第七話 サラリーマンの会話
首都氷野市などがある中央地方で、桜が満開を迎えようとしている三月末、首都から西方約二十キロにある多摩市に本社を置くあるお菓子メーカーの休憩室で、二人の従業員が昼食を取っていた。
「なあ、訊いていいか?」
黒いスーツを椅子の背に掛け白ワイシャツの袖をまくっている赤ネクタイの男が、クリーム色の会議机の向かいに座る同僚に視線を送る。二人の前には簡素な使い捨ての木製弁当箱が置かれ、声を掛けた男は二口三口手をつけただけで、割り箸を宙で弄んでいる。
もう一人は忙しそうに、口に白米を詰め込みながら目だけで問い返す。
それに呆れたようにはあっと息を吐くと、嫌そうな顔で言う。
「これ、うまいか? 前のラインナップの方が、俺は好みだったなあ」
スーツをきっちり着た青ネクタイの同期の社員は口をもぐもぐさせつつ、銀縁四角眼鏡の奥で目を丸くする。自宅から持って来た緑の丸い竹製の水筒の蓋を開け、逆さに置いてコップにすると、とくとくと冷たい緑茶を注ぐ。それを一気に仰いで全てを飲み下すと、やっと口を開いた。
「そうか? おれは大好きだぞ」
「だろうねえ。見るからに幸せそうな食べっぷりだったよ」
それを聞いて同僚がはははと笑うと、中年を迎えて出てきた腹がたぷたぷ揺れる。それから、人の悪い顔になって詰め寄る。
「しかしお前さん、このケータリングのお弁当にいちゃもんをつけるのは、大王政府に唾を吐くのと同じだぞ?」
伊達派では、全ての企業が経済企業省という一省の管理下にあり、企業活動によって得た利益に政府からの助成金を六割ほど加えて、活動資本としている。要は、私営企業は存在せず、全部が国営企業なのだ。
こう言うと、社会主義のように聞こえるが、別に五カ年計画のような計画経済制は取られておらず、あくまで自由な取引をベースとしながら、商品価格の異常高騰や生産過剰、放漫経営などの問題が発生、または、その恐れがある場合のみ、経済企業省が強制的な指導・監督に入って経済の安定を図るという制度である。
王国の経済は今羽振りがよくないと大王を筆頭に懸念の声が方々で上がっているけれども、はっきり言って、政府の介入による強力な景気安定化機構がある以上、相対的にはそんなもの高が知れている。完全自由競争で市場の原理に何もかも丸投げな北条派など、一旦破綻すれば、えらいことになる。しかも、内紛が非常に多い分、景気も不安定になりやすく、伊達派の優秀な経済システムは敵と言えど魅力的なようで、事実、それを理由にした亡命者は数知れない。
赤ネクタイの方は、一瞬、また笑い出す同期を不思議そうに見つめてから、ああと頷いて、一緒に笑い始める。その不自然かもしれない間に気が付いても、別段青ネクタイは何も言わない。そういう事情だからだ。北条派から伊達派への亡命は、古来、別段珍しいことではないのである。――皇女は稀有だが。
愉快そうに笑いあった後、赤ネクタイは結局諦めて箸を動かし、しばらく食事の音だけがクリーム色に囲まれた清潔な会議室に響く。
青ネクタイが先に食べ終わると、割り箸を折って空の弁当箱に入れ、木のぺラッとした蓋をかぶせて、手を合わせる。それから、再び水筒の緑茶をついで、一口すすった。会議室の窓のすぐ外には、枝がしなるほど花がついた桜の木が見える。鉄筋コンクリート七階建ての本社ビルの五階から見えるとは、よほど立派な株なのだろう。花も実に見事だ。それを眺めながら、もう一口飲むと、目を細め弾んだ声で言う。
「合一祭が近いな」
ところが、赤ネクタイは箸を止めて、何だそれはと顔だけで訊き返す。これにはさすがに驚いた、と言わんばかりの目をするが、まあ、仕方ないなと思い直してその正体を教える。
「始祖両家合一祭だ。太古の時代、伊達家と氷野家それぞれのご先祖様が出会い、国家成立の基盤を作られたことをお祝いするお祭りだ。一月一日・伊達家成立を祝う大王朝記念日、五月十四日・現在の首都近郊での氷野家成立を祝う多摩川記念祭、二月八日・真仁大父大王陛下ご生誕を祝う大父降誕祭、七月十七日・氷野家当主にあらせられる春瀬大母殿下ご生誕を祝う大母降誕祭。これに、今度の四月一日の始祖両家合一祭を加えて、五大記念祭と言うんだ」
