第二十九話 パンゲア会談開催
「おい、千手。本当に一人で大丈夫なのか?」
太平洋を臨む濃尾平野の一角、人工林で覆い隠された城塞市からお供を五人ほど連れて出ようとする黄色い詰襟軍服と白いズボンが眩しい女性に、一人の男が不安げに近付いた。女性は黒い愛馬の手綱を取ると、呆れ顔になり、気だるそうなしゃがれ声で諭す。
「私の他に五人いるのが見えない、兄さん?」
「し、しかしだな、元帥であるお前にもし万一のことがあったら……」
「大王陛下は平和外交で来るの。分かってるでしょ?」
「それは、そうだが……」
「兄さん、いえ、元帥補佐。あなたが残らないで誰が元帥不在の間、ここの支配権を預かるの? 気持ちは分かるけどね、私は大丈夫だからさ……」
面倒くさそうに押し切ると、そ、そうか、と心配性の兄はやっと引き下がった。元帥がどうっと声を掛けると、側近の軍人たちも進み出す。城門の向こうの森に全員の姿が飲み込まれるまで、兄の細目はじっと不安げに一行を見送っていた。
「よい旦那様で」
白髪に白髭をたくわえた老大将が面白そうに笑う。と、左胸の白い帯の上で黄色い星を四つ輝かせる元帥は、鬱陶しそうに閉じかけた目をさらに細め、細長いキセルをくわえた。
六月一日午前八時三十分。事前に取り決めた予定通り、伊達大王国大王真仁を初めとする一団は、十年前の王都侵攻でやや北上した国境線をついに越えた。前線基地において国境守備隊を預かる陸軍大将と固い握手を交わした後、帝国常備軍の歩兵に両脇を守られながら、北条派領内の大通りを走り始めた。行列は大王近衛騎兵隊第一分隊と付属音楽隊の二列縦隊に先導され、後方に大王や春瀬、関係職員を乗せた馬車がずらずらと続いている。
「二千年の溝が、次第に埋まっていくのが分かる」
確かに感じた帝国軍人の熱い手の感触を右手に握り締める。
「歴史は動き始めた。手に取るように分かる」
目を上げると、正面には春瀬の複雑にしかめられた表情がある。
「愛国軍事主義はまだ健在か」
「一朝一夕に変われるものではない。人の心も、まして歴史も」
しかし真仁は、それはおかしいと笑い出す。
「史上初の、史上最大の激変を実地で導いたやつの言葉ではない」
「だが、私の信念は経験に勝る」
「経験が内面に影響しないとなると、人は赤ん坊から成長することが出来なくなるがな」
保守的な態度を揶揄され、不愉快そうに居住まいを正すと、彼女にとっては三度目となる帝国の街道を馬車の窓越しに眺める。道沿いには、赤土の平野部が延々と続いており、時折田んぼと集落が見られる。崖と城塞市から構成される王国の険しい風景とはまるで違う。
「……都市までの案内の割に、随分北条派の兵士が多くないか?」
春瀬が不意に漏らすと、真仁も同じ窓を覗く。
「さっきの大将閣下が、余の護衛に二個歩兵連隊つけると言っていたぞ?」
「二個連隊だと!? 四千名近いではないか! 人数は任せると言ってしまったのが不味かったのか」
「何が不味いんだ?」
きょとんとして問い返すと、慌てて首を左右に振る。
「何も不味くない。ただ、異常に多い兵を見ている内に、捕虜として護送されているかのような気分に陥ったのだ」
それを聞くと、真仁は再び笑った。
「まあまだ無理もないか。ちなみに、逆になぜここまで兵を揃えたか、推測は付くか?」
挑戦的な目に思わずむっとして考えるが、結局悔しそうに諸手を挙げた。
「降参だ」
「素直でよろしい」
大王は足を組み、肘を窓の縁に立てて頬杖をつく。
「簡単な話だ。要は、周陛下は余に軍隊動員力を誇示したいのさ。沙織に一部軍権を奪われているという事実をうっかり忘れさせるに足る光景だろう?」
「何が狙いなのだ?」
「自身の指導力、並びに、黄帝としての正当性のアピール。つまり、余が安心して交渉ができる帝国唯一の君主は沙織でなく自分であると、そう主張しているのだ。広く内外にね。無論、歓迎の意図も含まれているだろうが」
「周陛下には格好の宣伝となるわけか」
「それが動機で応じてくれたんだ」
春瀬が眉間に皺を寄せる。
「何とも空虚な平和会談ではないか。その魂胆が別のところにあるとは」
「少なくとも余の本意は確かにそこにある。一方がそうであれば、完全に瓦解することもあるまい」
「随分と簡単に言うな」
「いや難しいよ?」
苦笑して返す。春瀬は呆れてため息をついた。
真仁は窓の外に目をやる。
「ま、結果的に会談の目的が果たされれば何も問題ない。それぞれの思惑を、いかに思い描く通りに編み上げるかが、余の腕の見せどころだ」
