8.スーレシア市の夜宴に出ることになった。(中)
案内人に従って玄関ホールをくぐるとすぐ中庭に出る。中庭の中央には大きな貯水槽があって、周囲の屋根からの雨水を受け止めて蓄えられるような造りになっている。この中庭を抜け、廊下を一つ二つとくぐった先にある食堂が今夜の饗宴の舞台だ。
部屋の中央にはいくつかの小さなテーブルが置かれ、周りを三台の臥台がコの字型に並んでいる。臥台の上にはやわらかな羽布団が敷かれている。その上では既に何人かの招待客が寝そべって談笑していた。臥台一つにつき三人が着く。
臥台の足下ではここの主人に養われている食客や、招待客に仕える奴隷らが簡素な腰掛けをあてがわれて座っている。
こうして三つ並んだ臥台の最奥では今夜の宴会の主催者がだらしなくゆるんだ体を臥台に横たえていた。これでも若い頃は方々の戦に重装歩兵として参加し、勇猛をもってならしたそうだ。今の姿からは想像もつかないけれど、ダロリー卿が嘘をついてるとも思えないので本当なんだろう。
「おうおう、ダロリー殿。よくいらした。して、そちらが評判のご令嬢かね?」
「はい、娘です。テフィー、御挨拶を」
「お初にお目にかかります。テフィリズ・ターシュタリアと申します」
ダロリー卿が促すと、テフィーは僕の前から一歩進んで、サリトス流の完璧な礼をしてみせた。
その様はといえば、この家主が思わず起き上がり、居住まいを正して改めて礼を返すほど。テフィーが見せたのはそのぐらい秀麗な礼だった。
「そしてそちらがヴィローハザ殿ですかな。お噂はかねがね伺っておりますぞ。異界の美食に通じておいでの由、と。そのような術師殿にご満足いただけるものを出せるかどうか、いささか怖うございますわい」
「とんでもない。若輩につき、食の良し悪しにもさほど長じてはございません。今宵はいかな美食に出会えるものかと楽しみにして参りました」
社交辞令といえば社交辞令だけれど、嘘はついてない。楽しみにしてるのも本当だ。スーレシア市のセレブが食べるような料理に触れるのは今日が初めてだし。
ここで、頼まれてたお酒を杖の中から解封して引き渡しておく。雑役奴隷がお酒を受け取り、僕は星銀貨一枚を得た。まいどありぃっ。
ダロリー卿夫妻は主賓ということで家主の隣席に、僕とテフィーは最若輩なので末席に着く。
僕たちが臥台に腰を下ろすとすぐ、見目麗しいお姉さんがそれぞれに二人ずつやってくる。二人ともこの家の召使い、というか奴隷だ。
一人は僕の足下に銅の盥を置き、足を取って編みサンダルを脱がせてくれる。こうして裸足になったところを盥に張ったぬるま湯に浸して一足ずつ丁寧に洗い清めていく。足指の間をお姉さんの細い指が艶めかしく動く。思わず「はぅん」とか変な声が漏れちゃう。
もう一人は手の担当だ。外側がうっすらと結露した金鉢を僕の膝の上に置く。鉢の中には水が張られ、長衣越しにもひんやりとした冷たさが伝わってくる。水面には薄く剥いた柑橘系の果皮が浮いている。良い香りだ。お姉さんが僕の手を取り、この清冽な水をぱしゃりぱしゃりとかけて埃を落としてくれる。屈んだ胸元から豊満な谷間が見える。さらにその奥の暗がりを覗き込むと何かが見えそ、見えそう、もう少しで見え……。痛いっ痛いっ、お尻が痛いっ。ちょっとテフィー! なんでお尻つねるのさっ?!
「あら失礼、この手が勝手に」
ぺしっとわざとらしく自分の手を叩いてみせる。いったいなんなの?
