5.すれ違う心
「ねえ、どうして!?
陛下に何かあったの!?」
「いいえ、何もございません」
勢いよくかみついてみても、カジミールの口からは何も出てこない。
「どこか具合でもお悪いの?
そうだったら私、おそばについていたいの!
それとも、何かおかしなことでも起きたとか——」
「いいえ、王妃さま。何も、ございません」
まるでそれしか言えないように、陛下の右腕は何度もそう繰り返す。
いきり立つシャルロットに、オレリアが言う。
「落ち着きなよ、シャルロット」
「この状況で落ち着ける王妃なんている!?」
ユーグの誕生日からもう半月経つのだ。
あの日以来、アルフォンスがシャルロットと顔を合わせることはほとんどない。
お茶会はおろか、寝室へ戻ることもなく、定刻の食事にも顔を出さない。
いったいどうしてしまったというのか。
「王妃さま、陛下の詰めておられる執務室には、それなりの寝具も準備してございます。
王妃さまがご心配なさらずとも、陛下はちゃんと暮らしておいでです」
「へえ、つまり、陛下は王妃から離れて生活できるように普段から準備しているってことか」
オレリアが冷静に言うと、カジミールがじろりと視線を送る。
睨み合う二人に構う余裕もなく、シャルロットはカジミールに言った。
「お願い、陛下に会わせて。
もし、私が何か不出来な真似をしたのであれば、ちゃんと謝りたいの。
ご機嫌を損ねるようなことをしたのであれば、これから悪かったところを直していくようにしますから。
お願い、カジミール。私に謝罪する機会をください」
「いいえ、その必要はございません」
「そんな……」
必要がないなんて。
アルフォンスの意図が、気持ちが、考えが、まったく計れない。
不安と怒りとが交互に沸いては沈んでいく。
「カジミール、あなた、何か言いたいことがあって来たんじゃないのか?」
激昂していて気がつかなかったが、今日のオレリアの声は抑揚がなくて、静かだ。
まるで嵐の前のように。
「どうしてそう思われる?」
「近頃あなたがこそこそと動き回ってること、私が知らないとでも?」
黙ってしまったカジミールに、オレリアが低く言った。
「次のお妃候補を探してるんだろう?」
「次の、って……」
シャルロットは頭を停止したまま、カジミールの方を向いた。
冷たく閉ざしているその口が開かれるまでの時間が、あまりに長かった。
「ご賢察、恐れ入ります、王妃さま」
それは——。
「近いうちに正式に話が参りますので——」
「いい。それ以上、言わないで」
聞きたくない、と耳をふさぐこともできないほど、身体から力が抜けている。隣のオレリアが、怒気を帯びた声で言う。
「いい加減にしときなよ、あなたも、陛下も。
うちのシャルロットは侍女にも人気でね。
シャルロット王妃殿下の首を切るような真似したら、侍女たちが黙っちゃいないよ」
「……そのように、申し伝えます」
誠実な部下は一礼のあと部屋を出て行った。
扉が閉まるのと同時に、頬を涙がひとつぶ伝い、落ちた。
「シャルロット……」
かける言葉もなく立ちすくむオレリアの姿がぼやけて見えない。
ぽろぽろと、止めどなく、こぼれる。
離縁される。
ロマンス小説らしい道行き。
これが、こんなつらい気持ちが。
熱くて、苦しい。
そうやっていつまでもしくしくと泣いていられたらよかったのに。
シャルロットは思う。
悲しみを悲しみのまま保存することができればもう少し物語的になるのだが、それができない性質となれば仕方がない。
とことん、ヒロインには向かないのだ。
バカっ!
わからずやっ!
鈍感っ!
陰険っ!!
シャルロットはひとり、厨房の片隅でクッキー生地を練っていた。
さすがに声に出しはしないが、胸の内の毒づきに合わせて、両手に収まる生地がうねる。
しかし、シャルロットの苛立ちは身体中から発散されているようで、必要な材料と道具を整えてくれた料理長と侍女は早々に厨房から退散していった。
ぼんやりっ!
身勝手っ!
嘘つきっ!
弱虫っ!
罵詈雑言の語彙が早々に尽きてしまうのが悔しい。
だいたい、愛読してきたロマンス小説にはこんな口汚い罵りは滅多に出てこない。
いや、出てきたんだろうか……わからない。
両手をふっと休める。
アルフォンスに訊かれたことが、今更のように頭に蘇る。
——最後はどうなるのです? お互いに心を閉ざした王と王妃は。
そんなの知らない。
だって、最後までなんて読んだことないんだもの。
オレリアはシャルロットを『ロマンス小説の読み過ぎ』と断じたが、実のところ、ロマンス小説一冊を最後まで読み切った試しなどほとんどないのだ。
どの本にも中途半端なところで栞が挟まっている。
怖いのだ。
心を閉ざし合う王と王妃の物語なんて、どうせ最後はお互いに心を許し合ってハッピーエンドだ。
そんなの読みたくない。
わかりきっているからではなくて、到底自分はそんなふうになれないから。
結局自分は、誰かを愛し誰かに愛されるヒロインのように生きることはできないんだ——
そう、物語の花嫁になった、姉のようには。
なんて浅はかな自分!
