第十七話 思い出の箪笥*
「大崎家。脳波による高精度な空間把握能力で陸戦の天才と呼ばれ二千年……。しかし、本当に当主は陸軍軍人だったのですか?」
会談後、一行が大崎邸の来賓用寝室に通されると、ベッド脇のソファに座りながら秘書が呆れて言った。マントは壁にかけてベッドに寝転んだ大王が苦笑いする。
「そのはずだがなあ。いや誠見事な返事だった」
どうやら先ほどの会見における最後の返答がよほどおかしかったらしい。伊達派では軍官が分離されていることもあって、政治家が武に秀で、武人が政治に秀でているといったことはあまりない。生粋の武人たる大崎家当主が慎重に検討したいなどと政治家言葉を話すのは、政治家の彼らにはかなり笑える図なのである。
兎にも角にも、交渉は継続して行われることになった。大王は予めこうなると分かっていたのか、ショックを受けた様子はなく、平常運転だ。
しかし、七海は時折考え込むような表情を見せている。
「どうした、七海?」
案じて問う。だが、自分でも分からないのか、白髪をふるふると揺らす。
「分かりません。ですが、何かもやもやするのです。胸の辺りが」
「病気か?」
はっと半身を上げるが、それはないと思いますと言われ、まただらりと仰向けに寝る。
「ですが、一つはっきりしていますのは、驚いた、ということです」
「何がだ?」
「陛下が大王妃を迎える提案をなさったことです。あと、春瀬殿下が第一候補だったことも……」
「提案の内容は言ってなかったから当然としても、春瀬のことは知らなかったか?」
「ええ」
「結構有名だと思ってたんだがなあ。それともあれかな、余との確執が顕在化してから周りが気を遣って話さないようにしているのかもしれん。そうだとすれば、お前の耳に入ることはなかったな」
「ですが、過去の話ですか?」
「そんなことはないぞ」
けろっと先ほどとは真逆のことを言う。
「し、しかし、会談では――」
「考えてもみろ。縁談を持って来た奴が、他の女性との結婚に意欲を示していたらどう思う?」
「競合相手に勝つため早く手を打ちます」
「確かに。――いや違うよ」
ノリでぽんと打ってしまった手を空中に掲げる。
「今回のケースでは、他の女性とは氷野家の当主だ。つまり、大母殿下だ。律儀な軍人の彼が遠慮をしないと思うか?」
「なるほど。そうですね」
「だろ?」
手をぱたりと落とすと、あくびをする。
「はぁあ。この後の予定は?」
「午後七時より夕食会です」
「現在時刻」
「午後三時です」
「うわあ。糞暇だなー」
「陛下の言葉遣い、たまに訂正したくなるのですが……」
同じような立場にある皇女として恥ずかしいです、と嘆息する。
「今はプリヴァートな時間だ。公務中しっかりしていれば良かろう」
「プリヴァート?」
あっと口元を押さえる。
「ドイツ語かな? 私的な時間、という意味だ」
「プライベートですね。おそらくそうでしょう」
ふつりと会話が途切れる。そのまま無音が続き、真仁が身じろぐ。それから低く咳払いし、口を開いた。
「昔を思い出す」
七海が不思議そうに見やる。
「ここは従姉の家だからな。こちらから訪問することもあったんだ……その時に、こうして部屋で二人きり、過ごしたものだ」
「沙織姉様とですか?」
「そうだ」
深くため息をつく。優しくベッドが揺れる。
「あ、そうだ。ここの部屋じゃなかったかな?」
急に起き上がると室内を見回す。七海も立ち上がる。
「どうしたのですか?」
「いや確かな……ああ、ここか?」
そう言うと、部屋の隅に置かれた桐箪笥に近付く。そして膝をついて一番下の段を引き開けた。七海が覆いかぶさるように覗き込む。
「暗いですね」
「そうだな」
うなずくと、真仁は右手の人差し指をつきたてる。と、その先に赤い灯がともった。
「ほおら、明るくなったろう」
「ですね」
くすくすと笑って今一度中を見る。
