表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/73

第73話 シングルモルトは嘘をつかない。〜体感的検証中〜②

「ウイスキーはお金と同じだって、ルオが言ってたもん!」

唐突に、聞き覚えのある声が背後から飛んだ。


振り返ると――チュロが、いつの間にか列の隙間に立っていた。

いつもの調子で、まるで“帰ってきた常連客”のように自然に。


ルオは特に驚かず、淡々と頷く。

「あぁ……確かに、投機が盛り上がってるって話はしたな。」


シエナが笑った。

「あー、先週そんな話してたっすね。」


「うん、だから気になってて――気づいたら持ってたの。」


リシュアは顔をひきつらせる。

「……いや、お前たち。このウイスキーを“盗んだ張本人”が目の前にいるんだが……誰も気にしないのか?」


「え? だってチュロちゃん、いつもそんな感じっすよ?」


「……この街の倫理観、やっぱり狂ってる。」


ガスが大笑いした。

「なかなか渋いとこ持ってくるじゃねぇか! 酒飲みのセンスあるぜ!

 アルデンヌなんて、こんな機会でもなきゃ口にできねぇからな!」


「押収品くすねる気満々っすね!」


「いや、ちゃんと返すぜ? “テイスティング”はさせてもらうがな!」


――クル・ノワ市警局では、押収品は「一時的行政管理物」として、職員による“体験的検証”が慣例となっている。

味見は官用試飲、試着は質感評価、持ち帰りは継続観察。

帳簿上はいずれも「市民生活向上のための実地調査」とされ、

それを疑問視する職員は――いない。



ミモザが右端の一角をちらちら見ていた。

そこだけ瓶が乱雑に積まれ、他とは明らかに空気が違う。


ルオが小声で尋ねる。

「……何か、気になるものでも?」


「ルオちゃん、あの変わった形のボトル……なんとかして手に入れて♡」


「了解。」


ルオは一歩前に出て、瓶の山を眺めた。

「ふむ……やっぱり、これはひどいな。並べ方に理がない。」


ガスが眉を上げる。

「理?」


「全体の調和を乱している。秩序のない展示は、市民への侮辱だ。

 いっそ整理しておいた方が――“公共美術的価値”が上がると思う。」


「公共美術的価値? お前、また難しい言葉で持ってこうとしてんな?」


ミモザが微笑む。

「だってガスちゃん。あれだけ“審美眼”のあるあなたが、

 あんな乱れた並べ方を許すなんて、らしくないわ♡」


「う、うるせぇ。整理しようとは思ってたんだよ……!」


「なら、ここは預かって俺が並べ替えよう。」


「――待て。お前がそこまで食いつくってことは、やっぱり何かあるな?」


ルオは淡々と返す。

「何もない。ただ、美しくないだけだ。」


「それ、絶対なんかあるやつっすよ……」


「まぁまぁ♡ お互い、理想の美を追求してるだけよね?」


ガスは苦笑しながら頭をかいた。

「……だめだ。市民のものは、市警局員のものだ。つまり俺のもんだ。」


「それは立派な行政解釈だな。」


「“市民と共にある警察”ってやつだ。」


「共にありすぎるな。」


四人と一匹は肩を落とし、廊下へと引き返した。

背後では、ガスの笑い声とウイスキーの瓶がぶつかる音が混ざり合い、

昼下がりの光に滲んで消えた。



市警局を出ると、午後の陽射しが石畳を白く照らしていた。

港の方から、潮と鉄の匂いを混ぜた風が吹き抜ける。


「さすがガスさんっすね。ルオさんの目論見、秒でバレてたっす。」


「お前でも――さすがに市警局員は欺けないか。」


ルオは苦笑してポケットに手を突っ込む。

「そうだな。奴ら、“押収品の扱い”にだけは誠実だからな。」


後ろから小さな声。

「ねー、ルオ! これ、落ちてたんだけど、欲しがってたよね?」


振り向くと、チュロがいた。

両腕いっぱいに、右端のウイスキーの塊を抱えて。

瓶が陽光を反射して、キラキラと輝いている。


「いいぞ、チュロ。それが――ほしかったやつだ。」


「チュロちゃん、偉いわよぉ〜♡」


「ルオが欲しそうだったから、拾ったんだ!」


ルオは微笑む。

「流石チュロだな。えらいぞ。」


ガスに仕掛けるフリをしておけば、

“価値がありそう”と感じたものをチュロが拾ってくる。