「特等席で見物出来て光栄だ」
「少しは学ぶといい。政治のやり方というものをな」
意地悪く言うと、再びむすっとして黙り込んでしまった。
時刻、午前十時三十分。少しずつ田畑が増えてきた。沿道には帝国の人民が出てきてこちらを笑顔で見つめている。大王と春瀬が手を振ると、村人たちはおおっと歓声を上げて手を振り返してきた。
「どうだ? なかなか気分がいいじゃないか」
「初めは明らかに変な目だったぞ」
「三回目でもう歓迎ムードなら喜ぶべきだろう」
かもしれないな、と春瀬は小声で呟いた。
その時、不意に前方からリズミカルな太鼓の音が轟いてくる。
「先頭が入城したな」
二人は気を引き締めて、座りなおした。
梅雨を前に一層光り輝く青空。燦々と注ぐ海辺の力強い太陽。光に満ち溢れ、帝都の沿道から軍人や臣民に万歳を叫ばれながら、一行を先導する騎士長氷野華穂と第一分隊副分隊長が儀礼刀を右肩に当てて白馬を進める。ハートの文様が印象的な筒形軍帽の上に、それぞれ赤と青の羽飾りが誇らしげに揺れている。縦長で赤白赤に塗り分けられた国旗、赤天地旗が二人の後ろに続く旗手の棹先で潮風にはためき、さらにその後ろから、真っ白な正方形の旗に赤いハートと一の字が輝かしい第一分隊旗を掲げる旗手が従う。その若干後ろから、鹿毛の馬に乗った音楽隊が堂々とフィンランド騎兵隊行進曲を吹奏しながら市門より入り来ると、呼応したように道沿いの喝采が膨れ上がった。その大歓声の中をさらに白馬にまたがる騎兵隊の列が凛々しく進み、ようやく八頭の白馬に引かれて真っ赤な馬車が姿を現す。群集の万歳は今や頂点に達した。一人ひとりの呼気やあちこちで吹き鳴らされる口笛が風となって赤い馬車の国旗を翻し、雷鳴のような拍手は、濃い日光と合わさって車体に施されたハートの宝石をきらめかせる。近衛騎兵たちのサーベルの刃は白く輝き、楽隊のトランペットが高らかに歓びを歌い上げる。
そして、その高まりに応えるかのごとく、道の奥、巨大で広大な白亜の石階段の上に聳え立つ木製の門がゆっくりと外側に開かれていく。兵士が汗だくになってこれを押し開けると、普段は姿を見せないこの国の君主、北条派第一九八代黄帝北条周が七人の元帥たちを脇に従え現れた。白いズボンに黄色いマントを留める白い肩章、八個の金ボタンが光る黄色い詰襟軍服、大元帥位を示す左右胸ポケット上の白帯に並んだ計八つの黄色い星。黄帝周は、ほとんど黄金色に包まれながら、七海同様の繊細な長い白髪を風になびかせ、右手をひらひらと集まった者に挨拶する。行列の先頭たる騎士長と旗手の四人はその大階段手前、向かって右のスペースに馬を進め、道の方に鼻先を向けて横に並ぶ。楽隊は管と太鼓とシンバルを打ち鳴らしながら指揮者に従って反対側の空間に歩み入っては同じように方向を変え、後続の騎兵隊も騎士長たちの背後にずらずらと入って同様に道側を向いていく。そして、マーチが盛大なトュッティで締めくくられ、大王の馬車が階段の前方に停まった。瞬間、騎士長の赤い羽根がしゃんと立つ。
「近衛騎兵隊、総員敬礼!」
細い喉から精一杯叫ぶと、白馬に乗った者たちは旗手を除いて全て、儀礼刀の持ち手を自らの眼前まで持って来て垂直に立てた。同時に、楽隊が今度はシンプルなバロックを吹奏し始める。この選曲は大王たっての希望であり、その名は、ヘンデル作曲の「王宮の花火の音楽」から「歓喜」――。ホルンとトランペットが交互に鳴り響く中、ついに赤い馬車の扉が開かれ、再び大歓声が湧き起こる。
強い日差しと眼差しを一身に集め、今、赤いマントで体を包み、青年王にして改革王、五千万人の大いなる父たる大父大王真仁が、その血塗れぬ一歩を帝都の土に刻んだ。
歓呼の声が、浜風が、大王の黒髪を揺らす。
「太陽の色が濃いだろう、陛下?」
青いマントを海辺の風に翻し大母春瀬が背後に立つ。
「まばゆい。全てが日の下で輝いている。騎兵の剣でさえ、平和に、崇高に光っている」
銀髪を風に流しきらめかせながら、その言葉に静かにうなずく。真仁と春瀬は光の道を歩んでゆく。感極まる沿道に笑顔で手を振り返して。そして、白亜の階段の頂点で、二千年間、決して交わることのなかった二人の手が――
「伊達大王国第一五四代大父大王真仁だ。会談の求めに応じてくれたこと、感謝に絶えない」
「ようこそ、大父大王陛下。朕こそが北条派連邦帝国黄帝、北条周である」
今、重なった。
次話に続きます!




