第二十三話 大母春瀬の命運
翌朝、まだ日の昇らぬ時分、二重の意味で人知れぬ西部伯領雲石市の地下の駅に、SL-FVがのっそりと入って来て停車する。巨躯が荒く息をする中、整備員が周りに取り付き、一斉に前代未聞の走行へ調整を始める。その後ろに続く家畜用の運搬車へは、整然とホームに並んで待機していた大王近衛騎兵隊第八伯爵領分隊の隊員たちが軍馬を引いて乗せてゆく。
昨晩、突然下った内乱鎮圧の命令。これは昨年二月に親政を開始して以来、いや、十年前に真仁が即位して以来初となる組織的な実力行使の王命だ。平和の大王が初めて発した指令は、大王に逆らう陸軍歩兵連隊に対する投降勧告、または、制圧。一度春瀬がしくじった以上、もはや失敗は許されない。何らかの形で収めなければ、真仁大王の治世は事実上崩壊し、軍部が実権を握ることになるかもしれない。真仁はこんな時でもマイペースだが、ことは歴史的な国家の一大事だ。ほとんどの隊員や国土省のエンジニアたちは、緊張に顔を強張らせている。
だが、どうにも君主真仁の周りには同じように自らのペースを崩さない剛の者が集っているらしい。
狭い運転室で、灰色の制服の作業着に帽子を被った機関士と機関助士が極秘の作戦指令書を読み合わせて確認していると、コンコンと外側を叩く音がする。二人が驚いて振り向くと、ベリーショートの金髪に青目の騎士長、氷野華穂が困ったようにはにかんでいた。
「すみません。驚かせるつもりはなかったのですが……」
一瞬、二人は目を見合わせる。彼女は、黒い乗馬ブーツに黒いズボンを穿き、八つの黒ボタンが等間隔に並び、二本の白い飾り縄が右胸を飾って黒い肩章が引き締まる赤い詰襟の制服を着て、頭には背の高いやはり黒色の筒形軍帽を被っている。帽子の前面には伊達家の紋章である赤いハートが刺繍され、そのすぐ上で騎士長の証である赤い豪華な羽飾りが揺れている。その姿は完璧に近衛兵のトップだ。だが、その話し方は大いに予想を裏切り、丁寧で育ちの良さを感じさせる。ややともすれば弱いと思われかねないほどお嬢さま然としている。まあ、事実、西部氷野伯殿下のご令嬢なのだが、騎士長としての違和感は尋常なものではない。
「そちらに登ってもよろしいですか?」
「あ、ああ。どうぞ。殿下」
機関士が場所を譲ると、手摺に掴まりながら運転室に入る。腰で、大きく湾曲した騎馬騎兵刀がぎらりと揺れる。下馬して大王を警護する時に用いる警護騎兵刀は、先の方だけカーブしている。このように全体が緩やかに三日月を描いているのは、戦闘時に馬上で扱うこのサーベルのみの形状で、すなわち、公に姿を見せるのは真仁即位後初である。その凶悪な形に思わず国土省の文人は唾を飲み下す。
「思ったより狭いのですね」
細身だが身長が一六五ある騎士長が低い天井を見上げる。機関士ははっと我に返り言葉を返す。
「そ、そうですね。頭上には気を付けて下さい」
すると、煤に汚れた顔の方を向き、ふっと柔和に微笑む。
「ありがとうございます」
――本当に騎士長なのか? と真剣に疑ってしまうような優しい笑顔だ。二人が目を回す中、しかし確かに騎士長として作戦の事前確認を始める。
「今回の作戦の要は、汽車による突撃になります。お二人の任務は、SL-FV号で木製バリケードを突破し、速やかにホームに停車して騎兵の迅速な展開を援護することです。バリケードは問題なく突破できますでしょうか?」
「はい、おそらくは」
機関士が固い声でこたえる。
「それでは、ホームへの停車ですが……この作戦指令書通りでよろしいですか?」
機関助士が機関士を見上げる。彼は手に汗を握りながら、けれども頷く。
「問題ありません。殿下の助太刀もありますし」
「まあ。口がお上手なこと」
くすくすと笑う。これに気恥ずかしくなった機関士とつられた助士も笑い出す。
