2.回廊にて
婚礼の日からまだ幾日も経たないからだろうとは思うが、それにしてもシャルロットは退屈だった。
もうしばらくすれば、王妃が名を連ねるべき慈善事業だとか、陛下の地方の視察に同行するだとかで忙しくなるのだろう。
しかし、この退屈さ、時間の持て余しようには、拭えぬ違和感がある。
もっとこう、お妃教育的なのがあってもいいんじゃないかしら。
そう、たとえば口うるさい乳母にがみがみと叱られる、とか。
妃ともなった方がこれくらいのことを知らないでどうします、国王と添い遂げるお覚悟がないならば即刻ここを出てお行きなさい——
しかし、そんなことが起こる気配はみじんもない。
要するに、諦められているのだろう。
シャルロットはオレリアと話をする中で、そう結論を出した。
つまり、どうせ今度の王妃もそのうち離縁されるに決まっているのだから、時間と金を費やしてお妃教育をしたって仕方がない、ということだ。
確かに、一理ある。
王家の浪費は、国民の疲弊につながる。
そんな理由で自分が放ったらかしにされているのならば、大して悪い話ではないとすらシャルロットは思っていた。
とは言え、期待されないならばされないままでいられる性質ではなかった。
中庭の脇を通り、渡り廊下を抜け、見覚えのある回廊を横切ったところで、後ろから男の声がした。
「これはこれは、シャルロット王妃殿下。
ご機嫌麗しゅう存じます」
婚礼の日に、列席者の中でも最前列に並んでいた男の顔を思い出す。
「……ええ。
今日もお役目ご苦労様、オリオール卿——
で、よろしかったかしら?」
馬鹿正直に覚えていないことを明らかにしてしまう自分もどうかと思いながら、シャルロットは率直に訊いた。
「ええ、そうです。覚えておられたとは驚きです、
いや、覚えて頂けて光栄ですと言うべきですかな。
もしくは、覚えておられるなどご苦労なことで、とでも申しましょうか」
相手はシャルロットよりも馬鹿正直で慇懃無礼だった。
お妃教育無駄説に一票を投じるような台詞を吐いて、そのまま言葉を切る気配もない。
「どちらへいらっしゃるおつもりで?」
「書庫を拝見しようかと」
「ああ、申し訳ございません。
今、書庫は改装中でお入り頂けないのですよ」
暇なうちに王家の歴史でも勉強しておこうかと珍しく殊勝な気持ちで足を向けていたのだが、それなら仕方がない。
これからどうしようか、とシャルロットが考えようとする中、オリオール卿が構わずに話を続けた。
「時に王妃さま、城での生活はもう慣れましたかな?
あまりお疲れの様子もございませんな。
いや、結構なことでございます。人間、健康が一番。
陛下が王妃さまにいろいろと無理強いなさらなければよいと思っていたのですが、杞憂で終わりそうですな」
シャルロットが口を挟むタイミングを完全に逸したまま、オリオール卿は言葉に詰まることもなく話し続ける。
「今回のお輿入れの話を聞いて、戦々恐々としていたのですよ。
ビュケ家のお嬢様は都でも美貌で名高い御方。
それほどの女性ならば、ついに陛下のお心をとらえてしまうのではないかとね。
それが、実際に嫁いでいらしたのはそうではない妹君の方だったものだから、安心したのですよ」
よし、ようやくそれらしい人が現れたわ。
自分の陰口を日向で叩かれているにも関わらず、思わず内心でガッツポーズをしてしまう。
そうそう、こういうのを待っていたのよ。
私の知っている物語は、だいたいこういう陰険で意地悪でちょーっと頭の禿げかかった大臣が出て来るものだ。
「本当にそうではない王妃さまが嫁いで来てくださってよろしゅうございました。
王家は安泰、ジュリアン様もさぞやお心安らかでいらっしゃるだろう」
ちょっと待って……
陛下の兄上であるジュリアン様の名前が、なぜここで出てくるの?