王家に嫁ぐことになって、そこで冷遇されるであろう自分を物語のヒロインに擬して生きようなんて目論んで、そうして結局は何もかもうまくいかないまま、今、離縁されようとしている——。
ああ、弱虫、弱虫、弱虫!
誰であろう、自分自身が何よりも、弱虫。
にじみそうになる視界を強引にぬぐって、再び手元の生地を練る。
石釜から小麦の焼けるいい匂いがする中、椅子に座ったシャルロットは作業台にだらりと伏せた。
怒りは生地を練るパワーに消費したおかげで落ち着いたが、さすがに疲れた。
ふう、と溜め息をつくと、後ろで扉の開く音がした。
身体を起こして振り返ると、驚いた顔のユーグと目が合った。
「ユーグ、こんなところでどうしたの?」
「王妃さま……」
ユーグはどこかバツが悪そうに言った。
どうやら気づかれないように扉を開けようとしていたらしい。
「何か、あったの?」
「……お父さまはお仕事だし、お母さまもいなくて。ひとりで、お散歩、してたの……」
「それで、クッキーの匂いにつられて来たのね?」
遠慮がちに頷いたユーグの顔に、静かな翳りが降りている。
シャルロットは出来る限り明るく言った。
「じゃあ、私と一緒にクッキー食べよう?」
「え……」
「もうすぐ焼けるわ。誰かに食べてもらいたいなぁって思ってたところなの」
「……」
「だめかな?
大丈夫、お菓子を食べたことは、ジュリアン様にもエヴリーヌ様にも内緒にしておくから、ね?」
内緒、という言葉に魅かれるように、ユーグはとことこと厨房に入ってきて言った。
「ありがとう、王妃さま」
「『王妃さま』だなんていいよ。シャルロット、って呼んで」
近くの椅子を引き寄せて座らせる。
あたたかいミルクティを差し出すと、ユーグは遠慮がちに言った。
「でも、お父さまもお母さまも、王妃さまのことはちゃんと王妃さまって呼びなさい、って……
それに、王妃さまはお忙しいのだから、遊んでもらいに行っちゃだめ、って」
誕生日パーティーのときのジュリアンを思い出す。
国王である弟を気遣ってのことだとはわかっていても、ぎこちない視線を交わし合う真ん中にいるユーグが寂しげにしている様子に、胸が痛む。
石釜からそっと天板を取り出してみると、クッキーはいい色に焼き上がっていた。
「ねえ、シャルロット……お姉ちゃん」
目の前に置かれたクッキーの匂いにつられるように頭を上げて、ユーグが名前を呼んだ。
呼び捨てにするのは憚られたのか、どこか恥ずかしそうだ。
「陛下のこと、好き?」
「えっ」
あまりに真摯な瞳で訊かれ、シャルロットはどぎまぎと口ごもった。
大して好きじゃないなんて、嘘。
好きだと言うのは恥ずかしいほどに、真実。
不意の問いかけに改めてはっきりと自覚される気持ちを見つめながら、シャルロットはそっと頷いた。
「そっかぁ……よかった。
それなら、シャルロットお姉ちゃんはずっと、お城にいてくれるよね?
王妃さまでいてくれるよね?」
畳み掛けるように問うユーグの顔に、ようやく愛らしい笑みが浮かんだ。
もちろんよ、と言いたいのに言えないのがつらい。
「ぼくも、陛下のこと、大好き。
陛下はね、おもしろいお話をたっくさんしてくれるんだよ!
ぼくの大好きな七匹の竜のお話も、陛下が教えてくれたんだ」
アルフォンスがユーグに語り聞かせる姿が目に浮かぶ。
誕生日プレゼントに書庫の鍵を贈ることを提案したときの嬉しそうな表情が、今も忘れられない。
そんなに前の話でもないのに、もう遠い昔のような気がする。
ユーグはふいにトーンを落として呟いた。
「……お父さまもお母さまも、陛下のこと、大好きなんだよ。
そうは、見えないかもしれないけれど。
大好きなのに、あまり近づかないようにしてる。
それってやっぱり、ぼくのせいなのかな?
ぼくが……」
それ以上は言いづらそうに口ごもる。
「……陛下は、いつも寂しそう。
陛下って、ひとりぼっちなのかな?
お話の中の王様は、みんな強くてかっこよくて、みんな、王様になりたがるけど……。
ひとりぼっちならぼくは、王様になんて、なりたくない……」
大好きな物語のように何もかもがうまくいったりはしない。
めでたしめでたしの先は、誰にもわからない。
身に覚えのある悲しみを小さな胸に抱え込んでいるユーグに、シャルロットは精一杯力強く言った。
「大丈夫、陛下はひとりぼっちなんかじゃないわ。
ユーグがいてくれるんだもの。
心強く思っていらっしゃるわ。
陛下もユーグのこと、大好きなの。
だから、陛下はひとりぼっちなんかじゃないわ」
「……ほんとう?」
このことだけは、自信を持って答えられる。
「もちろんよ」
「ありがとう、シャルロットお姉ちゃん」
出会って以来いちばんと思えるくらいの笑顔で、ユーグは言った。
「ぼくね!
シャルロットお姉ちゃんのことも大好きだよ!」
「あら」