第四話 ナンバーツー*
春先の午後、大王を乗せた八頭立ての馬車は、森の中の道を砂利をはねながら走っていた。全国に点在する城塞都市の間を結ぶ道路であり、有事の際には軍道となる非常に大きな街道だ。
十五で成人し親政を開始してからもう二ヶ月が経とうとしていた。黒いスーツに絹で出来た大王の赤いマントを羽織ってゆったり腰掛ける姿や、右肘を窓枠について外を眺める横顔には、早くも威厳ある王の気風が宿っている。仕事も突然増えた。今も森下市という地方都市の視察に行った帰りである。明日はさらに北まで足を伸ばすことになるが、明後日は逆に南の方へ用事がある。昨日は東へ行って、一昨日は西に向かった。加えて、中央の仕事も容赦はしてくれない。為政者とは本当に忙しい身なのだ。その割に文句を言われることが圧倒的に多いのだから、真面目に政治をやっている人は気分が悪くて仕方ないだろう。
普段人前では押し殺している疲れが、油断すると、はあっとため息になって抜けてゆく。
「お疲れですか、陛下」
声にはと顔を上げると、開けた前面の窓の外から中年の御者が鞭を打ちつつ微笑んで肩越しに振り返っている。
「ああ。少しな」
しかし、その目は空の水色を映さず、どんより曇っている。御者の男はそれを見咎め、息子と同い年くらいの青年大王に優しく言葉をかける。
「次の目的地までまだまだ御座います。どうぞお休みください。お体もあまり強くはないのですから。着きましたら、声をおかけしますよ」
「そうか。それでは――お言葉に甘えるとしようか」
欠伸交じりに言うと、早速頭を窓ガラスに預ける。程なくしてすうすうと寝息が聞こえてくる。御者は今一度振り向いて目を細めると、馬の足音を少しでも抑えようと手綱を操った。
「陛下、陛下」
御者に体を揺すられて目を覚ます。
「楠山市で御座います」
ゆっくり目を開き、声の主の姿を捉えると、また閉じてしゃがれ声で苦情をもらす。
「春瀬が出て来たらでいいだろう」
「殿下は既に門のところにいらっしゃいます。あ、今ちょうどこちらへ」
窓の外を覗いて言うと、大王に会釈してから御者座に急いで戻る。それで真仁も意を決し、頭を振って春霞を振り落とすと、姿勢を正して座り直す。
すると、ちょうどその時、左側の扉が開いた。春の陽光がさあっと馬車の中に流れ落ちる。赤い制服を着たドアマンに、ありがとうと礼を言いつつ、一人の美少女がステップに足をかける。静かに馬車が傾く。そして、元に戻ったと思ったら、ドアがぱたんと閉じられた。大王の左には、黒いスカートスーツに青いマントを羽織った、銀髪ツインテールの少女がいた。肌は健康的に白く、目鼻立ちは大変よく整っている。
「どうだった、春瀬内務大臣」
「最悪だ。やはり楠山市の選挙管理委員会は、前回の議会議員選挙で不正を行っていたようだ。細かい処分はさらに調査を進めてから決めた方が良いだろうが、最悪、一部議員は辞職だ。再選挙もあり得るかもしれない」
「そうか。ご苦労であった」
どうっと御者が声をあげ、馬車がゆるゆると進み出す。
この大王の左に掛ける少女は、元摂政氷野勤の姪、氷野家一四九代当主春瀬である。氷野家は伊達家とともに建国に関わった歴史を持ち、通例、当主は副君主のような地位も兼ねる特別な一族だ。真仁にとって春瀬は、貴重な昔からの友人でもある。
「陛下はどうだった? 森下へ視察に行ったのだろう?」
「ああ。市の農家に昨年の様子を尋ねて回ったが、相当悲惨なものだったそうだ。あまりに深刻な取れ高不足で、食いっぱぐれないためにと納税を逃れようとした者も多かったらしい。何もしてやれなかったのが悔やまれる」
「それで激励に?」
「そうだ。あと、脱税は市長の義務と権限で厳しく取り締まるようにと、一応注意してきた」
「市長は窮状の市民をかばって黙認したのか?」
「そんな勝手な真似をしたら、即逮捕、解任だ。市民を宝とし、心を砕くのは上に立つ者の当然の責務だが、その前に最低限、制度の維持を図らねば救える民も救えぬ。今回は、森下の市長から脱税の報告が財務省と余の統治府まで来たのだ。市の困窮を共有している以上、彼自身の口で無慈悲に納税を勧告することは出来ないという悲痛な訴えとともにね」
「なるほど。原則からは外れるが、優れた判断だ」
「本当に、苦しい状況の中、見事な応対だったと思う。義務の放棄は否めないがね、忠告だけではとても報われないだろうから、これに免じて、昇給を約束したよ」
「ふと聞く限りでは、陛下は寛大な善王だな」
狭い馬車の中の空気が凍る。
「何が言いたい?」
冷たい瞳を左に流す。
「その寛大な処置の代わりに、あれを求めたのだろう?」
