第五話 騙し討ち
列島西端の山地に風が吹く。この梅雨の時期特有の重くべたつく突風だ。坂の上に設置された仮司令部で真仁は慌てて二角帽をおさえ、縦にかぶり直す。
「あと一時間か」
突然、頭上に湧き出した灰色の雨雲を心配そうに仰ぎ見ながら、ぼそりと呟く。軍帽の先で白い羽飾りが揺れる。
「それまで天気がもってくれればいいが……」
ちらと敵の方に目をやる。これまでに目立った動きはなく、どのような話がされているのかも全く分からない。
「うふふ~。むしろ雨が降った方がいいんじゃないかしら~? 濡れネズミで戦うのは敵にとっても大変よ~? 降伏を飲む後押しになるんじゃないかしら~」
結衣が、紫の長いポニーテールを押さえながら口角を上げる。半ばレトリックとして不安を表したつもりが、理系の参謀総長には単に天気の心配に聞こえたようだ。
「あ、ああ。それも一理あるな」
文芸王は狼狽した様子でうなずく。春瀬はそのやり取りを横目で不思議そうに聞き流していた。
その時、西から迫ってくる灰色の雲の中を一筋の稲光が走り、数拍後、大地を揺するような遠雷が響き渡る。近くに待たせている馬たちが不安そうにいななく。強く顔をしかめ、そんな急転する空模様を見つめていると、突然、春瀬の声が飛び込んできた。
「貴様ら何の用だ!? 軍属の士官以上でなければ、司令部に立ち入ることはできないぞ!」
視線を坂の先にやると、騎士会近衛兵に刃を向けられる大王秘書とその秘書の姿があった。
「か、かもめは付き添いです! 立ち入りません!」
サーベルのぎらめきにおののき、両手を上げて叫ぶ。と皇女の威厳を持って白髪の秘書が一歩踏み出す。
「総帥陛下に至急、申し上げたいことがあるのです。事は急を要します」
円筒形の軍帽をかぶった近衛兵たちが顔を見合わせる。そこに、春瀬が、次いで、真仁が、青と赤のマントを膨らませながら歩いてやって来る。
「一体何だと言うのだ? この黄人は」
「はっ、殿下。大王秘書閣下は至急、陛下に申し上げたいことがあると言っております」
「余にか?」
「そうです、陛下」
黒目が白髪の秘書をとらえる。いつも通りのクールな表情に見えて、顔には無数の汗がたれ、赤い目はいつになく色が濃い。肩は繰り返し上下しており、どれほど急いでやって来たのかは容易に見て取れる。
「軍事的なことか?」
真仁が確認のため問うと、荒く息をしたまま一度うなずいた。
「分かった。春川辺芭瀬の入室を特別に許可する」
春瀬が一瞬何か言いた気な表情をするが、大王に振り向きざま睨まれ、すぐに目を伏せた。
お芭瀬が司令部に入る。入ると言っても、明確に境界があるわけではなく野原を歩いただけなのだが、そこには意識として司令部のテリトリーが存在している。具体的に表れているとしたら、近衛兵の立ち位置くらいだろう。輪を描くようにして立つ黒肩章の近衛たちのちょうど真ん中辺りまで進むと、大王は折りたたみ式の木の椅子に赤マントをはらって腰掛けた。右脇にはこの戦場の地図が置かれた小机がある。
「それで、用件は?」
「ここからおよそ二十キロ先の国境付近、ちょうどこの辺りで、不審な動きをする集団を確認しました」
地図を指し示して報告する。真仁は驚いて訊き返した。
「何? 二十キロ先だと?」
「はい」
「どうやって二十キロ先が分かる?」
「私の電子レーダーの最大探査範囲は数百キロに及びます。状況にもよりますが、現在の条件ですと、半径数十キロ圏内程度までなら警戒可能です」
「そ、そうか……。それは北条派の軍か?」
「断言はしかねますが、タイミング・規模などから推察しますと、その可能性が高いです」
七海のこたえを聞いて、春瀬が苛立たしげに呟く。
「つまり、西部地方元帥も沙織派として加勢したということか」
「いや、そうとは限らない。もしかしたら、周陛下が我々の援護に出撃させたのかも分からん」
「だといいのだけど~」
結衣参謀総長が心配そうな目で嘆息する。
「春瀬。空を出せ。上空から詳細をはっきりさせろ」
「分かった」
春瀬は首肯すると一目散に駆けていく。
真仁は少しの間、眉間に皺を寄せて何事か考え込む。それから、顔を上げてもう一人の大元帥に尋ねた。