「聞き捨てなりませんな、オリオール卿」
突然後ろから違う声が上がって、シャルロットは振り返った。
「エストレ卿」
「ご機嫌麗しゅう、王妃殿下」
優雅な挨拶。
しかし視線はシャルロットではなく完全にオリオール卿をとらえ、声は毛羽立っている。
エストレ卿もオリオール卿と同じく、筆頭の位置にある重臣だ。
エストレ卿のほうがオリオール卿より少し年嵩のはずだが、エストレ卿を見据えるオリオール卿には年長者に対する遠慮も礼儀もない。
ふうん。
この二人は、あんまり仲が良くないらしい……と。
視線をぴしぴしと交わし合う二人のあいだで、シャルロットはページの片隅に書き込んだ。
「ジュリアン様を引き合いに出されるのは穏やかではありませんな。
王妃さまには今度こそ、陛下と長く、仲睦まじくお暮らし頂かなくては。
それこそをジュリアン様もお望みでいらっしゃることでしょう。
オリオール卿がジュリアン様を慕っていらっしゃるのは結構だが、王家の名に傷をつけるような発言は慎んで頂きたい」
「……あの……」
「そのように聞こえたなら失礼。
しかし貴殿こそ、はっきりと仰ればよいではないか。
長く、仲睦まじくなどと遠回しに言わずとも、王妃さまには一刻も早く御子を産んでもらわねばならない、しかも男の子を、と。
陛下のことを第一にお考えになる貴殿だ。
王妃さま云々よりも、それがいちばん気がかりでいらっしゃるのだろう?」
「国の今後、王家の未来を思う臣下であれば誰もがそれを気にかけ、望んでおるでしょうな。
私は陛下に仕える者として動くのみ——すべては陛下を思う心あればこそ。
どこかの誰かのように私腹を肥やすことに心を砕いているわけではありませんからな、そこはご承知おき頂きたいところだ」
「……ちょっと……」
「それはどうかな、エストレ卿。
ジュリアン様にも取り入って、ご自分の地位を安定させようとなさっているのは、いったいどなたの噂話だったか。
……しかし、そうなさるのも無理はない。
あの陛下ではな」
あの陛下ではな、ですって?
陰々滅々とつづく嫌味の応酬に苛立った気持ちが、その一言で爆ぜた。
「いい加減になさいませっ!」
たっぷりと残響を残して、シャルロットの大声が言い争う男たちの耳をつんざいた。
「よくもまあお城の中でぐちぐちぺらぺらねちねち陰口を叩けますわ!
人前で他人の悪口を言うなんて品のないこと、恥知らずとはあなた方のことを言うのだわ!
それが陛下に忠誠を誓う臣下がとる態度ですか!?
まだ結婚してすぐの私にこんなことで怒鳴られるなんて、恥ずかしいとお思いにならないの!?」
しかもまだ一緒にベッドで寝たことすらない王妃だっていうのに!
勢い込んで余計なことまで口走りそうになるのをぐっとこらえる。
乱れる息を整えて、シャルロットはきっぱりと言った。
「私のことは、なんとでも仰ってください」
だってそのほうが安心するんだもの。
本音は辛うじて口に出さずに済んだ。
そんなことより、ずっと気にかかるのはこっち。
「でも、これ以上、陛下のことを悪く仰るのはおやめ下さい。
でないと……せっかくのご立派な口ひげを、ひん曲げて差し上げてよ!!」
「なっ——」
気圧されてのけぞる二人めがけて、さあさあと口ひげにつかみかかろうとしたそのとき。
「そこまでですよ、王妃」
伸ばした手をそのままに振り返る。
それと同時に、オリオール卿とエストレ卿が飛び上がらんばかりに大声を上げた。
「……へ、陛下! いつから——」
「王妃、あまり大声を出すと、城の皆が驚きます。
ここの回廊は、意外と声がよく通るのです」
二人の問いかけには応じるふうもなく、アルフォンスは真っ直ぐシャルロットに向かって言った。
いつもどおりの穏やかな声がこの場に似つかわしくなくて、怖いくらいだ。
本当に、いつからここにいらっしゃったのだろう。
全部、聞いていたのだろうか?
側近の陰口も、自分の大声も。
もちろん、問う勇気は、ない。
「……申し訳ありません、陛下」
「おわかり頂ければよいのです。
ところでオリオール卿、こんなところにいらっしゃってよいのですか?
近衛師団の定例会議の時間ですよ。
それにエストレ卿、お任せしていた書庫の改装の件で、設計士があなたを探していました。
行って差し上げてください」
「は、はい、ただいま……あっ」
シャルロットの大声とアルフォンスの穏やかな声に顔を青白くさせている二人の視線が、シャルロットの後ろで釘付けになる。
「!?
ジュ、ジュリアン様!
