第9話 新たなビジネスチュロズスキーム〜感染拡大中〜③
ヴァルメリア王都・ソレイユ地区。
「陽光の街」と呼ばれるこの地は、昼夜を問わず商人と客で溢れている。
石畳の通りには露店やバザーが立ち並び、香辛料と魔導油の匂いが入り混じる。
表向きは合法のバーや劇場、舞踏サロンが軒を連ね、
人々は音楽と酒に酔い、金貨の音を“幸福”と呼んでいた。
だがその裏では、契約書一枚で人生を売買し、
数字の上だけで誰かが死ぬ――そんな静かな犯罪が息づいている。
ポルコ商店のような大手商会も本店をここに構え、
一見きらびやかな街並みは、王都ヴァルメリアの経済の心臓部そのものだった。
そして、その血流を監視するのが――
ソレイユ地区警察署・情報監査課である。高天井に魔導灯が淡く揺れ、光の粒が書類の山を照らしていた。
昼だというのに、室内の空気は冷たく張りつめている。
エレーヌ・クロード警部補は、誰もいない執務室で黙々と書類をめくっていた。
指先が紙を滑るたび、整然とした音が響く。
黒に近い灰色の髪を後ろでゆるく束ね、目だけが鋭く動く。
机の端では、濃いコーヒーが湯気も立てずに冷めていた。
彼女はこの街の経済犯罪――魔導取引、通貨偽造、虚偽契約――を監査する担当官だ。
理屈と数字の世界で生きる女。
情熱ではなく、“秩序の維持”だけを信条に動く。
だが最近、その秩序が静かに歪み始めていた。
⸻
クル・ノワ地区。
エレーヌはその名を見るたびに眉をひそめる。
あの下層街から流れてくる犯罪者たちは、まるで底なし沼の泥のようだ。
上がってくるたびに周囲を汚し、沈んでもまた別の泡が浮かぶ。
先日も、ポルコ商店の強盗殺人。
それに――三流新聞が面白おかしく報じていた「ソウルスワップ詐欺」。
どちらもクル・ノワ地区が関わっていた。
「……またクル・ノワか」
エレーヌは独りごちた。
コーヒーを口に運ぶが、もう冷め切っていた。
机上には、複数の犯罪統計資料。
彼女はそれを並べ、細い指で数字をなぞる。
ソレイユ地区全体の犯罪発生率――上昇。
特に南端、クル・ノワと接する区域では、
盗難・窃盗が北側の3.75倍に跳ね上がっていた。
眉がわずかに動く。
「……不自然ね。傾向の変化が早すぎる」
さらに資料をめくる。
被害届の記録――財布、金貨袋、鞄、現金に類するもののみ。
だがそのほとんどが「犯人不明」「目撃なし」。
ページをめくる手が止まる。
静寂が室内を包む。
エレーヌの目が、資料から魔導端末へと移る。
光の石板が、淡く明滅した。
「クル・ノワで、また何か始まっている――」
その声には怒気も焦りもない。
ただ、淡々とした“業務連絡”のような冷たさだけがあった。
エレーヌ・クロードの沈黙が、次の嵐の予兆だった。
⸻
同時刻 クル・ノワ地区・倉庫街
夕刻。
濁った川沿いに並ぶ古びた倉庫群――
その一角、扉は壊れ、壁には煤がこびりついている。
木箱や麻袋が雑然と積まれ、
床は湿り気を帯びて銀貨の反射を鈍く返していた。
外ではスリたちの笑い声、遠くで魔導灯がひとつ瞬く。
腐臭と油と汗の混じるその空間の中心で――
「……ふはっ、ははははははッ!!!」
銀貨の山の中に埋もれ、狂ったように笑う男がいた。
ルオ・ラザール。
両手で銀貨を掴み、頭から浴び、
まるで雨のように降り注ぐ硬貨を受けながら、
彼は狂気と歓喜の境界を漂っていた。
「チュロ……やるじゃねぇか……!
“チュロズ・スキーム”がここまで回るとはな……!」
銀貨が床に転がり、チャリン、チャリンと響く。
それは祝福でもあり、地獄の合唱でもあった。
ルオはその音に酔いしれながら、
口元を歪め、笑いを止められなかった。
「これが……経済の音だ……!」
倉庫の天井から一滴、冷たい水が落ちて頬を打つ。
だがその顔は、汗なのか涙なのかも分からないほどに濡れていた。
そして――
外の通りでは、またひとりのチュロの“弟”が新たな財布を抜き取り、
「兄ちゃん、銀貨届いたよー!」と叫びながら走り去っていった。
クル・ノワの夜が、
銀貨の音とともに狂い始めていた。
ソレイユ地区【Soleil District】
名詞
① バルメリア市の南端に広がる市場街。
香辛料と笑い声、金貨と幻術が入り混じる。
陽光の名を持ちながら、実際は値札の迷宮である。
例:「観光客は、まずソレイユで財布をなくす」
② (転)値切りと誇張の応酬を楽しむ場所。
ぼったくられることさえ“参加料”とされる街。
客も商人も、互いに相手を騙すことで、ようやく対等になる。
例:「ここでは損をする者ほど、歓迎される」
③ (比喩)
笑顔の下で財布を開く人間の心理を象徴する語。
“幸福の値段”を自分でつけて払う場所。
例:「ソレイユとは、自己満足が通貨として通用する市場である」
〔補説〕
この街においては、「得をする」よりも「気分が良い」が優先される。
騙されて笑う者だけが、真の顧客であり、
損を笑えぬ者は、そもそも入場資格を持たない。
――『新冥界国語辞典』より