それは彼の癖であり、どこか優しさでもあった。

チュロにとって“盗む”は、悪意ではなく“気づき”の一種なのだ。


「……盗んだものを、もう一回盗むって、どういう倫理構造なんだ。」


「“再流通”だよ。経済用語で言えば。」


「まぁ♡ 循環型社会ってやつね。」



机の上には、拾ってきたウイスキーの瓶が五本。

ラベルは剥がれ、文字は掠れ、どれも薄汚れている。

長い年月を経て倉庫の奥で眠っていたような佇まいだった。


ルオが尋ねる。

「で、ミモザ。お目当てはどれなんだ?」


「価値がありそうには見えないな。」


「どれも、うすぎったないっすね。逆に……価値がありそうにも見えるっすね。」


その様子は、値段を知らない宝石商の目利きのようだった。

光の加減ひとつで、五本の瓶は“宝”にも“ゴミ”にも見える。


「んー、これ? オレはこれが高いと思うの!」


チュロの指先が触れた瓶は、首がわずかに歪んでいた。

乾いたコルクの下で、琥珀色の液が金の粒のように揺れている。


「アタシはこれっすかね!」


封蝋が黒ずみ、焦げたような一本。

かすかに残ったラベルの端に、“ISLA”の文字。

遠い島への記憶を封じ込めた羅針盤のようだった。


「どっちもハズレね〜♡」


「えー! オレの、絶対高いと思ったのに!」


「チュロちゃんのはね、いちばん安いバーボンウイスキーの現行もの。

 で、シエナちゃんのは惜しいわ。ポルト・リュミエール産なのは合ってるけど……

 ピートが効いてて美味しいだけで、高くはないのよね♡」


「正解は――これ。」


ミモザがつまみ上げたのは、

五本の中で唯一、ラベルも刻印もない比較的きれいな瓶。

光を受け、透明な琥珀が静かに揺れる。


「……ラベルを貼った跡がないように見えるな。」


「そ、正解♡ 刻印もラベルもないのは、

 “名より味が残ればよい”――初代蒸留責任者の遺言によるものなの。」


「名より味、か。……ずいぶん洒落た哲学を持った職人だな。」


「でしょ♡ 名前を捨てた方が高く売れるなんて――まるでルオちゃんの商売みたいね。」


「……そんないいものなのに、ガスさんが見逃したんすか?」


「知らないのも無理ないわね。このボトルは――225本しか製造されていないのよ。」


それは225本だけ造られた、〈ルーメン・ポルト五十四年〉。

ポルト=リュミエール港外れ、ルミナ半島の小さな蒸留所で、戦後の混乱期に国家記念として秘蔵樽が開かれ、その一部だけが静かに瓶詰めされたと記録にある。


「無色の厚手クリスタルよ。刻印もラベルも封蝋も一切なし。

光を受けると表面の凹凸が波みたいに揺れて、

底の曲面に沈む琥珀が――まるで海を閉じ込めたみたいに光を返すの。

栓はポルトの旧造船所の黒檀コルク。手に取ると、ほんの少し潮の香りが残るわ。」



「五十四年に作られたってことっすか? ……あれっ、五十四年って、五十年に一度の“当たり年”とか、そういうやつっす?」


ミモザは吹き出しそうになりながら、優しく首を振った。

「違うのよ、シエナちゃん。それはワインの話。

 ウイスキーは“作った年”じゃなくて、“樽に詰めた年”で語るの。

 つまり――この子は五十四年前から、ずっと木の中で眠ってたの。」


琥珀の液体がランプの光を受けてゆらめく。

ミモザはその輝きを見つめ、少しだけ声を落とした。

「時間を閉じ込めて育てるなんて……ね、ロマンがあるでしょ?」


ルオが静かに尋ねる。

「で、ミモザ。どうするつもりだ?」


リシュアが続けた。

「これが本物なら、一財産になるのではないか?」


投機市場では、数年前に一度――家が建つほどの値で取引されたという。

金では買えない“時間の価値”が、瓶の中に閉じ込められている。



「ルーメン・ポルト五十四年……思い出した。」

リシュアが瓶を見つめながら呟く。

「確か数年前、ベル・モンマールで盗難事件があったはずだ。

 梱包されておらず、再販価値が低いと報じられていた……。

 まさか、その一本がどこかに死蔵されていたというのか……?」


ミモザは唇に笑みを浮かべ、ゆっくりとコルクを指で撫でた。

「そうかもしれないわね……。

 ――じゃあ、飲んで確かめてみましょう♡

市民の代表として、“体験的検証”を手伝うの。」



