如何に烏が死を運ぶか
暗く鬱蒼とした森の中。自身の身長で届きかねる場所に、枝から伸ばしたロープの輪を吊り下げる。輪は特殊な結び目をしていて、その輪に重量物が引っかかるとそのまま締まるように結ばれている。その輪を吊り下げた人物は今まさに、その輪に自分の頸を潜らせ締め上げようとしていた。
「よぅお前さん、こんなところで何してるんだ?」
突然、誰かに話しかけられる。しかし人間は慌てる様子を見せることなく、周囲を見回した。
いや、どちらかと云えば“そんな気力すらない”と捉える方が妥当だろうか。
「ここだよ、ここ。お前さんがロープを垂らしている枝の上さ」
見上げるとそこには全身黒ずくめで、しかしどこか光沢のある体に鋭利な嘴。一見すると不吉な印象すら抱くような外観だが、よくよく見てみればつぶらな瞳をもち、しきりにあたりを見渡す様子などは愛嬌すら感じる一羽の烏が止まっていた。
「…なんだお前さん、その目は。まるで“気色の悪いもの“を見るような目をしやがってーーーいや、どちらかと言やぁ“何なんだお前は”と言う方が正しいか?ともなれば、答えてやるのが世の情けってもんだろうよ。…と言っても、俺は見ての通り、ただの烏なんだがね」
そう語る烏は威張るように胸を張る。しかし反面、人間の方は未だ訝しげな顔をしている。とは言え、無理もないと言うものだ。何時もギャアギャアと喚き立てる烏が流暢な日本語を喋り、ましてや会話を成立させようとうるなどと、おかしいにも程がある。
「まぁ俺のことなんかどうだっていいんだ。今大事なのはお前がこんな場所でそんなものを枝から垂らして何をしようとしているのかってところさ」
人間は俯き、ただ一言。死にに来た。とだけ答えると烏は興味なさげに「ふぅん」とだけ返してきた。
「なんだお前さん、こんな所くんだりまでわざわざ死ぬ為に来たってぇのかい。いやはや、それはそれはご苦労なこった。にしたってお前さん、それでいいのかい。いやさ、ここはよっぽどのことがない限り人なんて来やしない。おおよそ、お前さんの死体が見つかる頃にはそれはお前さんだって判らねぇほどにボロボロに成り果てるか俺たちみてぇな鳥や獣達が息絶えたお前さんの身体を引き摺り下ろして喰っちまうかだ。まぁ、それでもいいってんなら俺は止めぇさ。なにせ俺たちは赤の他人で、そもそも俺はただの烏だ。勧める道理はあれど止める道理なんざぁ持ち合わせちゃいねぇ。何せお前さんがおっ死んだ後、ここにくりゃ暫くは喰う物に困らなねぇんだもんよ」
まるで脅しているようだな、と口をついて溢れる。それを聞いて烏は眉根を顰める(ように感じただけで、実際にそうしたわけではない)。
「俺が?お前さんを?なんでさ。さっきも言ったが、俺にゃお前さんが自らを殺す事を薦める道理はあれど止める道理は一つも無ぇんだぜ?それがどうしてお前さんを脅さにゃならんのかね」
人間は不満げに感じながらも、烏の言う『自らを殺す』という発言を思わずおうむ返ししてしまう。烏は「そうさ」と嗤うと今まで止まり木にしていた枝から降り、人間の向かいにある倒木に止まり人間と向かい合う。
「お前さんがやっていることは『自らを殺す』行為だ。人間はその行為を”自殺“と呼ぶんだろう?ほら、読んで字の如くさ。しかし解らんね。なんでせっかく五体満足で生きているのに自分で自分を殺すんだい」
烏の目線が刺さるように注がれる。それは「早く死んで俺たちの食い物になってくれ」と催促しているようで、しかしどこかで「お前達のやっていることが理解できない」と反発しているようで。
人間は輪に通した頸を外し、その場に項垂れるようにして座り込む。深いため息を吐き、一度気持ちを落ち着かせた。
別に、深い理由なんてない。ただ「死にたいと思ったら」からだと説明すると烏はやれやれと言いたげに首をふる。
「そうじゃない。俺が聞いているのは”お前さんがその行為に踏み切った理由“だよ。要は動機、原因さ。それとも何かい。人間てなぁ思った事をすぐに実行に移しちまう愚かな生物だったのかい?」