最後は手足とも清潔な布巾で拭ってもらう。
すっかり綺麗にしてもらったところで臥台の上に両足を伸べると、僕の枕元でテフィーが横座りになってくれる。その膝に頬を載せて横たわる。テフィーは一応奴隷身分なので臥台の上には席が与えられていない。とはいえ主賓の娘を床に座らせるわけにもいかない。そんなわけで、僕とセットで一席分、ということになったらしい。
ああでも、御両親の前でこういう姿を見せるのはちょっと恥ずかしいかな、なんて思いながらテフィーの方を見上げる。テフィーはふわりと柔らかい笑みを浮かべ、その手で僕の前髪をそっと撫でた。今日のテフィーの手からはシトラスの香りがする。
しばらくすると他の招待客も揃い、いよいよ宴が始まった。部屋の隅では数名の楽士奴隷が控えめに竪琴を奏で始める。落ち着いた曲が宴席を彩る。
まず運ばれてきたのは半熟卵。殻付きのまま、リキュールグラスみたいな卵用の杯に盛られてやってきた。殻の先端は綺麗にくりぬかれており、その中に黒っぽいソースがたらりと注がれている。色からして魚醤をベースにしたソースだろう。とはいえ魚醤特有の臭みはあまり感じない。鼻を近付けると磯の香りがほのかに感じられる程度だ。代わりに香草の良い匂いがする。これを銀の小匙で混ぜ合わせながらいただく。
料理としては単純だけれど、とろりと濃厚な黄身の味に魚醤の旨味と風味がよく合っている。
この卵と一緒にお酒も振る舞われる。
家主によると今夜の葡萄酒はどこそこ産の九年もので、それを水と半々に割ったものだそうだ。ここいらではワインは水で割って飲むのが普通で、水とワインの比率は宴のホストが決めることになっている。一対一で割ったワインは今夜のような陽気に騒ぐための宴において飲まれる。哲学談義みたいな込み入った話をするときには一対二とか一対三とか、とにかくもっと薄く割って飲む。
水割りワインには蜂蜜で甘みを付け、さらに各種の香草や香辛料で風味を整える。今夜のワインは夏らしい爽やかな香りがする。夏の盛りにも関わらず銀の酒杯には氷が浮いている。氷室から切り出してきた氷だ。銀杯自体もよく冷えている。サリトス人はこういう贅沢には余念がない。今夜のような金持ちの饗宴ではなおのこと。
これらの酒や料理は臥台の下に座り込んでいる食客や奴隷たちにも気前よく振る舞われる。
僕はあまりお酒が強くないので、一口か二口だけ口を付けたらテーブルに戻し、休み休み杯を空ける。蜂蜜水で割ったワインは飲みやすいけれど、飲みやすいだけに危ない。
卵の次には最初の前菜が運ばれてくる。まずは何種類かの豆と野菜からなるサラダだ。これにはオリーブ油とお酢と塩からなるドレッシングがかけられている。このサラダに玉菜が多めなのはこの家のご主人の都合らしい。なんでもここのご主人はあまりお酒が強くないらしく、二日酔いに効くというキャベツを宴会の始めにたっぷりと食べておくことにしているそうだ。これもダロリー卿から聞いた話。
テーブルの大皿から給仕の女奴隷たちがお客の小皿にそれぞれよそって手渡してくれる。お客はみんな臥台の上で左手の肘をついて小皿を押さえ、右の手指で料理を摘んで食べ、折々に酒杯を傾ける。
ほくほくのヒヨコ豆が美味しい。家で食べるときはつい横着して圧力鍋とか使っちゃうけど、それだと皮が破れてあまり見目の良いものにならない。弱火で丁寧にじっくり煮込まれたヒヨコ豆はやっぱり一味違う。
「ねえテフィー、そこのサラダもうちょっと取ってくれる?」
「かしこまりました」
テフィーがテーブルに身を乗り出し、大皿から野菜を取って小皿に大盛りにする。小皿を僕の横に置く。かと思うと両手で僕の頬を押さえ、顔を仰向けにさせる。
なんだなんだと思っていたらテフィーが小皿からキャベツを一枚摘んで僕の口元に持ってくる。「はい旦那さま、あーん」とか。いくらなんでもわざとらしい。そもそも親御さんの前でそういうことをされるのがかなり恥ずかしい。まあ素直に頂きますけどね。うん、しゃきしゃきのキャベツが美味しい。もっとたくさんください。
「旦那さまはお酒が弱うございますから、今のうちに玉菜をたくさん召し上がっておかれませ」
いやだから、僕は別に弱いわけじゃない。年相応なだけ。テフィーが強いだけだって。
「はいはい、そういうことにして差し上げますわ」
「はっはっは。名にし負う“北果ての賢者”殿もテフィリズ嬢の前では形無しですな。そんな調子では後々苦労しますぞ?」
僕の隣に臥していたお兄さんが呵々大笑しながら、何とも愉快そうに杯を呷った。
突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んだらいいか分からない。それに突っ込んだら負けのような気もする。
臥台の下に座る食客やお付きの奴隷たちも台上の僕らのやりとりに笑いをかみ殺している。
彼らは彼らで本来のお客に遠慮する様子もなくこの宴を堪能しているようだ。