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道行

作者: 上田謡子

大学時代に書いた超短編のデータが出てきたのでアップしてみました(3年くらい前ですね)。

 ひとさし指とおや指の間を、ほんの一瞬、意識しないと感じないような弱々しさで、緑の葉が滑っていく。ほとんど毎日、急がなくてもいい大学の帰り道で幾度も幾度も、私は道の端に居並ぶ家々の花壇や生垣の葉に、こうやって通り過ぎざまに触れていくのだ。しかしあるはずの、期待するようなものはいつもそこにない。青々とした葉はいかにもみずみずしそうなのに、いざ触ってみると薄っぺらい存在感とパサパサと乾いた感触しかしない。それでもなぜだか、私は歩きながら目に入った葉に触れるのをやめない。


「さようなら」


 不意に耳に飛び込んできた声を受けて、私はくるりとそちらに顔を向けた。そして反射的とも言える動きで唇の両端を上に吊り上げ、頭を不恰好に軽く下げ、声を発していた。


「さようなら」


 挨拶をして通り過ぎていったのは、今日受けた授業の先生だった。老いの色の灰色の髪、丸眼鏡、くっきりとしたほうれい線、茶色のスーツ。もう見慣れた。しかし、と私は思う。あの人の背中は、あんなに小さかっただろうか。


 前から二番目の席から教壇に立つ彼を見た時も、隣に並んで小説や私の名前の漢字のことについて話した時も、そうは感じなかった。けれど今、私の前を歩いていく先生の背中は、ひどく小さかった。


 多分あれも本当なのだ。思い返してみれば横に立つと先生の頭はいつも私より下にあった。私の背が女の割には高いせいもある。私は醜かった。通学途中電車で自分より背の低い男と隣り合うと、ぴんと背筋を伸ばし相手にちらちらと目をやって優越感に浸る醜い女だった。その私が先生に対しては一度も背を意識したことがなかった。それも本当なのだ。


 ふと、左脇の花壇から道へ伸び出た一枚の葉が目にとまる。いつものように、なにげなく指先で触れた瞬間、ヒヤリと冷たい感触が弾けた。


 はっと立ち止まって見ると、指先が濡れている。そういえば今日の午前は雨が降っていた。きっと葉に雨水の雫が乗っていたのだろう。ただそれだけのことだ。ただそれだけのことだけども、何かが無音で繰り返し繰り返し問うていた。指を濡らしたのは何だったのか。


 指先にじっと目をやって俯けていた顔を上げると、先生の姿はもうなかった。この葉に触れる前までその背中に合わさっていた焦点が広がり、二本の路側帯とそれに挟まれた車道が立ち昇る。その上を歩いていく背中、背中、背中。ちょうど授業が終わった時間帯のこの道は、背中で溢れていた。そうやって背を見ている私の背もまた、誰かが見ている。


 老いの色の灰色の髪、丸眼鏡、くっきりとしたほうれい線、茶色のスーツ。あんな作り笑いはあの先生には不要だったかもしれない。


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