「北条派では、せいぜい陛下の降誕祭だけだったな。ほんとにあっちは血統というものにまるで興味がなかったから、一族の誕生とか国家成立を祝うなんて正直感覚的によく分かんないね」
「じゃあ、ぜひ一緒に行こう。合一祭は五大祭の中でも最も大きいお祭りなんだ。この前後一週間くらい、春休みを取って帰省する奴が多いから、一緒に行く人の当てがなくて困ってたんだよ」
「お前、家族いただろ?」
「娘が思春期でね……家内からは臭いから嫌だって……」
「あ、ああ。俺が悪かった」
世界どこに行っても、ここは変わらないのだ。
娘と妻から避けられて気を落とす憐れな父の図に慌てて空気を変える。
「あ、あれだな、社員も減ってたよなあ、ここ一週間。それに、なんだっけ? 大王近衛騎兵隊隊長のー、えーと、そうだ、西部氷野伯家華穂殿下も、騎兵隊本部のある首都を離れて遠西地方の実家に帰ってるらしいな。新聞にそうあった」
ちなみに、もちろんこの新聞も私的企業の発行ではない。郵便省下の新聞庁が一元的に報道は担っている。
青ネクタイの父親は、空気を読んで気を取り直そうと机の端の竹かごに入れられた紫色の包装紙に包まれた新商品の試食品に手を伸ばす。が、どうにも遠くて届かない。それを見かねた赤ネクタイは、
「ほれ」
と声を掛ける。体を横に伸ばしたまま顔だけ声の主の方に向けると、目の前に開かれた左手には親指大で四角柱のサンプルが二個のっていた。
「おう。ありがとう」
体を起こすと、自分の前の机に試食用が一つ現れた。
「いやあ、おれは羨ましいよ。その能力。便利そうだ」
「伊達派ではそう評価されるからありがたい。北条派では、人を殺せない能力に価値なんかないさ……」
青ネクタイはぶるるっと震え上がる。
「恐ろしいな。やはりそれだけ内紛も多いのか?」
「そうだな。伊達派は、政治的には立憲君主制の法治主義で、経済的には公企業法と経済企業省による部分的国家主導経済主義で、社会的には国家モデルを家族とする伝統の国家家族主義で、本当に安定した治世に成功してる。対して、北条派は、こっちで“万年内紛国家”と呼ばれている通りだ。政治的には家臣団の権力闘争を多分にはらむ独裁制で、経済的には津波よりも乱高下が激しい、けれど落ちる方がほとんどな完全自由競争主義で、両面ともに常に不安定だ。社会的には、強さという絶対的な価値への信仰から、その強さを他人に見せ付けるために、絶えず殺し合いをしている。思うに、伊達派は勝者も敗者も出さない非常に落ち着いた社会だ。それはほとんど理想的だが、ひとたび強さにおける絶対的な勝者の集まりである北条派とやり合えば、痛手を負うのは不可避だろう」
話を聞きつつ、包装紙を剥いて、サツマイモのような紫色をした新製品のお菓子の黒い粒々をまじまじと見つめていたが、はっとして急にそれを口にほおると、ぶんぶん両手を振り回して顔を真っ赤にする。
「まったくだ! だと言うのに、軍部と議会の奴らめ! 臣民の意思を完全に無視してパンゲア政策に反対するとは、まさに酷く外道で下水管みたいな匂いと味がするすごくマズイッ」
後ちょっとで口に入れそうになっていた赤ネクタイは寸前で思い止まり、何食わぬ顔ですうっと包装紙の上に菓子を戻す。青ネクタイは直接水筒に口を付けてがばがばお茶を流し込み、有害物質をきれいに洗い流した。
しかし、怒りは飲み込めなかったようで、むしろ最早当り散らす勢いで声を荒げる。
「何が軍部の予算が少ないだ! 統一戦争は二千年近く結果を出してないんだから、減らされるどころか、なくされてしかるべしだ! そんな無駄遣いをするから、こっちに研究費が回って来なくて、こんなものしか開発できないんだ! それを軍部の奴ら、殺人家業がなくなっては困るからと議会を買収して、予算協議を難航させるとは! それに、春瀬殿下……ああ、心配だー」
唐突に調子が変わり、赤ネクタイは不審そうに首をひねる。
「何がだ?」
「さっき言った合一祭のことだよ。合一祭の日、首都では、朱雀広場に面した統治府のテラスで、伊達家当主と氷野家当主が固く抱擁しあうっていうクライマックスの合一の儀と呼ばれるものがあるんだ」