お戻りでいらっしゃいましたか」
振り向くと、未だ外套を着込んだままのジュリアンとエヴリーヌ、そして、その足元でこちらの様子をうかがっているユーグがいた。
「今戻ったばかりだ。
……陛下、ただいま戻りました。
遅くなって申し訳ありません」
「兄上……」
一瞬の間を置いて、アルフォンスは努めたように柔和に言った。
「お帰りなさい。
エヴリーヌも、お疲れさまでした。
どうぞゆっくり休んでください」
「もったいないお言葉でございます、陛下。
ほら、ユーグ。
ご挨拶を申し上げなさい」
エヴリーヌが淑やかに答えつつ、ユーグの背中をそっと押した。
「陛下! 王妃さま!
あの、ただいま戻りました!」
両親の公務に同行してきたわりには未だ元気が有り余っている様子のユーグは、にこにこと笑いながら頭を下げる。
アルフォンスは屈んでユーグに目線をあわせて言った。
「お帰りなさい。
元気そうでなによりです」
「はい! あの、あのね、陛下——」
「私たちは、一度自室に戻ります。
このあとは、近衛師団の定例会議に出席致します。
報告書は、あとで提出致します」
ユーグが言いかけたことに気づかなかったのか、ジュリアンがきりきりと用件を告げた。
「……ええ、兄上。
よろしくお願いします」
こう、もう少し、何かあってもいいんじゃないのかしら。
答えるアルフォンスの隣で、シャルロットは胸の内でそう呟かざるを得なかった。
アルフォンスとシャルロットの婚礼以来に、肉親が顔を合わせるのだ。
……まあ、自分と姉だったらもうちょっと話をつづけるかと言うと、その自信もないけれど。
「では、失礼致します」
一礼して踵を返すジュリアンに着いて、エヴリーヌが息子の小さな手を引いて振り返る。
「陛下! 王妃さま!」
ユーグはいやいやをするように母親の手をふりほどくと、子うさぎが飛び跳ねるようにアルフォンスとシャルロットの前へ戻ってきた。
「ユーグ、陛下と王妃さまの御前ですよ、はしゃがないの……!」
「だって、お母さま——」
「よいのですよ、エヴリーヌ」
アルフォンスがそう言うと、足を止めて様子をうかがうジュリアンが眉をひそめる。
気を取り直すように、アルフォンスは再びユーグの視線に合うように屈み込んだ。
「どうしましたか、ユーグ。
私たちに、何か御用ですか?」
「はい! あの、陛下、王妃さま。
再来週のぼくの誕生日パーティーに、来てください!
これ、しょうと、たいしょ、ええっと、あ、しょうたい……招待状、です!」
ユーグのポケットから『へいか、おうひさまへ!』と書かれた紙が差し出された。
くしゃりとしわが寄っている。
「招待状なんて、そんな難しい言葉、よく知っていますね」
「はい、王妃さま!」
誉められたことが素直に嬉しいらしく、ユーグは満面の笑みで答えた。
「ジュリアン様——」
「控えてくれ、オリオール卿」
隅で控えていた側近が抗議のような声を上げるのを、ジュリアンがきっぱりと止めた。
弟とは違い、兄は引き締めた口元から鋭い言葉を投げかけるタイプらしい。
ぴしゃりと押さえつけられては、口の減らないオリオール卿でもそれ以上は何も言えないようだ。
ただ、きっぱりとした口調と裏腹に、ジュリアンも複雑な顔だ。
息子がそんな招待状を準備していたとは知らなかったらしい。
アルフォンスは屈んだまま動きを止め、なかなか招待状を受け取らない。
明らかに困っている。
そうなると、もどかしくなるのはシャルロットの方だ。
ふくらみの大きいドレスの裾を引きずるのも構わず、シャルロットもユーグの目線に合わせるように屈んだ。
衣擦れの音に、周り全員が驚いて息を呑む。
「ありがとう、ユーグ。
ぜひ、出席します。
プレゼント、楽しみにしていてね。
……そうですよね、陛下?」
「え……ええ、もちろん」
背中を押すように言ったシャルロットに、アルフォンスは我に返ったように答える。
「ありがとう陛下、王妃さま! ……ございます!」
はにかむユーグの頭上へ目線をやって、アルフォンスはジュリアンに問うた。
「よいのですか、兄上。
お招き頂いても」
「……ええ、もちろんです、陛下」
会話の隙間にぽつりぽつりと生まれる不自然な一瞬。
まるで、読んでいた本に突然白いページが現れたような、そんな気分。
なんだか、へん。
シャルロットはそう思いながら、アルフォンスの横顔をそっと盗み見た。
エヴリーヌとユーグを引き連れて帰るジュリアンの背中を見送る彼の眼差しは、どこか寂しげに見えた。