行動に踏み切った動機、と一言に言われても、人間からすれば思い当たる節がありすぎてどれがきっかけになるのかわからなかった。
そうやって困惑していると、烏はそれを見透かしたように「まぁなんだ。一つひとつ話してみな」と。そう言ってひょんひょんと小さく飛び跳ねるように歩み寄ってきて人間の隣で止まった。
さて、一つひとつ話してみろと改めて言われるとやはり困ってしまう物で、中には思い出したくもないような記憶もある。しかし、このトンチキな現状を抜ける為にも男は喉を震わせる。
まずはあれだ。仕事をクビになった。これが直接の理由になっているわけではないが大元の原因はこれだったように思う。別段何か失敗したわけではない。むしろ勤務態度はそこまで悪くなかったはずだと自負するほどだ。しかしある日、上司に呼び出された際に言われたのだ。「こちらとしては君のこれからのことも考えて、『自主都合退職』とした方がいいんじゃないか」と。もちろん反発した。何せ自分は悪い事などしていないはずだし、そうする理由もない。すると会社は、人間を解雇処分とした。訳が分からなかった。
なぜ悪い事をしていない人間が間引かれなければならないのか。それが理解できなかった。
その後、もちろん別の仕事をしようと奮闘した。しかしどこに行っても先程の『解雇処分』がつて回る。何かしたのではないだろうか。もしくは何をしてしまったのか。そう言った疑念が、人間の未来を塗りつぶしたのだ。そして仕事につくことができなくなった。
そうなるともちろん収入がなくなるので今までの貯金でやりくりしていかなければならないが、人間ができる貯金など数ヶ月すれば露と消えてしまう。
そしてとうとう家賃が払えなくなってしまった人間は住むところを追われた。現代社会に於いて露頭に迷うなど、本当にあるのかと困惑した。
そこで、金を借りる事を考えた。しかし、住所もなしでは金は借りれず、借りた物はいつかは返さなければならないという考えが襟足を掴んで離さない。
結局金を借りることもできずにいた人間は日雇いの仕事を貰い、ネットカフェで寝泊りし「何か安定した職業に就かなければ」と躍起になった。しかしこれがいけなかった。
焦れば焦るほど、もがけばもがくほど深みにはまっていく。そうして深みにはまっていくとさらに焦る。典型的な悪循環。それはさながら並べて立てたドミノを端から倒していくように。高層ビルの基礎を爆破してやれば自重で潰れていくようにずぶずぶと深みにはまっていった。
そうしてやがて到達する境地。自分になにができる?何をしてもうまくいかない自分なんかに一体何ができようか。そんな考え。この境地に立つと後は簡単だ。生きる事を諦め、全てを捨てて楽になろう(とは言っても、自分が持っているものなどもう何も無いのだが)。そういう考えにたどり着く。一種の悟りのようなものだ。
どこで聞いたか不確かだが、釈迦曰く「生きるということこそが最大の苦しみ」らしい。苦しいのは嫌だ。これまで苦しみの中で生きてきたのにまだ苦しまなければならないのか。だったらいっそ、この苦しみから抜け出したい。そう考えるのはおかしい事だろうか。
生物たるもの、呼吸できなければ苦しくなってくる。だから酸素を求めてもがく。苦しみから抜け出そうとする。何一つおかしいことではない。だから自分は今日ここに来て誰にも知られず首を吊り、この苦しみから逃れようとした。それがここに来た経緯で、ここで死のうとした理由だ。
なるほど、一つひとつ話すということは確かに大事だ。自分がなんで死のうとしていたのか思い出せた。そう納得した人間は再びロープに頸を通す。
「ふぅん、お前さんはだから死にたいってのかい。苦しみから解放されたいから死にたい。そう言いてぇんだな」
そうだ。そう気づかせてくれた。不思議な存在ではあったが、気づかせてくれて感謝している。
