「きみの味方だよ」


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