フリーライダーについての考察(読書感想ともいう)
URL http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=28948480
PDF http://www.idsuru.com/file/pdf/the_free_rider.pdf
上記の書籍を参考に、持論展開してみたい。
フリーライダーについては上記の書を参考にしてもらった方が早いので詳しくは述べないが、要約すると「他者のアイデアを拝借して自身の創作を為す者」と思ってもらえればいい。つまり、広義のパクラーだ。
アイデアに著作権はないとの反論もあるだろうが、問題をそこに置くつもりはない。法理とはまったく別のところで考察したい。持論としては、「アイデアが浮かばない者にはそもそも創作する資格はない」という派閥に属すると思って頂いて結構だ。事実、ネットの普及しないひと昔前なら一億総クリエイターなんていう状態は生まれようがなかった。多くの人は技術を知らず、アイデアが浮かんでもそれを形にする術を習うことは難しかった。そのため、つまらないアイデアなど自身で打ち捨てたし、よほどの情熱を注げる者しか創作に手を出すこともなかったわけだ。本当に創作に向いている資質のある人間しか、手出ししなかったということだ。結論では。
そういった人々はパクリをするよりリスクを考えて自作する方を選ぶのが当たり前になる。その当たり前の感覚が崩れてきた昨今の状況を考えるに、どうも誰もが気安く創作に手を出せる環境というのが一番の原因ではないかという疑いを持つに至ったということだ。
世の中、例えばイラストでも小説でも書き方講座なる初心者向けのハウツーが溢れかえっているし、私自身もこれに関わって幾つか書いているわけだが、これは良いことだったのかと今は疑問に感じている。私の教えたことは、実は「手段を持たない人々に対し、パクラーの技術を教えるが如き」事柄だったのではないか?
初心者の、本当に初歩的なテクニックを知っていれば、「容易に他者の作品をキリバリした作品が作れる」という事になるわけだ。パッチワークのかがり縫いを教えていたと言えなくはないか。自身ではアイデアを捻り出せない者でも、技術さえあれば、他者のアイデアをパクってパッチワークにする事は出来るようになる。それは果たして善行と呼べるだろうか。
そもそも、昔は教えてもらうにしても労力を費やした。懸命に探して、少ない資料の中から自力で発掘するものだったわけだ。今は違う。溢れんばかりの資料からチョイスし、それすら面倒な者は質問という形でとても安易に答えを入手できる環境がある。行程が違うだけで結果は同じだが、それは本当に同じ結末を意味するだろうか。私は違うと思うのだ。フリーライダーに絞ってみよう、彼等はパッチワークという手段で作品を完成させる。自身のアイデア、自身の労力による部分は何割かしかなく、他者のアイデアと労力を混ぜねば創作が行えない。この事は、本人に自覚がないとしても薄々は気付いているはずの理屈だ。漠然と、100%誇れる出来栄えではない、という自覚ならばあるだろう。オリジナルかどうかという質問では反発する者であっても、誇れるかと聞かれて本心からYesと答えられるなら、それは頭がオカシイ。借り物だという意識を完全に消せるなら、ここで対象にすることも出来ない特殊な人間になってしまう。
なぜ借りてくるのかに焦点を移して考えてみる。パクリという誹りを受ける可能性がある限り、通常は避けて通るはずなのに、なぜフリーライダーたちはあえて危険な道を通るのか?
本人たちは、労力の無駄やら、素材を利用している、成果主義だ、といった理屈を並べるが、本当の理由など言うはずはない。特に悪徳に関する真の理由は言いたがらないものだと思う。
恐らくは「自作は出来ない」という想いがあるからだろう。これは、自己評価の低さが原因だと私は考えている。自己評価の高い者は「根拠なき自信に満ち溢れ」「俺の本気はこんなもんじゃないぜ」と考えている。借りたという行為を、「嘘を吐いてまで」隠すはずがないのだ。いずれは借りずに描けると思っているのだから。
その点で、参考の為に借りる行為とフリーライドは違うだろう。参考と示せない理由があるのは、その作品の大部分、あるいは重要な部分が借り物である場合だ。そうでない部分を借りた者はただのズボラで、フリーライダーにも区分がありそうだと思う。初期と末期とでも言うべきか。書籍の区分では触れていなかったが。
小説なら、キモとなるストーリーや冒頭イベントなどをパクる者は末期と捉えるべきだろう。もはや自身の考え出したストーリーや冒頭では勝負が出来ないという強迫感があるのではないかと考える。他者の作品やテンプレートを利用することが真っ先に頭に浮かぶだろうと思う。イラストならばまず他者の優れた作品を参考にすることが真っ先に浮かぶという具合だ。アイデアは後から付け足しで出される。末期ではそのアイデアさえ他人からの借り物になるかも知れない。
表現したい「何か」が先にあるのではなく、彼等はまず「評価されたい」という欲求があるからだ。彼等、フリーライドを行う者たちは、自己評価が著しく低いのだろうと思う。表現欲求を押し潰すほどに、承認欲求が肥大しているのではないか。彼等は「表現したいことなどない」のが本当ではないかと思う。
プライドが高いと先の書籍では分析していたが、私は逆だろうと思う。プライドは低い、だが虚勢を張っている。フリーライドをする者たちは「虚勢を張って踏ん張っているだけ」で「自信はほとんどない」のが本当だろう。自己評価というのは絶対評価である。対して他者からの評価というものは相対評価である。自身の中では、まず自己評価による基準が出来ており、そこに相対的な他者の評価が組み合わさるものだと思う。自己評価が低いせいで、他者から貰った高評価に縋っているというのが実情か。いや、高評価を受ければ受けるほど、自己評価の低さに比例して、ますます自身を無能と感じるようになるのではないか。
だから、現状のように製作者が溢れかえって多少のモノでは高評価を得られなくなったような場所では、パクリ行為がエスカレートしていく。下駄を履かせたと言う言葉があるが、下駄の部分がどんどん大きくなる。自分の作った部分では勝負出来ないという深層心理が働くのではないか。あげく、誰が見てもパクリだという作品が出来上がるのだろうと思うが。彼等がパクリを否定する背景には、自己防衛が強く作用していると思う。それは普通の感覚を持つ者には理解が難しいほどの強迫観念に支えられているので、常軌を逸していることも多々あるのではないかと思う。