「大子爵。この事態を全軍にもう知らせるべきだと思うか?」
紫の髪をゆっくり揺らして首を横に振る。
「司令部が詳細を確認できていない曖昧な情報は、流すべきではないわ~」
「やはりそうか。では、今は待つしかないな」
そう言って足を組む大王の頭上を、一羽の鳥が猛スピードで羽ばたいてゆき、真っ暗な雷雲の中へと吸い込まれていった。
三十分後、一際大きな雷鳴が轟くと、雷の残光から一羽の燕が一直線に飛んできた。真仁は思わず立ち上がり、他の大元帥と大王秘書も表情を固くする。
緊迫した空気が漂う司令部に、燕は滑り込むようにして着地した。
「どうだった?」
春瀬が一歩踏み込んで問いかけると、ちょうど発光し人の姿へと戻る。空は、緑の目を細め、栗色のおかっぱを垂らしてひざまずく。
「申し上げます。敵部隊は沙織派と確認。軽騎兵およそ六個連隊を先頭に、他、二個大隊程度の歩兵部隊がすでに国境を越え、急行軍でこちらに向かっております。一時間以内には、主力の騎兵部隊がここに到着するかと」
「なぜ沙織派と分かった?」
真仁が問う。
「部隊は沙織殿下万歳を叫んでおりました」
大王は顔を伏せ、ところどころ土が露出した足元の草地を見つめる。
「……七海。周派が沙織万歳を叫ぶ可能性についてはどう――」
「考えられません、陛下。北条派独自の観念ですと、むしろ忠誠の対象は血族でなく個人にあります。自らの主君が争っている相手は、罵りはすれども、讃えることはまずありません。血の繋がりがあっても無関係です。それに意義を認めないのが北条派の伝統ですから」
皇女にそう断言されると、真仁は深くうなだれた。春瀬と結衣が互いに目配せし、大母の方がゆっくり大王へ視線をやる。
「状況は最悪だ、陛下。早く目前の敵を討たなければ、完全に殲滅する前に我々が挟み撃ちとなる危険があるぞ」
「し、しかし、陛下は三時間の猶予をっ」
「黄人の貴様は黙っていろ!!」
意気消沈した大王の代わりに秘書が口を開くと、途端に怒鳴られる。結衣参謀総長がその間で二人を見比べ、困った笑みを浮かべる。
「うふふ~。でも、春川辺卿の意見も一理あるわよ~? 参謀総長としての立場からは同意しかねるけれど、たしかにここで攻撃命令を出したら、陛下の誠実さに傷がつくわ~」
「……いや、余の権威への傷よりも、防がねばならない傷がある」
不意に失望していた大王の目線が上がった。黒い瞳は一層に重い光を放っている。
「余は出来ることなら、この列島の全ての人民を幸福にしたいと常々考えている。失敗はあるが、全身全霊で努力しているつもりだ。しかし――現実世界を治める大王として自らの理想を割り切らねばならない時もある」
細い喉が苦しそうに上下する。
「残念ながら、目前敵部隊の交戦の意志は疑いようがない。今、迫りつつある沙織派部隊との連携は明らかだ。もはや停戦撤兵を期待できる時ではない。そして余は、一国の王として、当然自国民の生命を最優先に守る義務があり、そのために手段を選ぶべきではない。第一、余の権威も権力も、一義的には臣民のためにあるのだ。玉座の傷を防いで、避けられたかもしれない自軍への被害を甘んじて受けるのでは意味がない」
重く、低く雲は垂れ込める。
「全軍、前方の敵を直ちに攻撃し殲滅っ! しかる後に反転して、後背の敵に備えよっっ!」
回答期限を目前にして、突如、赤天地軍側は猛攻勢に出た。不意をつかれた黄天軍側は、連日の戦闘と強行軍の疲労もあって、まともに反撃することも出来ずに壊滅。硝煙の濃霧が晴れると、指揮官の大将以下、おびただしい数の将兵が死体となって転がっていた。
こうして雲石市の包囲を解くと、敵の死体・捕虜収容を同市駐屯部隊に任せ、第二軍団は急ぎ反転し、斜面の上に陣取って今や数で勝る敵を迎え撃つ準備を整えた。
ところが、七海が再び大王に告げた。
「西部地方元帥隷下の敵部隊、撤退していきます」
敵の斥候が、直前で思いがけない戦況に気付いたのだろうか? とにかく、後ろから迫っていた部隊は姿を見せることもなく、国境の外まで静かに引き返していった。




