尻馬に乗ったもの
こうして千堂アリシアが改めて自分の存在を受け止められるようになる一方で、彼女がそうなれるように用意された舞台装置がジョン・牧紫栗の存在意義ではないはずだ。
しかし彼は、自分で自分の存在意義を確立する努力を怠ったことで自ら他者を引き立てる舞台装置となってしまったのかもしれない。
結局はそういうことなのだろう。
もちろん、誰しもが他人の引き立て役になることはあるだろう。人生において一度もそういうことがないという者の方がむしろ少ないかもしれない。
だが、人は誰しも自分の人生においては<主役>のはずである。にも拘らず他人の引き立て役で終わるというのは、果たして何が原因なのだろう? それはつまるところ、本人が自分の人生を生きられていないということに尽きるのではないだろうか?
誰かが作った価値観のレールをただなぞり、自分で考えないからそうなってしまうのではないだろうか?
それでも、他人を労われる人間であればまだマシだったのかもしれないが……
ジョン・牧紫栗が信じる<地球至上主義>も、<火星は地球の汚物捨て場>という考え方も、実は彼自身が思い付いたものではない。すでに誰かが唱えていたものを、単に自分にとって心地好いから、自分の主張として唱えやすかったから、その尻馬に乗ったものでしかない。
そのような形で他人をいくら罵ろうとも所詮は雑音の一つにしかなれない。<自分>はそこにはないのだ。他人の価値観を唱えるだけのスピーカーでしかないだろう。
しかも他人を貶めようと自ら<悪役>を演じようとするのだから、それでどうやって主役になろうというのか?
自分が主役になりたいと思うなら、<主役が主役として成立する物語>とはどのようなものか考えてみればいいのではないだろうか?
他人を貶めようと浅ましい暴言や悪態や罵詈雑言を並べる者をどうやって主役に据えればいいのか?
そんな者よりは、たとえささやかでも懸命に生きている人間の方が主役として映えると思わないか?
舞台装置のように扱われる<厄介者>は、結局、描かれない範囲でもそういう生き方をしてきたからこそそういう扱いしかできないのではないだろうか?
それでもただのチョイ役で終わってくれるなら<憐れな奴>と同情もしてもらえるかもしれないが、しつこく<悪役>を演じるなら、どのような結末を迎えるだろう?
少なくともハッピーエンドになる予感は欠片も持てない気がするのだが。
なのにどうしてそういう風に物事を見ることができずにわざわざ自分から不幸になりに行く者がいるのだろうか。
この時のジョン・牧紫栗がまさにそれだったのだろう。




