10.僕のつくるカレーから唐辛子が姿を消して久しい。
僕のつくるカレーから唐辛子が姿を消して久しい。少なくとも調理の段階では入れないようになった。テフィーの好みに合わせた結果だ。
テフィーは唐辛子が苦手である。ペペロンチーノを食べるときもわざわざ唐辛子を除けながら食べるし、アラビアータなんか論外。キムチだって食べない。あまつさえ、唐辛子など人の食べるものではないとまで言い切って憚らない。
初めてカレーを食べさせたときなんか、一口目を口に含んだ途端に毒が入っていると言い出した。ただの中辛カレーだったんだけどな。
このときは僕が平気で食べてる様子に何か負けん気を起こしたのか、ひぃひぃ言いながらも一応は完食した、したけれども食後は文句をぶーぶー。
いやまあ、テフィーにとってああいう辛味は初めての体験だろうし、いきなり食べさせられてびっくりしちゃったのも分からないではないけどね。
なんでも当人の曰く、
「あの毒々しい赤! あれを見ただけで食欲が萎えますわ!」
だそうで。
トマトやパプリカは平気なくせに。そんなこと言うならそのうち青唐辛子食わせちゃろ、と密かに心に誓ったものだ。
と、そんなわけで、以降、我が家ではカレーの鍋から唐辛子が追放されることになった。市販のルーからつくるならできるだけ甘口のを使い、本格的にスパイスからつくるインド風カレーなら唐辛子は入れないようにする。
どちらにしてもそれぞれの皿によそってから僕の分にだけ唐辛子を振るのがお約束だ。
ルーを使う場合は朝から仕込む。
今までは圧力鍋一辺倒だったけど最近は保温調理鍋も使っている。急に煮込み料理を食べたくなったときは圧力鍋で、そうでないときは保温調理鍋みたいな使い分け。特に豆を煮るときなんかは保温調理一択。割れることも皮が破れることもなく、ふっくら形良く美味しそうに仕上がる。
人参、ジャガイモ、玉ねぎを一センチから二センチ角のさいの目に切って、みじん切りのにんにくと生姜と一緒に、鍋にたっぷり注いだオリーブオイルで炒める。玉ねぎの甘い香りが立ってきたら水を加えて煮込む。並行して牛のスネ肉に塩胡椒で下味を付け、別のフライパンでさっと焼き色を付ける。良い色に焼けた牛スネ肉はそのまま食べたくなるぐらい香ばしい。これも鍋に加える。皮を湯剥きした生トマトをひとつかふたつ、ざくざく切って放り込む。量はそのときの気分次第。
ここからまた少し煮込んだら火を止め、ルーを加える。もう一度煮立たせたら鍋ごと保温容器に移して夕方まで放置。
夕食の少し前に蓋を開け、ガラムマサラを振りかけて香り成分を補充する。それから少しだけ煮込んで出来上がり。
これを炊きたてのご飯に掛けて食べる。時間を掛けて余熱でじっくり煮込まれたお芋や根菜類はどれもほっこほこ、お肉もとろっとろで、どちらも口に含むや舌の上でとろけてほぐれる。ガラムマサラの香りもよく効いている。
市販のルーからカレーをつくるときは毎回五皿分つくる。夕食にはテフィーの分と僕がお代わりする分とを含めて都合三皿。残りの二皿は翌朝、僕とテフィーとでそれぞれ一皿ずつ焼きカレーにアレンジして食べる分。
翌朝はグラタン皿にバターを塗った上にご飯を盛り、その真ん中にくぼみをつくって生卵を落としたところに昨晩の残りもののカレーをかけ回し、最後にチーズをこれもたっぷりと振りかけ、皿ごとグリルに入れて焼く。
中火で数分、強火でまた数分。
グラタン皿の表面ではチーズが炙られてきつね色に焦げ、じゅうじゅうしゅわしゅわと泡が立つ。くぼみに落とした生卵の表面がグリルの熱で真っ白に染まっていく。
リビングのテーブルに鍋敷きを置き、その上にこの皿を運ぶ。チーズのじゅうじゅう音はまだ収まってない。
皿の端からスプーンを突っ込み、焼けて焦げたチーズ、カレー、その下の白いご飯をまとめて持ち上げる。とろとろに溶けたチーズがにょーんと伸びる。そのうちの何本かがスプーンの下にぺたりと貼り付く。ご飯の白、カレーの黄色、チーズの白の二色三重奏。これらを大口開けて丸ごと頬張る。
熱い、熱い、熱くて美味しい。はっふはっふと懸命に息を吸い、口の中に風を送り込んで、熱々のチーズを冷ましながら咀嚼する。それでも足りなくて熱いままなのも構わずに飲み下す。喉元過ぎてもなお熱い。胃壁まで火傷しそうな熱さにしばし身悶える。