「あぁそうかい。しかしだな、そういう奴こそ死が迫ってきたときに『助けてくれ』だとか『死にたくない』って言うもんだぜ?」
烏の言葉が理解できない。何故?どうして?やりたい事をしているのに何故それを受け入れない?理解できない。
「お前さんが理解しようがしまいがそりゃお前さんの勝手だが、俺はお前さんみてぇな奴をここで何人も見てきたから分かるのさ。そうやって死んで楽になりてぇってやつは死ぬ間際、どいつもこいつも『死にたくない』って死んでいくんだ。俺からすりゃ、こっちの方が理解できないね。なんで心の底では拒絶するようなもんを受け入れようと努力してんだ」
どうやら、この場にいる一人と一羽は互いのことが理解できないらしい。しかしどうも引っかかる。と言うのも『心の底では拒絶するもの』とはいったいどう言うことだろう。
「あ?お前さんそんなものも知らねぇのか。…まぁそれも仕方ねぇんだろうな。生き物ってのはな、本当に死ぬってときにどうしても本能が浮き彫りになっちまうもんなんだよ。まぁあれだな、俺たちは自然界…食物連鎖ってモンの中にいるからよく知っているが、俺が生き物を食おうとするときは大体二つだ。獲物は『死にたくない』って懇願するか『助けてくれ』って逃げようとするかだ。どっちも生物なら誰しもが持ち合わせる”生存本能“によるものだな。そう、『生物なら誰しもが持ち合わせている』んだよ。解るか?」
そう言って、烏は「お前もその一人なんだよ」と言いたげに人間を睨みつける。しかし人間はやはりわからない。「これから死のう」「楽になりたい」と言う者に対して何故そのような話をするのか。やはりどこか脅しているような感覚が拭えない。烏の立ち位置と言動には違和感しか覚えない。
「まぁ俺に言わせりゃこんなところか。で、どうするんだい?結局お前さんは死ぬのかい?」
どこか憐むような声音で問われた人間は無意識に「生きる目的が見当たらないから」と返答する。それを聞いた烏は短くため息をつく。
「あぁそうかい。ま、そうしてくれるなら願ったりさ。じゃあ俺はこれ手で行くが、最後に一言だけ。
『生きる目的なんざ死にたくないで十分』なんだぜ。じゃあな」
そう言い残すと烏は何処かへと飛び立っていった。そして一人残された人間は頸にロープをかけた状態で立ち竦む。どうしても烏の最後の言葉が耳から離れない。と言っても、腑に落ちないわけではない。むしろ今まで必死になって探していた答えが見つかったような。そのような感覚だった。
死にたくない。生きる目的がそんな物でいいのだろうか。とどうしても疑問に思う部分がある。しかしその一言でどこか前を向いて歩いていけるような気さえする。そう考えると、ここでその答えが正しかったのか否か見る前に、人生を終わらせてしまうのは時期尚早という物ではないのだろうか。
ならばもう少しだけ、もうちょっとだけ頑張ってみよう。
そう考えたときだった。
どすん。と背中に何かがぶつかって来たような衝撃が走る。そのせいでバランスを崩し、今まで立っていた場所から飛び降りる。
そして重力によって落下し、結果輪が締まりロープが頸を絞め上げる。器官が絞められたことにより呼吸ができなくなり、血管が絞められたことにより血流が止まる。幸か不幸か頸が絞められた衝撃で脳と脊椎を繋ぐ神経系が千切れていないようで意識を保ったままだっった。しかし、このままではいずれ呼吸が出来ず死んでしまう。
視界が一気に赤くなり、しばらくすると白くなる。そしてしばらくすると暗くなっていくが、思考はとっ散らかっていてパニックになる。
このまま死んでしまうのか。せっかく前を向けそうだったのに…。せっかく新しい人生を歩んでいけそうだったのに…。
いやだ。いやだいやだいやだ。
「…しにたく……な………」
絞り出すような声が、誰もいない森に溶けて消える。
その様子を、枝の上から一羽の烏が見下ろしていた。