「両当主が代表で抱き合うことで、始祖両家の合一になぞらえているのか」
「ああ。大方それであってる。その長い抱擁の間に、広場に集まった皆が、両家と自分たち共通のご先祖様に想いを馳せて、血の繋がりを感じる大変感動的なイベントなんだ。少し宗教的で、精神的だけどね」
「ふーん。で、大方ってどういうことだ?」
「それは――必ずしも、テラスに立つ氷野家の代表は当主でなければならないという決まりはないってゆうことだ」
「……ほう」
「ある事件があったんだ。三代前の大王の時代にね。真仁大王陛下の祖父、深山大王陛下は、軍隊第一主義で今の陛下と真逆のことを押し進めていらしたんだが、これに当時の氷野家当主殿下が軍部偏重過ぎると強く反発して、そしたら、その批判を受けた次の合一祭で、当主殿下でなく、軍部への梃入れに賛成の立場だったその弟君がテラスに陛下と一緒に現れ、固く抱きしめ合ったんだ。これは暗に氷野家に対して、自分に都合のいいように当主を交代するよう求めていたんだ。初めはあまりに独裁的だと氷野家側から非難されたんだけれど、結局、何か圧力でも掛けられたんだろうね、最後はやむを得ず、兄を説得して当主の立場を放棄させ、弟に継承させた。氷野家にしてみれば、いかに大王と言えども、内部干渉を受けた上で屈服させられたというのは、かなり屈辱的だったはずだ。それに何より、強引にことを進めた深山陛下は国中から嫌われた。伊達派の君主は、少しでも民心から離れて独裁化の気を見せれば、その瞬間に支持を完全に失うんだ。今でも、深山陛下の人気はすこぶる悪い。反戦論者の大虐殺をやったりしたしね」
「もはや黄帝との差があまりないな。んで、それで?」
身を前に乗り出し、一語一語についたアクセントのように指を組んで握り締めた両手で机をとんとんと叩く。
「真仁陛下には道を誤って欲しくないんだよ。せつにね。つまり、いかに腹を立てても、祖父のように暗に当主交代を匂わせるような暴挙はしないで欲しいんだ」
「いやしかし、殿下は保守主義だろ。むしろ反感を抱いている人間が多数派じゃないのか? 排除を歓迎しそうなもんだが」
複雑な面持ちで首を横に振る。
「パンゲア政策を巡っては春瀬殿下が大きな障害になっているのは事実だ。その点、陛下が殿下を激しく疎んでいらっしゃることも。けど、以前は、誰もが賞賛するほど非常に良好な仲だったんだ。何より陛下を王都陥落や両親暗殺の悲しみから立ち直らせたのは、旧知の春瀬殿下だった。本当に絵に描いたような献身的で美しい主従だった。今はパンゲア政策でその影もないが、臣民は皆、良好な関係のお二人を知っているし、再びそうなっていただきたいと心の底から願っている。それがもし、殿下を退けられたりしたら、もう希望はないだろうね。そうなれば、きっと少なくない数の人が、期待を裏切られた気分になって失望するに違いない」
腕を組み、背もたれに寄りかかって天井を見上げる。
「なるほどな。それでも、心配はいらんように思うがなあ。そもそもかなり温厚な方って聞いたぞ。特に無駄に波を立てるのを嫌うって」
「だが、陛下は政治家だ。現在、春瀬殿下は政敵で、代わりがいるなら、すぐにでも交代させたいと思われるだろう」
一転、赤ネクタイは視線を真っ直ぐに戻し、机に体を寄せて険しい眉をする。
「いるのか?」
青ネクタイが頷いた。
「西部氷野伯家の長男、和成殿下。御年二十五歳。死にさえしなければ次の当主になると言われている。そして、現在、首都にある中央大学問院で、国家間の戦争や紛争をいかに防止するかについての研究を行っていらっしゃる。春瀬殿下には不祥事も多い。それにただでさえ陛下に舐めた真似をして物議を醸してる議会に、わざわざ乗っかってパンゲア批判を強めてるから、さすがの陛下も相当お怒りになってると聞いた。それで、身近に最高の交代候補がいる。この好機を陛下が使わない手はないと推測し、不可避と見る向きが日に日に増してきてるんだ。もちろん、万が一にもそんな選択をした日には、民心は失意して離れるし、何より軍部が小躍りするだろうがね」
赤ネクタイは髪を両手で掻き毟って呻いた。
「何だよ。結局、内紛かよ」
青ネクタイは何も言わずに目を膝に落とした。