春瀬は右に挑戦的な視線を送り返す。真仁は肩をすくめた。
「馬鹿馬鹿しい。昇給は単にそうすべきと考えたからで、何も裏はない。第一、あれは、代償を払わないといけないようなものではない。臣民の安定した生活を約束する政策だぞ? 説明し理解してもらえれば、後は同意があるだけだ」
春瀬は戸惑った表情を浮かべる。
「軍隊潰しの政策の話だ、今しているのは」
「分かってるさ。勘違いなどしていない。余も幸福の大陸パンゲアの創造政策について話してるんだ」
目を丸くして訊き返す。
「あれが代償なしに、言葉を尽くすだけで受け入れられるとでも言うのか!?」
「事実、受け入れられている。これまでの遊説で失敗したケースはない。着実に支持を獲得しているよ」
「あり得ない」
顔を青くして流れ行く窓の外を見やる。
「もはや戦争をする気力がないのか? この国には」
その国の大王が自嘲的にふっと笑う。
「気力は知らん。ただ、金と飯はないな」
親政を開始し実権を手にした真仁は、早速先月から前代未聞の政策の実行を目指して、様々なところに根回しを始めている。すでに、先王の時代からの財政危機や景気不安で一番頭を痛めている財務省と経済企業省、近年の深刻な不作で兵糧の確保どころでない農林省などからは全面的な同意と協力を取り付け、また、遊説した都市でも熱烈な歓迎を受けた。パンゲア政策が掲げる平和条約締結こそ安定と繁栄への明るい道だと、様々な負の遺産を背負って暗く鬱屈とした社会を生きてきた臣民たちは諸手を挙げているのだ。
その一方で、急進的な改革に、強固に反対を唱える者たちも一定数存在する。愛国軍事主義的な保守派の人間と軍部である。彼らは戦争や紛争の停止を謳うパンゲアを「軍隊潰し」と批判しているのだ。もし平和条約が締結されれば、軍部関係者は失業者となる危険もあるのだ。そして、この点は、雇用問題を扱う経済企業省の関係者からも指摘が絶えない。また、感情的に帝国を許せない者もやはりいるのだ。
「私は忘れられないぞ……たとえ陛下が忘れろと命令してもだ」
真仁は一転真剣な顔つきになって、幼馴染の横顔を見やる。
両親を失い、大切な“家族”と別れることになった王都陥落の際、春瀬の父親は陸軍二万名を率いて援護に向かった。しかし、それは間に合わなかった。それでも外敵に王都を占領させまいと必死に味方を鼓舞し、馬上から指揮をとっていた。その時、敵の狙撃手に撃たれて戦死したのだ。
春瀬は明確に帝国に敵意を抱いていた。自分が父の仇を打つのだと決心固く生きてきた。王都陥落後、首都にある自身の宮殿に身を寄せていた馴染みの王が、まさか平和条約締結を叫ぼうなどとは考えもしなかった。
「氷野宮の図書室には、君主の一般理論の本など一冊たりとていれないぞ」
「かわいそうな図書室だ」
ついつい攻撃的な皮肉で返してしまう。
春瀬はむっとしてさらに言い放つ。
「敵国の皇女が、密かに帝国で喜んで出版させたような本、氷野宮にいれてたまるか」
「その一室で書いたんだがな」
本どころか原稿がある。氷野宮二階の仮王宮に。ちなみに、帝国での秘密出版は本当の話で、印税は全て第二皇女に入っているというのだから驚きだ。
そして春瀬の怒りは次第に正しく姿を表し出す。
「第一、なぜだ! なぜ帝国の皇女などを側につけている!? あの本にサインでもしたのか?!」
「まあ請われればするが……」
「常軌を逸している。あの女が内通していないと考えないのか?」
「余の優秀な王立警察が怪しいところなしとしたのだ。むしろ怪しくなくても容疑者にできるとまで噂の王立警察がだ」
「陛下、それはあけっぴろげに言うことではない……」
春瀬が驚き呆れてため息をついた。
大王は真剣な眼差しになり、バリトンの声で諭すように言う。
「春瀬。余の実際目指すところは、ただの平和条約締結ではない。臣民の幸福を保障できる世界の実現だ。お前も、臣民には幸福になって欲しいだろう?」
「それが責務だというのは納得できる。だが、復讐を望む声もある」
「それはもちろん聞こう。聞いた上で、説得しよう。復讐など無意味で、結局はそれを待ち望む人間をも不幸に叩き落とす悪だと」
「陛下は憎くないのか? 目の前で両親を殺された挙げ句、陛下も寸でのところで死ぬところだったというのに」
真仁は静かに首を横へ振った。
「憎い以上に、悲しかった……。暴力とは、幸せな家族の景色を破壊するものだよ、春瀬。これを臣民に平然と強いることなど、到底不可能だ。あの日、全てを失って、たった一つ得た結論だ……」
馬がいななく。風が吹いて、ぱっと花を散らせて行く。
それを眺めながら真仁は、今日も遠い日のことを思い出していた。