その熱さが収まるとすぐ二口目が欲しくなる。
二口目の前に卵の黄身を破って中身をチーズの上に流す。黄色い中身がとろりと流れ出し、熱いチーズの上でゆっくりと半熟に火が通っていく。これをまたスプーンですくって口に運ぶ。今度は黄身も加えた四重奏。
さっきのでちょっと懲りたので今度はふーふー息を吹いてよくよく冷ましてから口に運ぶ。
「あふっ」
焼け石に水だ。やっぱりまだ熱い。でも美味しい。黄身の甘味がとろとろと舌に絡みつく。一晩寝かせてまろやかになったカレーの香りはまた格別で、熱々のチーズが炊きたてのご飯を包みこむ。
一口ごとに食欲が刺激され、食べれば食べるほどになお空腹が募る。
気が付いたら食べ終わっていた。ちょっと物足りない。
「テフィーにはちょっと多くない? 少し食べてあげるよ。香辛料とかきついでしょ?」
「結構ですわ。わたくしが苦手なのはあくまでも辣椒であって、『かれー』ではございませんもの」
うぅ、やっぱりもう少し多めにつくっておくんだったかなぁ。
テフィーもテフィーだよ。こういうときは少しぐらい気を利かせてくれても罰は当たらないと思う。
さて一方、インド風カレーはあまり煮込んだりせず、時間をかけずにさっとつくる方が美味しい。
多めの油でホールスパイスを熱して香りを立て、にんにく、生姜、玉ねぎのみじん切りを入れてさらに炒める。
玉ねぎが透き通ってきたところでパウダースパイスを加える。まずはコリアンダーとターメリックをそれぞれ小匙一ぐらいずつ入れる。これだけで鍋の中がいきなりカレーっぽくなる。さらにシナモンやナツメグなど、他のスパイスをその日の気分で適当に振り入れる。これらのパウダースパイスが油を吸ってフライパンの中がこすこすと固くまとまってくる。しばらく炒めると何とも言えない良い香りが立ってくる。そうしたら今度は缶詰トマトの出番。一缶分まるごと入れちゃう。
トマトの水分を適当に飛ばしたところで鶏の胸肉を入れてさらに炒める。
ここでヒヨコ豆入ります。前の晩から水で戻して、朝から保温調理器でほんわり茹であげたお豆を煮汁ごと加える。よく混ぜ合わせてから一煮立ちさせ、いったん火を止めて今度はヨーグルトをお玉で二杯ほど入れる。
カレーとヨーグルトが十分に混ざったところで再び点火。さらに煮込む。
ヨーグルトの酸味がまろやかになった頃合いで塩胡椒。茄子とかピーマンとかキノコとかもこのあたりで追加。最後にガラムマサラを一振り二振り。
ここまでを夕食の一時間前ぐらいまでに済ませ、残りの時間は寝かせておく。
こういうカレーにはやっぱり長粒米がよく合う。最近のお気に入りはタイ産の香り米。これは研ぐのではなくさっとすすぎ、炊くかわりにたっぷりのお湯でパスタみたいに茹でる。米の中心に芯が残るか残らないかのアルデンテになったところでお湯を捨て、蓋をしたまま少しの間だけ弱火にかける。火を止めたらまたしばらく蒸らす。赤子が泣いても蓋取るな。
鍋の蓋を開ける。ぽわんと湯気が立ち上る。この湯気はポップコーンみたいな独特の香りがする。
このぱらっとしたお米をお皿に盛り、ゆるめのカレーをかけて食卓へ運ぶ。仕上げにコリアンダーの葉を刻んだのを散らす。
香り豊かなジャスミンライスはスパイシーなカレーの風味にも全然負けない。適度に火の通った鶏胸肉はしっとりと柔らかで、後から加えた野菜やキノコもしゃきしゃきくにゅくにゅと良い歯ごたえ。ほこほこのヒヨコ豆も美味しいです。
一口二口食べたら自分の皿にだけ唐辛子を振る。本当は他のスパイスと一緒に振って馴染ませた方が美味しいんだけれど、それだとテフィーが食べられなくなっちゃうからね。しばらくは我慢、我慢。
それにしてもテフィーはいつになったら唐辛子に慣れるんだろう。少しずつ慣らしていくしかないのかしら。
でもいっそ、
「ねえテフィー、今度グリーンカレー食べてみない? あれなら赤唐辛子もそんなに入らないし。あれとっても美味しいんだよ。テフィーにも食べさせてあげたいなぁ」
……こんな荒療治も悪くないかな、なんて思ったりもする。
駄目なら駄目でそのときはそのときさ。




