第十九話 造園姫*
真仁は懸命な大手術を受け何とか一命を取り留めた。だが、もともと体の弱い彼は、医師団から最低でも数週間程度の静養を取るよう言われ、富士ノ森市大崎軍病院より同じ近西地方にある大王領、諏訪湖から流れ出る天竜川を望む諏訪離宮へと移っていた。
五月五日、大王が退院して諏訪離宮入りした翌日、秘書の七海はお見舞いと近況報告を兼ねて山奥の邸宅を目指した。基地のない諏訪離宮に軍用の鉄道は通っていないため、最寄りの大きな城塞市まで汽車で行き、そこで市長から昼食のもてなしを受けた後、密かに馬を借りて小ぎれいな砂利道を走る。沿岸帝国たる北条派で生まれ育った彼女にしてみれば、こんな高いところは初めてだ。異様な肌寒さにぶるるっと震え上がりながら、山中の一本道を駆ける。生い茂る緑また緑。その中をひたすらに走り続けて小一時間行くと、昼食時市長に教えてもらった通り、木々で青々と埋め尽くされた道の先に突如赤く塗り上げられた門扉が現れた。手綱を引いて立ち止まると、門の向こう側から制服を着た大王近衛兵が尋ねてくる。
「名、及び、身分は?」
「北条七海、大王秘書です」
「御用件は?」
「陛下のお見舞いに参りました。それと、首都の近況報告を」
「よろしい。今開けますので、少し下がっていてください」
頑丈そうな南京錠を外し左側の門を押し開ける。
「ありがとうございます」
お芭瀬が馬を進めると、その先を指し示して言う。
「陛下はこの坂の先にある離宮で休まれています。坂の勾配が少々厳しいですのでお気を付けて」
「ご親切にどうも」
振り返って礼を述べ、あらためて前方を確認して絶句した。目の前に道はなかった。ほとんど壁だった。
――これを坂と呼ぶとは……さすが山岳王国伊達派です。
海抜〇mの平野で暮らしてきた七海は、またもショックを受ける。とは言え、壁を少々急勾配の坂と呼ぶのは、山育ちな近衛兵なりの冗談だと信じたい。
鞍から落ちそうになりながらも何とか坂を上りきると、すぐ目の前に離宮が建っていた。大王領諏訪離宮という厳めしい名前からは想像しにくい、こじんまりした可愛らしい邸宅だ。壁には黄土色のレンガが積まれ、屋根はダークグレーのスレート石で丁寧に葺かれている。
――この質素さは英国の香りを感じますね。
建築・庭園好き、しかも、実はイギリスが一番と言う彼女にはよほど嬉しかったのか、自ずと口元が緩む。と言うか、もはやだらしないまである。
しかし、こんな時に限ってばっちり見られるのは何故なのだろうか?
「陛下の秘書殿ですか?」
別の近衛兵から声を掛けられる。慌てて口を袖で隠すと、はいとこたえる。
「馬をこちらで預かります。陛下のお部屋には、他の近衛兵がお連れします」
「あ、ありがとうございます」
赤面した顔をうつむいて隠しつつ馬を下りると、そ知らぬ顔をしてくれる案内役の近衛兵に従って館へ向かう。
中央から少し右にずれた所にある素朴な木の扉から入ると、正面玄関の小さなホールが広がっていた。右手奥に二階へ登る古ぼけた階段があり、一階部分は左奥に廊下が見えている。床は全面木張りで、重々しい焦げ茶色が建物の歴史を感じさせる。
「こちらへどうぞ」
乗馬ブーツでぎしぎし踏みしめながら、近衛兵に従い左奥の廊下へ進む。覗き見れば、意外と細長く、奥は壁で行き止まっており、左側に部屋のドアが不規則に並んでいる。そして、右側は全面ガラスが張られ、諏訪の山々や天竜川を遠景とした美しい英国風のランドスケープガーデンが広がっていた。
――ここの設計士はどなたなのでしょう! 帝国でぜひお会いしたかったです!
角を曲がって突然出現した天然の名画に、すっかり魅了され沸騰してしまうが、はっと我に返り微妙に距離が空いた近衛兵に早歩きで追い着く。
「陛下はこちらで休まれています」
廊下の中ほどで立ち止まると、一つの木戸を指し示す。
「今入っても構わないでしょうか?」
「少々お待ち下さい」
ドアに向き直ってノックする。と、何の前触れもなくぎいっと音を立てて引き開けられる。
「ハイハイ。どなたー?」
さばさばした口調が聞こえ、続いて白衣を着た背の高い女性が姿を現した。足はすらりと細長く、美しいプロポーションで女優顔負けな美人である。思わず女である七海でさえ、ごくりと唾を飲んでしまう。
女医は金髪のボブを揺らしてくるりと振り向き、水色の目で自分に釘づけになっている白髪の少女を見た。
「あはハ……そんな見ないでヨオ」
顔を赤くして言う。七海ははっとして失礼しました、と詫びる。
とその時、中から声がした。
「誰が来たんだ?」
――陛下の声です!