「それでは、また発車する時になりましたら戻ってきます。今日はよろしくお願いしますね」
お淑やかに言うと、びしっと右手を額にやって敬礼する。それに二人があわあわと同じように返礼すると、にこりと微笑んで運転室を降りた。
機関助士が早速口を開く。
「あれが騎士長ですか? あんな丁寧なお嬢様が馬に乗って走ってきたら、救急馬車と勘違いしそうです」
それに機関士も同感する。
「本当だな。俺の女房の方が千倍怖い」
あはははと二人の男が声を立てて笑う。肩をぐるぐるして機関士が続ける。
「しかし、やはり氷野家の姫様は違うな。言葉を交わしただけで、気持ちが楽になった」
「始祖両家のカリスマですね。ぼくの緊張が迷子ですよ」
軽口を言うとまた笑い、各自の仕事に取り掛かる。その手は震えることなく、今や指の先まで熱くたぎっていた。
首都南端、大地に長く伸びる輪郭を日の出前の闇にぼうっと浮かび上がらせる氷野邸の奥の自室で、氷野家第一四九代当主春瀬はうな垂れていた。完全に。完璧に。広々とした部屋の、大きなソファに、その姿はあまりに小さい。
――ついに解任、か。
絶世の美貌をやつし、額を押さえる。
――合一の儀で当主から外された方が、何倍マシだっただろうか……。政界から追放されれば、あとは氷野家当主としての地位と軍部での役職のみだ。しかし、軍部は潰される。そうすると結局残るのは、氷野家当主という立場だけだ。国家の公職はもはや……。しかも、無職の当主などあってはならない。ああ、真に役立たずに成り果てた末に当主位を譲ることになる位なら、独裁化の犠牲者と言われた方がまだ良かった!
思考が弱腰に、どんどん逃げて行く。視線が足元まで落ちると、脇のティーテーブルに手を伸ばし時間も気にせずベルを鳴らす。少し経って執事がやって来る。
「御用でしょうか、殿下」
「……ウィスキーを持って来てくれ。一瓶だ」
執事の顔が硬直する。
「で、殿下、しかし」
「持って来てくれ。今縋ることが出来るのは酒くらいだ」
「は、はあ。畏まりました」
頭を下げると、部屋を出て行く。
――無様だ。落ちるところまで落ちて行く。怖くはあるが、もう私には何も出来ない。陛下が無理に強制するまでもなく、氷野家の総意として私は当主位から降ろされる。別に位に執着があるわけではない。だが、大父陛下の伴侶たれる大母は、この私だけだと思っていた……。しかし、大した自惚れだったということか。事実、迷惑ばかりかけて、私は何も出来なかった。
「殿下、お持ちしました」
「入れ」
――だが、ともかく今は酒に縋ろう。それ位しか味方はいない。
「春瀬。お前が酒を飲むと言い出す日が来るとはなあ。地味に嬉しいよ」
はっと顔を上げる。
「陛下!?」
大王がふふうんと茶目っ気たっぷりの表情で、ドアを閉める。スーツを着ている辺り、寝起きとは思えない。今の今まで鎮圧の準備に奔走していたのだろう。右手にはウィスキーのボトルが、左手にはコップが二つ握られている。
「けれど感心しないねえ。この氷野邸で酒を飲むのは僕と一部の使用人だけだ。当然、お前の酒は置いてない。それで、まさか当主殿下に下人の酒を飲ませるわけにはいかないと、王の蔵に手を出していたよ。危なかった。実に危なかった。王のコレクションが侵犯されるところだった」
歩み寄ってきて、ティーテーブルを挟んで右側のソファに座る。そしてグラスを置き、両方に少量を注ぐ。
「上物だ」
グラスを春瀬にすすめると、ぎこちない動きで受け取る。それに微笑みかけると、真仁は自分の杯を手にし掲げた。
「乾杯」
春瀬もまた、小声でこたえる。
「か、乾杯」
そう言うと、二人ともグラスに口を付ける。ウィスキーが春瀬の喉を焼きながら流れ落ちてゆく。思わず肩を跳ね上げ、勢い良くむせた。
