一録 濁流に呑まれて
──…………。
暗い暗い場所に灯りは無く。一差しの光も無い空と、本来の色など検討もつかない程までに濁りきった水の流れ。それが果てなく、ただ淡々と続く名も知れぬ場所。
化け物は深い濁流に飲み込まれていた。当然、水の中で息が出来る筈も無いが、化け物は息苦しさは覚えない。
故に、流れに逆らい空を目指す気もない。そもそも、こうも暗闇に包まれていては自身が海底に沈んでいるのか、空に浮かび上がっているのも分からない。
──…………。
化け物には上も下もどうでも善かった。なら、成されるがまま、成るがまま、流れに身を任す。
何日──何年──何百年──そうして、いただろうか。
自身の形も、意思も、記憶も、好きに飲み込ませた。そして、自分の概念を忘れた彼がたった一つ理解する事は、この中で足掻だけ無駄と言うこと。
だから、声が聞こえる方に流されても抵抗などしなかった。
「おい、さっさと起きろ。仕事だ」
「ん~……」
乱暴に開けられたカーテンから、朝日が差しベットの上で毛布にくるまった人物は眩しそうにモゾモゾと動きだし──より深く毛布を被る。それに、ベット横に立つ男はかなり強めの蹴りを入れる。
だが、空しくも人物に利いた様子は欠片もなく、穏やかな寝息が男の心中を逆撫でするように聞こえてくる。
「お・き・ろ!」
「えー……、まだ良いじゃないか。ボクは眠いのだけれど」
「知るか、仕事なんだ。さっさと、しろ」
ベリッと引っ付いた毛布を剥ぎ取り、寝間着姿の人物に服を投げつける。それを顔面に受けながら、人物は男に指を指し吠えた。
「仕事仕事って、"ボク"と"仕事"どっちが大事なのさぁ!」
「そんなの──"仕事"に決まっているだろ。寝惚けてないで早くしろ」
「わぁぁーー、ディラ君の薄情者!」
人物は大袈裟に床に踞り、この仕事中毒がぁ!と言う。
それを髪の隙間から覗く、冷めた琥珀色の左目で見ながら男──ディラこと、"ディラルク・ムーンゲル"は溜め息と共に椅子に座る。腰ほどまである深紫色の長髪に、白い肌と対を成すかの様に着込むコート、トータルネック、ズボン、ブーツは黒尽くし。何処か作りめいた整った仏頂面が、何かと近より難い雰囲気と放つ。
「……逆に俺がお前を取ると本当に思ったのか?」
「いや?全然、鉛筆の削りカス程も思っていないよ」
「なら、聞くな…………一分経ったら引きずってでも連れていくぞ」
「ハーイ」
だが、人物は彼の不機嫌な態度を気にした風もなく、ダラダラと寝間着を着替える。
ディラルクの様に只の白肌ではなく、日の光を拒絶したかのような肌に白シャツの袖を通し。群青色の髪と同じ青のネクタイをし、マフラーともネックオーマーとも言えないモフモフしたモノを首に巻く。そして、ディラルクのコートと似たデザインの黒の上衣と下衣を着終え、ベットから降りる。
人物とディラルクが横に立てば、子供と大人ぐらいの背丈の為、必然的に人物は上目遣いで彼を見上げる。
「ねぇ、ディラ君今日のディナーは?」
「あぁ…………『巨大な鯰』と『食べ放題のイナゴ』だ」
「えぇー……、あんまり食べごたえが無さそう……」
「それよりも、ログ。……分かってるんだろうな?」
「分かってる、分かってるよ。何度も耳にタコが出来るぐらい聞いたからね」
ディラルクの問いかけに手をヒラヒラさせ、聞き飽きたと文句を言い、人物──ログこと、"ログロク・ヘル・シャトルフ"はブーツを掃く。
「『モノを壊すな』『無駄に暴れるな』『命令違反はするな』でしょ?」
「分かっているなら、きちんと守れ」