思ったより元気そうで少し安心する。近衛兵が返す。
「秘書殿です!」
「おお来たか。入れてくれ」
「はーイ」
女医はこたえると部屋に入っていく。七海も後に続いた。
広い寝室の奥にある赤い天蓋付きベッドに、真仁は寝そべっていた。
「よく来てくれた」
お芭瀬はベッドの右手側に立ち腰を折る。
「同世代の人と話したかったんだ。リョーシェンカは無二の人であるが、時間だけはやはり超えられなくてな」
「ワタシがおばさんみたいジャン。まだ二十五」
「僕らは十六だがね」
言われて、たははと苦笑いする。七海は大王との会話とは思い難いラフな態度に仰天してドクトルを見詰める。と、真仁が彼女を手の平で示して紹介する。
「余の主治医、アレクセイ・ニコラエヴナ・ラクスマン、通称、リョーシェンカだ。名門北山大学府医学部、及び、同大学問院飛び級卒業。直後、大王医療勲章を授与し余の主治医とした」
「アレクセイ・ニコラエヴナ・ラク……? 漢字はどう書くのですか?」
秘書に問われ、二人とも目を丸くする。
「漢字? あるのか?」
「ないでショ」
「……あ、つまり、ホモ・オリビリスではないのですね?」
金髪の女医は首肯した。
「そうヨ。ワタシは実は、ホモ・サピエンスなノ。ご先祖様はロシア帝国って国の軍人だったみたいなんだケド、この列島に冒険に行かされてナンカ帰れなくなっちゃったみたいデ、王国で保護してもらったノ」
「随分前だけどな」
「どんくらい前だっケ?」
「百年か二百年くらい前だろ」
「幅広いなア」
「あの、陛下、よろしいですか?」
馴れ馴れしい応酬を遮り声を掛ける。
「何だ?」
「いえ、その……なぜそのような態度なのかと思いまして」
「どんな態度だ?」
不思議そうな顔をして訊き返す。
「見たままと申しますか……単刀直入に言えば、ラフな口調だなと」
「ああ! 忘れてた! リョーシェンカは唯一、伊達家の血でつながった従姉なんだ!」
「ワタシの父が先代真吾大王陛下の時代に武人として名を挙げてネ、その褒美として先代陛下の姉君殿下、つまり、真仁陛下の伯母様をお嫁さんにいただいたノ。それで生まれたのが、このワタシってワケ」
白衣の下から豊満な胸を、じゃなくて、胸を張る。それに白髪を傾けて確かめる。
「陛下の身内ということですか?」
「そゆこト」
さばっとこたえた。今度は大王が口を開く。
「聞いたことあるだろう? 父親は、あの大熊のニコライだ」
瞬間、合点いったようにうなずく。
「ああ、あの老将ですか! 王都奪還紛争でもかなり奮戦されまして、国境を多少南へ押し返しましたとか」
「結局、王都自体は取り返せなかったがね……。いや十分戦ってくれたよ」
娘が控えめに笑って会釈する。
ふいに大王がリョーシェンカの方に手を伸ばし、支えられながらベッドよりゆっくり降りて立ち上がる。
「さて七海」
「は、はい、陛下」
「庭に行きたいな?」
悪戯っぽくきくと、満面の笑みで首肯される。
「ははは、余程嬉しいようだ。どれ。リハビリやら報告やらを兼ねて散歩に行こうではないか」
思わずおっし、と雄々しい快哉を叫びそうになるほど大興奮だ。それを楽しそうに見つつ、真仁は赤いマントをリョーシェンカに着せてもらう。前の紐を締めながら主治医が確認する。
「ワタシも着いてく?」
「そうだな。ただ、報告内容に機密事項が含まれる可能性が高いから、やむを得ない場合以外は後ろ五メートル以上空けて歩いてくれ」
「リョーカイ」
結び終わり、すっと頷く。
「行くぞ、七海」
先に部屋を出て行くと、入り口で白手袋をはめた近衛兵が敬礼する。またそれを物珍しそうに見ながら七海が出て行くと、距離を置いて白衣に手を突っ込んだリョーシェンカが着いて行った。
しばらく二人は花咲く庭を歩きながら、庭園談義に花咲かせる。真仁は昔から王都にあった和風庭園や氷野邸の西洋風庭園で遊んでいたため庭には親しみがあり、またその平和を好む文化人的な気質が庭のような静謐で芸術的な空間を好むようだ。造園姫と鳴らした帝国一のガーデナーの話を興味津々に聞きながら五月の爽やかな庭園を歩いて回る。
「お前と話していて飽きることがないな」
庭における水について一生懸命説明された後、苔が生えた噴水の皿をさすりつつ呟く。
「ありがとうございます。私も楽しいです」
「さぞ、帝国の人たちも喜んだことだろうな。教養深い皇女に恵まれて」
と、顔が不意に苦笑いに変わり、揺れる水面に映し出される。
「その点、春瀬は無粋でよくない。ナンバーツーとは言え、国を背負うものならば、ぜひ教養深くあって欲しいものだ。詩の一遍も詠まんからな、あいつは」
眉間に皺を寄せた七海の顔がひょいと水鏡に並ぶ。