「はっはっはっ。さすがに応えるだろう。普段飲んでないしな」
明るく笑うと、春瀬は首を横に振る。
「酒が焼いたのではない。もっと奥から焼けたのだ」
「それは……どこだ? 一体何なんだ、それは?」
問いかけに目を瞑りながらもはっきりと返す。
「心だ。心が痛い。火に炙られるように。勝手に思い上がり、されど何も出来ずに退場するだけの自分を焼き滅ぼす、地獄の業火だ。骨まで焼き尽くして、後は風に消えるのみ……」
――そうだ。私では無理だったのだ。少なくとも今後も陛下を支えることなど最早……。
願いは大王に打ち砕かれ、退位への片道切符を渡された。自負を失い、地位を失い、陛下のお側は他の誰かに――他の誰かに、奪われる。散々だ。絶望だ。未来はない。解任という事実ではなく、それによって喪失するものの大きさよ。それはとてもとても信じ難いものなのだ、春瀬にとっては。
グラスを強く握り締める。みるみる内に中のウィスキーが凍りついていく。
しかし、その手を温かい――いや、やや熱い大きな手が包み込んだ。
「そうだな。お前は結構迷惑だった」
追い討ちのつもりなのか、ばっさり断言する。しかし春瀬は傷つきながらも、その鞭を黙って受け入れる。
「油断して反乱の発生を完全には防げなかったし、焦りのあまり誤った指示を出して多くの忠義ある者を殺し、反徒たちを勇気付けた。それだけではない。内務省の役人を怠惰させ、質を著しく低下させた。これはお前の責任だ――」
手に力がこもり、熱が増す。
「とは言い切れない。何しろお前を大臣に任命した者がいる。そいつには、任命責任がある」
大きな手の内で小さな手が震える。
「私は……本当に迷惑を掛けただけだった」
「まあ政治家としては、その認識で間違いない」
七海がいれば、鬼ですね、の一言は既に出ていそうな勢いだが、熱かった父の手の温度がふと程よい温かみに落ち着く。
「だが、本当に目の上のたんこぶなら、もっと早く切り捨てていただろう。けど、僕は――恩人を切り捨てることなど出来ない」
優しくぎゅっと包み込む。
「父と母が死んで、故郷も奪われて、心に穴を開けていた僕を闇から救い上げてくれたのは、春瀬だった。春瀬も両親を亡くしていたのに、その辛さに思いをはせることもなく、ガキだった僕は縋った。今思えば、あまりに自己中心的で、行って叱り飛ばしてやりたいところだが、お前は優しかった。辛い状態だったにも関わらず、この僕を献身的に支えてくれた。親政を始めるまでずっと隣にいて背中をさすり、手を引いてくれた。そんな大恩人にどうして酷い報いを与えられる?」
「私も、陛下に支えられていたのだ。そのように一方的ではなかった。そ、それに、それは過去の話だ。昔話では陛下も満足いかないだろう」
厳しく言い放つと、真仁は笑う。
「そりゃそうだ。昔話で飯が食えるのは作家だけだ。しかし、春瀬よ。お前は生きているのに、なぜ人生が終わったような口ぶりなんだ? 昔話なんて。それとも、もはや全献身を使い果たしたのか?」
「そ、そのようなことは!」
「ならば良し。全て良し」
春瀬と目が合う。濡れた瞳に真仁が映る。彼はただ一言告げた。
「この僕を、また大いに支えてくれ」
目を見開く。
「よ、よいのか……?」
「二度は言わん。まずはそこからだな」
「す、すまない」
「良い。良いのだ。その分、支えてくれれば」
手を離し自らのグラスを手に取る。
「ほら、お前のウィスキーも無事溶けたことだ。乾杯し直そう」
驚いて自分の両手の中を見てから、春瀬もおずおずグラスを掲げる。
「これからも余を支えてくれ。王国最大の忠臣よ。今までの献身と、これからの忠義に、乾杯」
「乾杯、だ」
明け方の屋敷、その一室で、二つのグラスがちんと鳴った。