物は何も入っていない。一見何の変哲もないようだが……
「やっぱりそうだ。ほら、ここだ」
真仁が棚の奥の方に光る指をつっこむ。すると、何か削られたような跡が浮かび上がってきた。
「丁ですか?」
刻まれた二本の線を見て問う。
「いや、正の字の初め二画だ」
懐かしむようにその上をなぞる。
「過去、ここには何度か来た。沙織も一緒にな。そしていつの時か、何度来たか証を残そうと二人で言い始めたんだ。子供っぽい発想だが、それは当時は大真面目にな、二人して箪笥のここ、誰にも見付からなそうな隠し場所に正の字で回数を刻んだんだ。ただ、三度目は……」
嘆息してうつむく。七海が気を遣うように声を掛ける。
「毎度、このお部屋だったのですね」
振り向いてうなずく。
「そうだ。当時は、まさかこの部屋で、妹とこれを見ることになろうとは思わなかったよ」
「それどころか妹がいることも知りませんでしたよね?」
「沙織とあんな風に離ればなれになるともな」
首を振って立ち上がる。瞬間よろけて、箪笥に手をついた。
「へ、陛下?」
しばらくうつむいたまま無言なので秘書はおどおどと心配するが、しばらくすると何もなかったかのように顔を上げた。
「立ちくらみだ。昔から多くてな」
苦笑してみせると、七海はほっと一息つく。
「沙織は……帝国ではどんな様子だったんだ?」
今後は七海が語る番らしい。
「軟禁状態にはありましたが、首都の中の小さめな屋敷に入れられていましたから、普段窮屈な思いをしています様子はありませんでした」
「話したことはあるのか?」
「ありますよ。昔に少し。私はもちろん、姉が一人さらわれたということは知っていましたから、帰ってきました際は、正直、嬉しい気持ちでした。その、陛下には申し訳ないのですが」
「遠慮はしなくていい。今は七海の話が聞きたいのだ」
柔和に微笑んで先を促す。
「帰ってきました直後から軟禁されていますが、昔はさほど警備も厳重でなく、特に妹の私などは比較的自由に出入りできました。ですが、次第に沙織派の小規模な軍事反乱が各地で起きますようになりますと、警備の兵士が増えまして、日によっては会えないようになりました」
「会った時は、何を話していたんだ?」
「他愛もないことです。普通の姉妹の会話でした。周兄様に甘えます時などと特に変わりますところはなかったですね」
「ほう?」
今の興味ありげな相槌が何に対してなのかは判然としない。
「段々と庭の話が多くなっていきましたが」
「まあ、そうだろうなあ」
「はい。ですが、私が本腰を入れまして各地で造園に取り組み始めました頃には、私でありましても一歩も屋敷へ入れてもらえませんで、仕方なく文通で我慢しました。もちろん全て検閲していましたでしょうが、庭の話ばかりでさぞ心が和んだことでしょう」
皮肉っぽい物言いに真仁は笑みを零す。
「沙織姉様は手紙でこう言っていました。『いずれ黄汐の離宮庭園を案内してください。ぜひあなたと二人で周りたいわ』と。それに、三人で周りましょう、と返したら……」
大王が固唾を呑む。
「『私とあなたと、あの簒奪者の首ということかしら?』と返されまして――。以後、地下牢に叩き込んで暴行させたのは、周兄様の仕業だと嘘をつかれますまで、互いに梨のつぶてとなってしまいました」
そうか……と大王が呟く。その黒い瞳は深い泉のようだ。
「早く迎えに行って、そしてただいまと言いたいな」
「ただ家族と幸せに過ごしたいだけですのに、政策を使わなければなりませんとは不便なものですね」
「まったくだ」
この後、夕食会で豪華な料理(と大王の場合は美酒)に舌鼓を打ち、その後は寝るまで久しぶりに三人の従姉妹、もとい、大王妃候補たちと談笑にふけって過ごした。真仁は前は沙織もこの場にいて、従姉妹たちと遊んでいたことを思い出していたが、保守強硬派である彼女らの前で、それを口に出す勇気はさすがになかった。