第73話 シングルモルトは嘘をつかない。〜体感的検証中〜②
「ウイスキーはお金と同じだって、ルオが言ってたもん!」
唐突に、聞き覚えのある声が背後から飛んだ。
振り返ると――チュロが、いつの間にか列の隙間に立っていた。
いつもの調子で、まるで“帰ってきた常連客”のように自然に。
ルオは特に驚かず、淡々と頷く。
「あぁ……確かに、投機が盛り上がってるって話はしたな。」
シエナが笑った。
「あー、先週そんな話してたっすね。」
「うん、だから気になってて――気づいたら持ってたの。」
リシュアは顔をひきつらせる。
「……いや、お前たち。このウイスキーを“盗んだ張本人”が目の前にいるんだが……誰も気にしないのか?」
「え? だってチュロちゃん、いつもそんな感じっすよ?」
「……この街の倫理観、やっぱり狂ってる。」
ガスが大笑いした。
「なかなか渋いとこ持ってくるじゃねぇか! 酒飲みのセンスあるぜ!
アルデンヌなんて、こんな機会でもなきゃ口にできねぇからな!」
「押収品くすねる気満々っすね!」
「いや、ちゃんと返すぜ? “テイスティング”はさせてもらうがな!」
――クル・ノワ市警局では、押収品は「一時的行政管理物」として、職員による“体験的検証”が慣例となっている。
味見は官用試飲、試着は質感評価、持ち帰りは継続観察。
帳簿上はいずれも「市民生活向上のための実地調査」とされ、
それを疑問視する職員は――いない。
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ミモザが右端の一角をちらちら見ていた。
そこだけ瓶が乱雑に積まれ、他とは明らかに空気が違う。
ルオが小声で尋ねる。
「……何か、気になるものでも?」
「ルオちゃん、あの変わった形のボトル……なんとかして手に入れて♡」
「了解。」
ルオは一歩前に出て、瓶の山を眺めた。
「ふむ……やっぱり、これはひどいな。並べ方に理がない。」
ガスが眉を上げる。
「理?」
「全体の調和を乱している。秩序のない展示は、市民への侮辱だ。
いっそ整理しておいた方が――“公共美術的価値”が上がると思う。」
「公共美術的価値? お前、また難しい言葉で持ってこうとしてんな?」
ミモザが微笑む。
「だってガスちゃん。あれだけ“審美眼”のあるあなたが、
あんな乱れた並べ方を許すなんて、らしくないわ♡」
「う、うるせぇ。整理しようとは思ってたんだよ……!」
「なら、ここは預かって俺が並べ替えよう。」
「――待て。お前がそこまで食いつくってことは、やっぱり何かあるな?」
ルオは淡々と返す。
「何もない。ただ、美しくないだけだ。」
「それ、絶対なんかあるやつっすよ……」
「まぁまぁ♡ お互い、理想の美を追求してるだけよね?」
ガスは苦笑しながら頭をかいた。
「……だめだ。市民のものは、市警局員のものだ。つまり俺のもんだ。」
「それは立派な行政解釈だな。」
「“市民と共にある警察”ってやつだ。」
「共にありすぎるな。」
四人と一匹は肩を落とし、廊下へと引き返した。
背後では、ガスの笑い声とウイスキーの瓶がぶつかる音が混ざり合い、
昼下がりの光に滲んで消えた。
⸻
市警局を出ると、午後の陽射しが石畳を白く照らしていた。
港の方から、潮と鉄の匂いを混ぜた風が吹き抜ける。
「さすがガスさんっすね。ルオさんの目論見、秒でバレてたっす。」
「お前でも――さすがに市警局員は欺けないか。」
ルオは苦笑してポケットに手を突っ込む。
「そうだな。奴ら、“押収品の扱い”にだけは誠実だからな。」
後ろから小さな声。
「ねー、ルオ! これ、落ちてたんだけど、欲しがってたよね?」
振り向くと、チュロがいた。
両腕いっぱいに、右端のウイスキーの塊を抱えて。
瓶が陽光を反射して、キラキラと輝いている。
「いいぞ、チュロ。それが――ほしかったやつだ。」
「チュロちゃん、偉いわよぉ〜♡」
「ルオが欲しそうだったから、拾ったんだ!」
ルオは微笑む。
「流石チュロだな。えらいぞ。」
ガスに仕掛けるフリをしておけば、
“価値がありそう”と感じたものをチュロが拾ってくる。
それは彼の癖であり、どこか優しさでもあった。
チュロにとって“盗む”は、悪意ではなく“気づき”の一種なのだ。
「……盗んだものを、もう一回盗むって、どういう倫理構造なんだ。」
「“再流通”だよ。経済用語で言えば。」
「まぁ♡ 循環型社会ってやつね。」
⸻
机の上には、拾ってきたウイスキーの瓶が五本。
ラベルは剥がれ、文字は掠れ、どれも薄汚れている。
長い年月を経て倉庫の奥で眠っていたような佇まいだった。
ルオが尋ねる。
「で、ミモザ。お目当てはどれなんだ?」
「価値がありそうには見えないな。」