「そんなものですか? 庭を造営した私が言えたことではありませんが、文化に開明な君主は弱々しい印象を与えて良くないとも聞きました」
「北条派の帝王学ならそう言う者もあるだろう。強者による武断的支配を理想としているなら、詩だ歌だなんて軟弱そのものだよ。しかし、伊達派は違う」
一瞬静まった水面で、すっと顔が近付く。
「伊達派は文人統制だ。その文人の頂点に位置する大王に、強さは必須の条件ではない。精神的な高尚さや豊かさ、これによって臣民から尊敬されることの方がむしろ大事だ」
「そのための文化活動ですか?」
「多分にその面はある。あとは僕の趣味だ」
笑うと噴水から目を離し、同時に顔を上げた秘書を正面から見つめる。
「さて、そろそろ報告を聞こうか」
言うと、後ろを振り向き離れたところにいるリョーシェンカに目配せする。白衣の主治医はひらりと手を振ってさらに下がった。
「陛下による反徒処刑後、首都の春瀬殿下宛で暗殺未遂の発生をお伝えし、然るべき対応を要請いたしました。殿下は、第一に郵便省に情報統制を命ぜられ、第二に内務省治安維持隊に出動準備態勢を取らせました」
「マニュアル通りだな。それで?」
「統制にも関わらず、軍独自の情報経路を伝わって暗殺未遂事件の勃発がすぐに全国の軍関係者に知れ渡った模様です」
「それも残念ながらマニュアル通りだ」
「はい。そして、事件発生翌日にはそれに呼応するように全国八つの師団・連隊基地で反乱が発生しました。しかし、これは用意済みだった治安維持隊の迅速な介入によりいずれも拡大する前に即日収束しました。ですが、これで安心していたところ、三日になって南洋島の第十七歩兵連隊が蜂起。油断していたため、治安維持隊の投入が間に合わず、手に負えない規模となってしまいました。この抵抗は陛下とその政策に対するものであり市の行政職員や市民は標的ではないということで非軍属市民は初めから城塞市の外に出され、維持隊に保護されました。現在、同隊が反徒を精神的に圧迫しようと包囲攻めを敢行中です。何分相手が軍人なので、殿下は出来る限り力を削いでから降伏勧告をするか、または突入逮捕を実施するおつもりのようです。以上です」
うむと頷くと両手を噴水の縁について波立つ水面を覗き込む。
「早くもボロか。そこもマニュアルみたいなもんだろうに……。まあ、包囲の判断は良かろう。軍は人を殺すのが目的だが、治安維持隊は反乱の鎮圧が目的だ。使用している道具の殺傷力は桁違い。互角にやっても無駄死にを出すだけだ。強引な突入命令こそ最低最悪だよ。子どもの命を親のミスで奪うなんてね。――まあいい。その前の二日の反乱の首謀者はどうした?」
「裁判所はいずれの事例においても内乱罪であることは明白と認定しました。その上で、本件は司法でなく政治的判断を要するとして、憲法の規定に基づき大王陛下、又はその職責の代行者に量刑の判断を委ねました」
「処刑か?」
「はい。春瀬殿下の命により、すでに全員執行済みです」
「そうか」
手を離し、静かに噴き上げる噴水を見上げる。
「今も続く連隊基地の反乱が飛び火しないよう気を付けねばな。ただ十分に弱らせないと今度は逮捕が困難だ。焦りつつも焦らず。最後通牒のタイミングが鍵だろう」
「殿下にもそうお伝えしておきます」
「ああ、頼んだ」
冷たい山岳の風が芝生をなびかせる。白髪も一緒になって揺れた。
「着いたばかりなのにすまないな。またすぐに首都へ言伝にやったりして。まったく国の非常事態だと言うのに……情けないものだ」
「私は陛下の秘書です。何なりとお申し付けください。そして十分にご静養ください」
目を細めて見返すと、屋敷へ戻ろうと体を翻す。だが瞬間、うっと呻いてよろけた。
「陛下!」
リョーシェンカが青冷めて駆け寄ってきて、前から抱き止める。
「ダイジョウブ?」
しばらく唇をぎゅっと噛んで辛そうに体を預けるが、少しすると顔から緊張が解ける。その代わり、疲れがどっと湧き出してきた。喘ぎあえぎ苦しそうに言う。
「鎮痛剤が……切れたみたいだ」
ぴくっとすると、目を瞑ってまた痛みに耐える。
「本当は次のまでちょっと早いけど、もう飲んじゃおう。ネ?」
優しく声を掛け、背中をさする。
「わ、私も手伝います」
七海が申し出ると、リョーシェンカは首を横に振る。
「よく分かんないけど、アナタは他の仕事があるんじゃないノ?」
「は、はい」
「ジャア、それをやらなきゃ」
「しかし――」
「ア、それなら、近衛兵を呼んで来てくれる? ワタシ一人じゃ運べないから」
「分かりました」
秘書はぺこりと頭を下げると屋敷の方へ庭の勾配を駆け上って行く。大王は遠ざかって行く足音を抱き支えられたままじっと聞いていた。
――山に比し 小さきかな 我が体 手に余るほど小さきかな