ミモザはゆっくりと栓に手をかけ、いたずらっぽく笑った。


「ま、まじっすか!?」

シエナの声が、琥珀の中で弾けた。


「どうせ表には流せないもの。クル・ノワで売ったって、たいした値はつかないわ。」

ミモザは軽く肩をすくめ、手慣れた仕草でグレンケアングラスを五つ並べた。

「飲んであげたほうが、この子も幸せよ。」


コルクが小さく鳴り、琥珀の液体が静かに流れ込む。

ランプの光を受けて、五つのグラスが金色の環を描いた。


「……香りが広がってるっすね。」

シエナが鼻を近づけた瞬間、目を丸くする。

「甘っ! フルーツ? チョコ? ウイスキーってこんないい匂いするっすか!?」


ミモザは微笑んで、グラスをゆらした。

「長く眠ってたウイスキーほど、甘くなるの。

 時間がね、角を削って、丸くしてくれるのよ。」


その香りは、古い木と果実と夜明けのような匂いだった。

誰もまだ口をつけていないのに――その空気だけで、少し酔いそうだった。


シエナが勢いよくグラスを傾けた。

「……えっ、なにこれ! 最初ふわっと甘いのに、全然ツンとこないっす!

 後からチョコとフルーツの香りが広がって――アルコール強いのに、むしろ優しい!

 喉に入った瞬間、あったかくて……体が溶けるみたいっす!」


頬を少し赤らめながら、目を輝かせる。

その顔はまるで、上等なスイーツでも食べたかのようだった。


チュロも真似して一口。

「……美味しいけど、あんま美味しくない?」


「チュロちゃんは子供だからわからないんすよ!」

シエナがふふんと、勝ち誇る。


リシュアは静かにグラスを傾けた。

香り立ちは深く、舌の上でほどけるように変化していく。

「……濃密な琥珀だ。最初にダークハニーと熟したプラム、

 それから黒糖と微かなスモーク……後半はシナモンとウッド。

 ――まるで時間そのものを飲んでいるようだ。」


シエナが感嘆の声を上げた。

「リシュアさん、プロっぽいっす!!」


ミモザはゆっくりグラスを傾け、香りを確かめるように一口含んだ。

「……うん、結構美味しいわね。丸みがあって飲みやすいし、香りの層も悪くないわ。」


ルオはグラスをくるりと回しながら笑った。

「チュロが正解だな。――美味しいけど、そんなに美味しくない。」


「え!? 反応悪いっす!」

シエナが勢いよく立ち上がる。

「だって――五十四年の歴史っすよ!?

 半世紀以上、樽の中で生きてきた味っすよ!?

 時代を見て、人を見て、それでも静かに熟成してきた――そういうロマン、感じないんすか!?」


ミモザは目を細め、まるで子どもが夢を語るのを見守るように微笑んだ。

「ふふ……可愛いわねぇ、シエナちゃん。

 でもね、これ――多分ルーメン・ポルトの“18年”よ。

 充分に美味しいけど、さすがに“54年の味”ではないわ。」


ルオが淡々と頷く。

「さっきリシュアが言ってた盗難事件――あの時に“54年”を名乗る偽物が大量に出回ったんだ。

 つまり、これは“年齢詐称”ってやつだな。」


クル・ノワでは、大きな事件が起きるとまず屋台が増える。それから詐欺が増える。だいたい倍の速度で。

普通の街なら“便乗商法”で終わるところだが、

この街では便乗詐欺までが景気指標だ。


「当時も、クル・ノワの露店には“54年もの”が溢れてたんだよ。どの瓶にも誇らしげに“54”って書いてあった。」

ルオは笑った。

「中身は全部ノンエイジ。年齢詐称ってより――“老けメイク”だ、中身が18年なら相当親切な詐欺だな。」


ミモザがグラスを空にしていった

「中身が十八歳なら、ボトルもすっぴんで許されるわね。若いって羨ましいわぁ。」

ミモザはグラスを傾けて微笑んだ。

「――奇跡の五十四歳には、出会えなかったわね。」


「残念っす……でも、うまいっす!」

シエナが笑ってグラスを掲げる。


ミモザは楽しげに立ち上がり、棚からナッツとオリーブを取り出した。

「はいはい、今日はもう店じまい。お仕事も真実探しもおしまい。――飲んじゃいましょ♡」


ルオが小さく笑い、リシュアが肩をすくめ、チュロはオリーブをつまみながらご満悦。

グラスの中で琥珀がきらめき、クル・ノワの夜がゆっくりと更けていった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