「どれも、うすぎったないっすね。逆に……価値がありそうにも見えるっすね。」
その様子は、値段を知らない宝石商の目利きのようだった。
光の加減ひとつで、五本の瓶は“宝”にも“ゴミ”にも見える。
「んー、これ? オレはこれが高いと思うの!」
チュロの指先が触れた瓶は、首がわずかに歪んでいた。
乾いたコルクの下で、琥珀色の液が金の粒のように揺れている。
「アタシはこれっすかね!」
封蝋が黒ずみ、焦げたような一本。
かすかに残ったラベルの端に、“ISLA”の文字。
遠い島への記憶を封じ込めた羅針盤のようだった。
「どっちもハズレね〜♡」
「えー! オレの、絶対高いと思ったのに!」
「チュロちゃんのはね、いちばん安いバーボンウイスキーの現行もの。
で、シエナちゃんのは惜しいわ。ポルト・リュミエール産なのは合ってるけど……
ピートが効いてて美味しいだけで、高くはないのよね♡」
「正解は――これ。」
ミモザがつまみ上げたのは、
五本の中で唯一、ラベルも刻印もない比較的きれいな瓶。
光を受け、透明な琥珀が静かに揺れる。
「……ラベルを貼った跡がないように見えるな。」
「そ、正解♡ 刻印もラベルもないのは、
“名より味が残ればよい”――初代蒸留責任者の遺言によるものなの。」
「名より味、か。……ずいぶん洒落た哲学を持った職人だな。」
「でしょ♡ 名前を捨てた方が高く売れるなんて――まるでルオちゃんの商売みたいね。」
「……そんないいものなのに、ガスさんが見逃したんすか?」
「知らないのも無理ないわね。このボトルは――225本しか製造されていないのよ。」
それは225本だけ造られた、〈ルーメン・ポルト五十四年〉。
ポルト=リュミエール港外れ、ルミナ半島の小さな蒸留所で、戦後の混乱期に国家記念として秘蔵樽が開かれ、その一部だけが静かに瓶詰めされたと記録にある。
「無色の厚手クリスタルよ。刻印もラベルも封蝋も一切なし。
光を受けると表面の凹凸が波みたいに揺れて、
底の曲面に沈む琥珀が――まるで海を閉じ込めたみたいに光を返すの。
栓はポルトの旧造船所の黒檀コルク。手に取ると、ほんの少し潮の香りが残るわ。」
「五十四年に作られたってことっすか? ……あれっ、五十四年って、五十年に一度の“当たり年”とか、そういうやつっす?」
ミモザは吹き出しそうになりながら、優しく首を振った。
「違うのよ、シエナちゃん。それはワインの話。
ウイスキーは“作った年”じゃなくて、“樽に詰めた年”で語るの。
つまり――この子は五十四年前から、ずっと木の中で眠ってたの。」
琥珀の液体がランプの光を受けてゆらめく。
ミモザはその輝きを見つめ、少しだけ声を落とした。
「時間を閉じ込めて育てるなんて……ね、ロマンがあるでしょ?」
ルオが静かに尋ねる。
「で、ミモザ。どうするつもりだ?」
リシュアが続けた。
「これが本物なら、一財産になるのではないか?」
投機市場では、数年前に一度――家が建つほどの値で取引されたという。
金では買えない“時間の価値”が、瓶の中に閉じ込められている。
「ルーメン・ポルト五十四年……思い出した。」
リシュアが瓶を見つめながら呟く。
「確か数年前、ベル・モンマールで盗難事件があったはずだ。
梱包されておらず、再販価値が低いと報じられていた……。
まさか、その一本がどこかに死蔵されていたというのか……?」
ミモザは唇に笑みを浮かべ、ゆっくりとコルクを指で撫でた。
「そうかもしれないわね……。
――じゃあ、飲んで確かめてみましょう♡
市民の代表として、“体験的検証”を手伝うの。」
ミモザはゆっくりと栓に手をかけ、いたずらっぽく笑った。
「ま、まじっすか!?」
シエナの声が、琥珀の中で弾けた。
「どうせ表には流せないもの。クル・ノワで売ったって、たいした値はつかないわ。」
ミモザは軽く肩をすくめ、手慣れた仕草でグレンケアングラスを五つ並べた。
「飲んであげたほうが、この子も幸せよ。」
コルクが小さく鳴り、琥珀の液体が静かに流れ込む。
ランプの光を受けて、五つのグラスが金色の環を描いた。
「……香りが広がってるっすね。」
シエナが鼻を近づけた瞬間、目を丸くする。
「甘っ! フルーツ? チョコ? ウイスキーってこんないい匂いするっすか!?」
ミモザは微笑んで、グラスをゆらした。
「長く眠ってたウイスキーほど、甘くなるの。
時間がね、角を削って、丸くしてくれるのよ。」
その香りは、古い木と果実と夜明けのような匂いだった。
誰もまだ口をつけていないのに――その空気だけで、少し酔いそうだった。
シエナが勢いよくグラスを傾けた。
「……えっ、なにこれ! 最初ふわっと甘いのに、全然ツンとこないっす!
後からチョコとフルーツの香りが広がって――アルコール強いのに、むしろ優しい!
喉に入った瞬間、あったかくて……体が溶けるみたいっす!」
頬を少し赤らめながら、目を輝かせる。
その顔はまるで、上等なスイーツでも食べたかのようだった。
チュロも真似して一口。
「……美味しいけど、あんま美味しくない?」
「チュロちゃんは子供だからわからないんすよ!」
シエナがふふんと、勝ち誇る。
リシュアは静かにグラスを傾けた。
香り立ちは深く、舌の上でほどけるように変化していく。
「……濃密な琥珀だ。最初にダークハニーと熟したプラム、
それから黒糖と微かなスモーク……後半はシナモンとウッド。
――まるで時間そのものを飲んでいるようだ。」
シエナが感嘆の声を上げた。
「リシュアさん、プロっぽいっす!!」
ミモザはゆっくりグラスを傾け、香りを確かめるように一口含んだ。
「……うん、結構美味しいわね。丸みがあって飲みやすいし、香りの層も悪くないわ。」
ルオはグラスをくるりと回しながら笑った。
「チュロが正解だな。――美味しいけど、そんなに美味しくない。」
「え!? 反応悪いっす!」
シエナが勢いよく立ち上がる。
「だって――五十四年の歴史っすよ!?
半世紀以上、樽の中で生きてきた味っすよ!?
時代を見て、人を見て、それでも静かに熟成してきた――そういうロマン、感じないんすか!?」
ミモザは目を細め、まるで子どもが夢を語るのを見守るように微笑んだ。
「ふふ……可愛いわねぇ、シエナちゃん。
でもね、これ――多分ルーメン・ポルトの“18年”よ。
充分に美味しいけど、さすがに“54年の味”ではないわ。」
ルオが淡々と頷く。
「さっきリシュアが言ってた盗難事件――あの時に“54年”を名乗る偽物が大量に出回ったんだ。
つまり、これは“年齢詐称”ってやつだな。」
クル・ノワでは、大きな事件が起きるとまず屋台が増える。それから詐欺が増える。だいたい倍の速度で。
普通の街なら“便乗商法”で終わるところだが、
この街では便乗詐欺までが景気指標だ。
「当時も、クル・ノワの露店には“54年もの”が溢れてたんだよ。どの瓶にも誇らしげに“54”って書いてあった。」
ルオは笑った。
「中身は全部ノンエイジ。年齢詐称ってより――“老けメイク”だ、中身が18年なら相当親切な詐欺だな。」
ミモザがグラスを空にしていった
「中身が十八歳なら、ボトルもすっぴんで許されるわね。若いって羨ましいわぁ。」
ミモザはグラスを傾けて微笑んだ。
「――奇跡の五十四歳には、出会えなかったわね。」
「残念っす……でも、うまいっす!」
シエナが笑ってグラスを掲げる。
ミモザは楽しげに立ち上がり、棚からナッツとオリーブを取り出した。
「はいはい、今日はもう店じまい。お仕事も真実探しもおしまい。――飲んじゃいましょ♡」
ルオが小さく笑い、リシュアが肩をすくめ、チュロはオリーブをつまみながらご満悦。
グラスの中で琥珀がきらめき、クル・ノワの夜がゆっくりと更けていった。




